お城のいろいろ

お城の歴史 鎌倉時代 源頼朝はいかに鎌倉を守ったのか!!

元寇防塁

源頼朝の防衛戦略ー鎌倉城と切通し

1180年、平氏打倒のため挙兵した源頼朝は源氏ゆかりの地である鎌倉へ入り、のちに鎌倉幕府をたてました。

当時、京都では鎌倉をお城と理解していたようです。
しかし鎌倉幕府には豊臣秀吉の大坂城伏見城や江戸幕府の江戸城のようなお城はありませんでした。

ではどうしてお城と理解されていたのでしょうか?

それは鎌倉が天然の要害であったからです。
鎌倉は北・東・西の三方を険しい山々に囲まれ、南は相模湾に面した理想的な地形でした。

鎌倉の山々には「鎌倉七口」と言われる七つの出入り口があり、「切通し」と呼ばれています。さらに「切通し」の周囲には堀などの防御構造の強化も図られていました。

周囲を山々や海に囲まれ、出入り口は鎌倉七口と言われる切通しで厳重に守られている、このことから当時の鎌倉はお城と理解されていました。
周囲の自然環境を利用して鎌倉という街自体をお城・城塞都市にしました。

しかし、平地が限られるので後の江戸のような発展はなかったと思います。

名越切通 Wikipedia「名越切通」より
名越切通 Wikipedia「名越切通」より

鎌倉幕府最大のピンチー元寇・蒙古襲来

元のフビライ・ハンは1260年と1274年の2回にわたって日本に軍隊を送りました。
これがよく知られている元寇(蒙古襲来)です。

1度目の元寇である文永の役では、3万の元軍が博多湾沿岸に上陸。
当時騎馬での一騎打ちが主流だった日本に対して、元軍は火薬を使い集団戦法で圧倒しました。

しかしこの時の元軍には日本を占領しようという気はなかったようで、ある日突然いなくなっていたそうです。

その後、フビライ・ハンからの使者が数回日本を訪れているのですが、執権北条時宗は全員を斬首にしています。
人口も領土面積も国力も当時世界№1だったモンゴル帝国ー元を相手によく無視をできたものだと思います。

その裏で北条時宗は再度の襲来に備えて博多湾沿いに約20㎞にわたり、「石築地(いしついじ)(防塁)」を御家人に築かせました。

築地の場所については長崎県平戸から山口県にまで築かれたなど諸説あります。
石築地の規模は高さ2~3m、幅2mだったようです。九州各地の御家人に作業を分担させ半年で完成させました。
そのため、場所によって積み方や石の色が異なっています。

2度目の襲来の弘安の役では、石築地が効果を発揮します。
元軍は石築地があるため上陸できず、得意の騎馬や集団戦法が発揮できませんでした。
そして日本軍は海上でのゲリラ戦術を駆使して戦いを優位に進めていました。そこへ暴風雨が九州を襲ったために元軍の船の大半が沈み、大半の兵士が溺死しました。

博多湾に築かれた防塁・石築地
防塁跡 Wikipedia「元寇」より
防塁での戦いを描いている「蒙古襲来絵詞」

参考資料