お城の歴史

加賀100万石の【金沢城の歴史】をまるっと解説

金沢城の歴史

今回は「金沢城の歴史」を紹介していきます。

こんな人にオススメの記事です
  • 金沢城の歴史をおおまかに知りたい人
  • お城に興味を持ち始めた人
  • 金沢城へ行く前に予習しておきたい人
  • 金沢城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人

まずは金沢城の歴史のポイントを3つ紹介しておきます。このポイントを押さえておくだけでも金沢城の歴史をおおまかに知ることができます。

  • 金沢城はもともと浄土真宗のお寺だった
  • 前田利家が金沢城を築いて、加賀100万石の基礎を作る
  • 建物の復元が進む金沢城、史実を尊重した復元は高い評価を受けている

この記事で金沢城の歴史に詳しくなって、観光も歴史ドラマも楽しんでいきましょう!

金沢城とはどんなお城?

加賀100万石の名城・金沢城

金沢城 石川門金沢城 石川門

金沢市には金沢21世紀美術館やひがし茶屋、兼六園など観光スポットはたくさんあります。そして金沢城もそのうちの一つ。

金沢城は織田信長や豊臣秀吉に仕えた前田利家によって戦国時代末期に築かれました。前田利家から幕末まで前田家が一貫して金沢を治めています。

金沢城では時代によって違う技法で積まれた石垣を見ることができ、現存建物や復元した建物を眺めながら散策することができます。

金沢の街は利家以来、加賀100万石の城下町として発展してきました。江戸時代には江戸・大阪・京都に次ぐ人口規模だったと言われていて、大きな戦災や災害に遭うこともなく城下町の風情を現在に残しています。

石垣の博物館と呼ばれる金沢城

金沢城のさまざまな石垣金沢城のさまざまな石垣

金沢城は江戸時代を通して何度も雷や火災の被害を受けてきました。そしてその都度、建物だけでなく石垣も修理・再建されてきました。

そのため、金沢城では様々な時代の積み方(技法)の石垣を堪能することができます。

自然の石をそのまま積んでいく「野面積み」、表面に出る面の形を整えた「打ち込み接」、キレイな方形に整えて石同士を密着させた「切り込み接」など、違う積み方の石垣を城内各所で見比べることも、金沢城の楽しみ方の一つです。

様々な時代の積み方の石垣が城内各所にあることから、金沢城は「石垣の博物館」とも呼ばれています。

金沢城の歴史

ここからは戦国時代〜昭和・平成にかけての金沢城の歴史を紹介していきます。

戦国時代の金沢城

金沢城はもともと金沢御堂というお寺だった

金沢城周辺の地形金沢城周辺の地形

金沢城は犀川と浅野川に囲まれた小立野台地の先端に築かれています。

ここにはもともと「金沢御堂(みどう)」「尾山御坊」と呼ばれる浄土真宗のお寺が建てられていました。

金沢のある加賀という国は戦国時代にはお寺、一向一揆によって武士が追い出されて「百姓の持ちたる国」と呼ばれていました。そして1546年に創建された金沢御堂はその拠点となっていました。

金沢御堂はお寺といっても石垣や堀を持つ要塞。御堂は阿弥陀仏をまつる宗教施設でもあり、政庁でもありました。

信長が加賀へ侵攻し、百姓の国を終わらせる

百姓が治める加賀へ侵攻してきたのが織田信長でした。信長は家臣の柴田勝家に命じて一向一揆を殲滅し、金沢御堂も制圧していきます。

信長は加賀半分を勝家の甥でもある佐久間盛政に与えました。盛政は金沢御堂を取り込むように新しいお城を築いて、「尾山城」とします。

のちに信長が本能寺の変で死ぬと、柴田勝家と豊臣秀吉が対立。盛政は勝家側として秀吉と戦うも敗北してしまいます(賤ヶ岳の戦い)。捕らえられて盛政は、秀吉からの家臣の誘いを蹴った上で処刑されています。

加賀を得た秀吉は利家に加賀を与えました。

前田利家が金沢城を築き、金沢発展の基礎を作る

金沢城金沢城

前田利家はそれまで能登を領地としていました。秀吉から新たに加賀を領地としてもらったので、利家は能登の小丸山城から尾山城へと居城を移しています。

利家は築城の名手と言われていた「高山右近」を招いて尾山城を大改修。名前を尾山城から金沢城へと変えました。

利家は秀吉の重臣として忙しく、金沢にはあまりいられなかったという。けれども利家は金沢城の改修には熱心で、金沢城と城下町を作り上げていきました。

利家が金沢城を築いた理由

利家が秀吉から加賀をもらった時期は、まだ秀吉の天下ではありませんでした。

柴田勝家を倒した後の秀吉は徳川家康と信長の三男・織田信雄と対立していきます(小牧・長久手の戦い)

秀吉と家康・信雄の対立に関連して、北陸では能登・加賀の前田利家と越中の佐々成政とが対立するようになっていました。(利家は秀吉側、成政が家康・信雄側です)

利家は小丸山城より金沢のある加賀に居城を移すことで、成政の領地である越中と距離を取りました。

また信長と勝家によって殲滅させられた一向一揆の残党を鎮圧するためにも、利家はもともとお寺が建てられていた金沢を居城にすることとします。

江戸時代の金沢城

金沢城は何度も火災にあうも、そのつど再建されてきた

江戸時代を通して金沢城は何度も火災にあっています。

現在の金沢城には天守はありません。利家の時代には天守が建てられていたけど、1602年に落雷によって焼失。以降天守が再建されることはなく、代わりに三階櫓を建てることで代用天守としていました。

1620、1631、1759年など大きな火災によって多くの建物を失っています。

何度も火災に見舞われた金沢城ですが、前田家が再建・修理を行って幕末までお城を守り続けていました。

5代目前田綱紀から始まった兼六園

冬の兼六園冬の兼六園

兼六園とは水戸の偕楽園、岡山の後楽園とならぶ日本三名園のひとつに数えられる庭園。

兼六園は1676年に5代藩主・前田綱紀が別荘として庭園「蓮池庭」を造ったことに始まります。

綱紀以降、歴代の藩主によって兼六園は手を加えられてきて、13代藩主・前田斉泰のときには現在の形になっています。

兼六園という名前の由来は「宏大、幽邃(ゆうすい)、人力、蒼古(そうこ)、水泉、眺望」の六勝を兼備することから名付けられました。また前田家ではなく、白河藩主・松平定信が命名しています。

明治時代の金沢城

明治維新後は陸軍の部隊が置かれ、司令部となった金沢城

陸軍の司令部として使用されていた建物陸軍の司令部として使用されていた建物

幕末・明治維新をとおして金沢城は戦場になることはなく、戦災にあうことはありませんでした。

明治になると金沢城は存城処分としてお城の存続が決定され、陸軍の部隊が置かれることになりました。陸軍の管轄になって以降は、不要な建物や門が取り壊されていきます。

1881年には火災によって、二の丸御殿、橋爪門、五十間長屋など大半の建物を焼失。84年にも鼠多門と続長屋を焼失しています。明治末には百間堀や白鳥堀なども埋められていきます。

のちに二の丸に陸軍司令部が置かれ、1945年の終戦まで金沢城は陸軍の施設として使われていきました。

昭和・平成の金沢城

大学のキャンパスだった金沢城、平成になって公園になる

金沢城金沢城

戦後1949年から金沢城は金沢大学キャンパスとして利用されます。石川門が大学の正門でした。

50年には石川門が、57年には三十間長屋が国の重要文化財に指定されています。

78年に決定された金沢大学の移転が95年に完了すると、翌96年から金沢城公園となり、整備・公開されました。

また2008年には金沢城跡として国の史跡に指定されています。

橋爪門など復元が進む金沢城、復元建物は高い評価を受けている

復元された菱櫓と五十間長屋復元された菱櫓と五十間長屋

金沢城では「歴史的建造物の復元により、往時の城郭の雰囲気が感じられ、歴史を偲べる公園」として整備が進められています。

99年から第1期復元工事が始められ、現在は2015年から始められた第3期工事として鼠多門・鼠多門橋の復元と石垣の保全が進められています。

第1期、第2期工事では菱櫓や五十間長屋、橋爪門、河北門、石垣の保全、堀の水堀化などが行われてきました。建物の再建だけではなく、石垣や堀の整備も進められてきました。

金沢城での復元工事は発掘調査や文献、絵図、図面、などを総合的に検討し、史実を尊重した復元例として全国的にも高い評価を得ています。

金沢城の歴史年表

1546 金沢御堂が創建される
1580 柴田勝家が金沢御堂を制圧
佐久間盛政が城主となり、尾山城とする
1583 賤ヶ岳の戦いの後、前田利家が金沢城を居城とする
1592 利家が子の利長に石垣工事を命じる
1599 内総構え堀を造る
1602 落雷によって天守を焼失する
1610 外総構え堀を造る
1620 金沢城が火災にあう
1631 金沢町の火災によって金沢城も延焼する
1759 金沢大火によって金沢城の建物も焼失
1788 石川門の普請が完了する
1808 二の丸御殿が全焼
1809 橋爪門、二の丸菱櫓の工事が完了する
1858 三十間長屋が完成する
1871 金沢城が兵部省(のちの陸軍省)の管轄になる
1881 火災によって二の丸などを全焼する
1949 金沢大学が開学される
1950 石川門が重要文化財に指定
1957 三十間長屋が重要文化財に指定
1978 金沢大学の城外への移転が決定する。
1995 金沢大学の城外への移転が完了する
1996 石川県が国から金沢城跡を取得。金沢城公園として整備する
1999 菱櫓などの復元工事を始める
2001 菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓などの復元工事が完了
2006 河北・橋爪・石川門の整備、いもり堀の水堀化、石垣の保全、玉泉院丸跡の調査・整備が始められる
2008 鶴丸倉庫が重要文化財に指定
金沢城跡が国の史跡に指定される
2010 河北門、いもり堀の復元工事が完了する
2015 橋爪門二の門、玉泉院丸庭園が完成する
2018 鼠多門、鼠多門橋の復元工事が始まる

金沢城の歴史 まとめ

今回は金沢城の歴史を紹介しました。いかがでしたか?

全国にはたくさんのお城があります。それぞれのお城の歴史には築いた武将や城主になった人などの個性が表れています。歴史を知ることでより観光や歴史ドラマなどを楽しむことができます。

最後にもう一度ポイントを整理しておきます。この3つのポイントを覚えておくだけでも良いでしょう。

  • 金沢城はもともと浄土真宗のお寺だった
  • 前田利家が金沢城を築いて、加賀100万石の基礎を作る
  • 建物の復元が進む金沢城、史実を尊重した復元は高い評価を受けている

金沢城に限らずいろいろなお城の歴史を知って、お城観光や歴史ドラマを楽しんでいきましょう。

参考資料