日本史を語るうえで織田信長の存在が欠かせないようにお城を語るうえでも織田信長の存在は欠かせません。
東京、大阪、名古屋や多くの都市にはお城があります。
そしてみなさんがお城と聞いてイメージするのは「高い石垣の上に白亜の大天守がそびえ立ち、その周りには城下町が広がっている」というものだと思います。
このイメージの原型を創りあげた人物こそ「織田信長」なのです。
ではどうして信長が現代にまで残るお城の原型を創ったのかをみていきましょう。
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那古野城・清須城・勝幡城
1534年(天文3年)、織田信長は現在の愛知県愛西市・稲沢市にまたがる勝幡(しょばた)城で生まれたとされています。
1536年、2歳で那古野城城主に。
1551年、父・織田信秀が急死。そのため織田家当主に。
1555年、清須城に移る。
1559年、尾張統一。
殿!今日はそれがしに織田家のお城について聞かせてください!
なんだサルか。よいぞ。おぬしにもきかせてやろう。
なるほど。勝幡城は平城で周囲を堀と土塁で囲まれていたんですね!しかし山城と比べると攻めやすそうですが…
山城のように高低差を利用することはできないが平城をなめてかかるなよ!周りの川や湖、沼、田んぼを利用して攻めにくくしておる!
それにわしには山城を築きたくても築けない理由があった。それはわしの生まれた尾張には山がなかったからだ。
あっ、確かに尾張国には山城に使えそうな山がありませんね。
では清須城や那古野城(なごやじょう)はどのようなお城だったのですか?
清須城も那古野城も基本的には勝幡城と似たような構造であったな。
しかしわしの息子の信雄(のぶかつ)が清須城を改築し、徳川家康が後に名古屋城を築いたから、わしがいたころの遺構はほとんど失われておるからハッキリとはわからん。
わしがいたころの清須城にも那古野城にも困った問題があってな…
も、問題ですか?
うむ。
お城の周りに家臣がそれぞれ屋敷を構えるわけだが、重臣どもがそれぞれお城のような屋敷を持っておったことだ。
清須城や那古野城の周りに重臣のお城があったということですか?
そういうことだ。
上の図のように清須城の周りに北矢蔵、南矢蔵、守護代館があってこれらが重臣どもの屋敷だった。大きさこそ清須城より小さいが構造は似ており守備力はそうとう持っておった。
重臣がお城を持ってどのような問題があったのですか?
まだ気づいておらんのか、サルめ。
わしは織田家当主といっても権力をすべて握っていたわけではなかった。なかなか言うことを聞いてくれんかった( ;∀;)
なんと、信長様にそのような態度をとるとは!!
言うことを聞かないくらいならまだしも、合戦中に勝手に退却したり、わしの弟の信行(のぶゆき)と手を組んでわしを殺そうとしたこともあった。もちろん弟の信行は返り討ちにしてやったがな。
さすが信長様です。
まだこの頃は、清須城、那古野城を中心としつつも重臣どもの屋敷が分立・並列的に存在していた。
だからわしの権力は重臣どもの分立的な軍事力に頼ったものになっていたから、わしは尾張連合の盟主でしかなく絶対的な君主とはほど遠かった…
だから1560年の桶狭間(おけはざま)の戦いはかなり厳しいものだった。
今川義元が2万5千もの大軍で攻めてきたのだが、重臣どもがすばやく動いてくれんかったからわし自らが3千の兵で奇襲することにしたのだ。
おぉ、あの有名な桶狭間ですね。その戦いで信長様の名前が全国区になりました。
もしかしたら重臣の中には、いざとなったら寝返りを考えておったヤツもいたかもしれんな。
なんと信長様が大変なときに寝返りを!!
だからわしはその時から織田家の絶対的君主として権力を集中させることを目指したのだ。
小牧山城
桶狭間の戦いののち、織田信長は三河の徳川家康と同盟を組みました。
そして、美濃国(現在の岐阜県南部)の斎藤義龍・竜興と戦いを繰り広げていきます。
1560年、桶狭間の戦い
1563年、小牧山城を築く。
1567年、美濃攻略。岐阜城へ移る。
信長様!信長様は清須城を離れ小牧山城へ移るわけですが、なぜわざわざ不便な小牧の山へお城をお造りになられたのですか?
サルよ、まだまだ勉強がたらんな。
清須は周りに大きな市場もあり、河川を使った水運も発達していて尾張の中心都市であった。だから清須を捨てるのはおしくもあった。
当時の日本の戦国大名の間では山城がブームになっていてな。
清須のような、古い室町幕府の価値観に則った平地の守護館ではなく、大名自身が山城の最高所に住み、家臣は身分に応じた場所に屋敷を構えておったのだ。
しかし山のてっぺんは不便ではないですか?
確かに不便ではあるが、大名たちが自力で地域を治め、家臣を従えさせていく政治体制に対応した形だったのだ。
上杉謙信の春日山城(新潟県上越市)、毛利元就の吉田郡山城(広島県安芸高田市)、長宗我部元親の岡豊城(高知県南国市)が有名ですね!
うむ。
しかし、わしはそういった大名から遅れておったから、ちょっとうらやましかったのだ。
だからわしは自力で家臣を従えさせ、美濃を攻略するために小牧山城へ拠点を移すことにしたのだ。
便利な平地の清州から小牧へ移るときには家臣に抵抗されると思ってな、
そこで最初に小牧より遠くて高い山へ移ると伝えたのだ。
それで家臣たちはどのように?
予想通り反対してきおったわ。だからより清州に近い小牧に変えると言ったら素直に言うことを受け入れてくれた。
さすが信長様です。
しかし信長様、下の写真を見ると大手道が山の途中まで直線で中腹から折れ曲がって主郭へ到達しています。
お城の道が直線というのは防御の面で不利ではないでしょうか?敵が勢いよく突入することができてしまいます
おぬしもなかなか目の付け所が良いな。その大手道はわざと直線にしてある。
それはなぜでしょうか?
上の写真で、主郭はわしのプライベート空間で、仕事は麓の居館で行っておった。
そして山の中腹は家臣どもの屋敷を並べていた。
大手道を中腹までは直線で中腹以上は折れ曲げることで、わしの屋敷と家臣どもの屋敷とで防御力に差を持たせることでハッキリと主従関係を意識させることを目的としておる。
そして主郭の周りは石垣で、麓の居館の周りには土塁で囲ってある。
なるほど!清須城では家臣の一部の屋敷は清須城と同等の防御力を持っていましたね。
それを小牧山城では禁止したということですね!
そういうことだ。しかしまだまだ抵抗する家臣もいてな、小牧から離れたところに屋敷を構える家臣もいたな。
なかなか難しいものですね…
さらに主郭への通り道に巨石を置いて通る者を圧倒するようにしむけてある。
岐阜城
1567年、美濃攻略。稲葉山城を岐阜城と改め、移る。
1568年、上洛戦。京都周辺を支配下に置く。
1570年、姉川の戦い。
1571年、比叡山焼き討ち。
1575年、長篠の戦い
1576年、安土城築城開始。
岐阜城についてはポルトガルの宣教師の文書などがたくさん残っていて当時の岐阜城のことがよく分かりますね。
うむ、そうであったな。あ奴らからはいろいろ珍しい品をもらったな。
美濃を制圧し、それまでの稲葉山城を小牧山城をより発展させた城として岐阜城として改築したのだ。
どのように発展させたのでしょうか?
上杉謙信の春日山城(新潟県上越市)や毛利元就の吉田郡山城(広島県安芸高田市)は普段の仕事をする御殿・居館と防御施設としてのお城を一緒にし、巨大な山城に住んでした。
それより以前は、一乗谷城(福井県福井市)のように普段の仕事をする御殿・居館といざという時立てこもるお城は山の上と麓で別れた構造になっておった。岐阜城もわし以前からそれと同じ構造になっておった。
大名も家臣も普段は山の麓で生活し、山の上のお城は緊急時のためだけの避難場所ですね!
そうだ!
しかし、わしは山の上をわしとわしの家族のためだけのプライベート空間とし、麓の御殿で仕事をしていた。
これは小牧山城でも同じだな。
岐阜城ではわしの許可なく山の上へ登ることを禁じ、そして、わしの身の回りの世話のために家臣の子供ら12~17歳を100人ほど親衛隊として山の上においていた。
もちろん子供らは家臣が裏切らぬようにするための人質でもあるわけだがな!
それがしが無許可で登った時は失礼いたしました…
首が刎ねなくてよかったな。
そして山麓御殿には小牧山城よりさらに大きな石を並べた通路や大小5か所の庭園もつくったな。
庭園は水路や岩盤を巧みに用いていてとても美しいものでした。
さらに岐阜城の建物の瓦には金箔を貼ったもの使用した。
山頂と麓で300mという標高差を利用したり、巨石、金箔瓦、庭園すべてがわしが家臣に対して絶対的な権力者であることを知らしめるために用いたことであった。
家臣に対して絶対的な権力者となることで天下布武への道が開けるということですね!
安土城
1576年、安土城築城開始。
1582年、本能寺の変。安土城炎上。
いよいよ、安土城(滋賀県近江八幡市)ですが、安土城というと史上初の天主、総石垣というイメージですが。
確かに安土城は史上初の天主に総石垣であったが、
それはわしがこれまで小牧山城や岐阜城でやってきたようにわし自身が絶対的権力者とする求心的な社会を目指してきたことの延長線上にあることなのだ。
その集大成が安土城ということですね。それがしも初めてお目にしたときは度肝を抜かれました。
そうであろう。誰も天主など考えつかぬであろう。
滋賀県近江八幡市にある「安土城 信長の館」ではVR安土城シアターというもので安土城を体験できるそうです。
な、スゴイであろう。
安土城の山頂部分にはわしと家族が住んだ天主・詰の丸(現・二の丸)、客人との対面に用いた御殿のある本丸、特別なおもてなしのために利用した御殿のある三の丸、などお城の中心施設があった。
山の中腹から山麓にかけて重臣の屋敷、さらに下の山麓の城下には武士の屋敷と町屋が立ち並んでいた。
信長様はこれまで求心的な社会を目指してこられました。だから、信長様とご家族は天守やその周りにお住まいになり、家臣はさらに周りの山の中腹から山麓に身分に応じた場所に住んだというわけですね。
階層的な序列を意識せざるをえない構造になっていますね!
お前も理解してきたな!
岐阜城に続いて金箔瓦を用い、天主内部には吹き抜けや様々な障壁画を飾り豪華絢爛にしてある。
安土城以前のお城にも天主のような重層建築物、石垣、瓦を用いたものはあった。
しかしわしはこれらを用いることで、お城の中心部を特別な空間とし、城全体を求心的な構造へ変革するために用いたまでだ。
さらに家臣の屋敷には瓦などの使用を認めなかったのも信長様の権力をアピールするためですね。
織田家の領地が広くなって各地にお城を築く必要が出てきたが、それらのお城もすべてわしの許可が必要とした。
1. 位置、場所の決定
2. 規模
3. 建物の建築工事、土木工事の責任者と協力者
4. 天守構築の有無
5. 瓦の採用
6. 石垣の使用
お城築城を許可制とすることで家臣にとっては成果を上げて新たな領地を得ることに加えて、どのようなお城の築城許可をもらえるかということも褒美となったわけですね!それがしの長浜城のように。
すべてはわしの権力のためだ。
安土城以前のお城と、それ以後のお城を決定的に分けるものは石垣でも天主の有無でもない。
お城における求心的な構造となっているか否かだ。
安土城以前は大名の屋敷と家臣の屋敷が横並びに存在していたものが、安土城を境に大名の屋敷、天主を中心とした求心的な構造へと変革し、すべての権力を大名へ集中させたということですね。
さらに瓦や石垣には防衛上の利点もあったのだ。
防衛上の利点ですか?
そうだ。わしはずっと前から鉄砲の有効性に注目していることは知っているな!?
鉄砲は弓と違い、誰が撃っても威力は一緒だ。もちろん敵に当てるには練習が必要だがな。
だからわしは鉄砲を重要視してきたわけだが、ちょっと困った敵がいてな…
本願寺や比叡山延暦寺が寺院に立てこもりやがったのだ!
あいつらにはそれがしも苦労しました。
寺院は古くから石垣、礎石を用いた建物、瓦を使用していた。
寺院の多くは瓦や土壁を用いた重量のある建築物で、それを支えるために礎石や石垣が必要であった。
わしが本願寺や一向一揆など寺院に立てこもる敵に苦労したのには、寺院が耐火性、対鉄砲に優れていたからなのだ。
お城での塀や柵、建物にはそのままのむき出しの丸太、板を用いていたが当然燃えやすかったし、鉄砲の玉を防ぐこともできなかった。
しかし、寺院は瓦に土壁づくりで、鉄砲は効果が薄く、耐火性にも優れていた。そこからわしの城にもこれらを取り込もう思った。
なるほど、あいつらのしぶとさは寺院の建物のおかげなのですね!
そして重層建築物からの鉄砲による立体的な射撃がやっかいであった。
なのでわしの城には土壁の塀、重層建築物(天主、やぐら)を用いることにし、そのために礎石や石垣が必要であった。
そしてそのまま取り入れるだけでなく、お城を求心的な構造へ変革するためにも用いたのだ。
すべて理にかなっていますね。さすがは信長様です。本日はありがとうございました。
まとめ
・鉄砲を重要視し、お城へ瓦、礎石建物、石垣を大々的に用いた。
今日、紹介したお城
所在地 清須市朝日城屋敷1番地1
遺構 土塁一部
開館時間 午前9時から午後4時30分まで(入館は午後4時15分まで)
休館日 月曜日〈休日の場合は直後の平日〉、12月29日から31日 ただし、桜の花見期間・清洲城信長まつり期間は開館
アクセス 名鉄 名古屋本線新清洲駅から徒歩15分
JR 東海道本線清洲駅から徒歩15分または
きよすあしがるバスオレンジルート
城北線 星の宮駅から徒歩20分
名古屋第二環状自動車道 清洲東インターから車5分
名古屋高速道路 清須出口から車5分
※無料駐車場あり。
所在地 愛知県名古屋市中区本丸1−1
遺構 石碑(名古屋城二の丸内)
開園時間 午前9時~午後4時30分 ただし、天守閣・本丸御殿へのご入場は午後4時まで
休園日 12月29日~31日、1月1日(4日間)ただし、催事等により変更となる場合があります。
アクセス 地下鉄・名城線 「市役所」 下車 7番出口より徒歩 5分
・鶴舞線 「浅間町」 下車 1番出口より徒歩12分
市バス・栄13号系統(栄~安井町西) 「名古屋城正門前」
・なごや観光ルートバス「メーグル」
・基幹2号系統 「市役所」 下車 徒歩5分
名鉄 瀬戸線 「東大手」 下車 徒歩15分
車 名古屋高速1号楠線 「黒川」 出口から南へ8分
名古屋高速都心環状線 「丸の内」 出口から北へ5分
所在地 愛知県小牧市堀の内1丁目
遺構 石垣 曲輪 井戸 土塁
開館時間 9:00~16:30(入館は16:15まで)
休館日 第3木曜日・年末(12月29日~31日)※ ただし、祭日の場合は翌日
アクセス ・地下鉄「名古屋」駅から、「栄」駅で名城線に乗換え、地下鉄「平安通」駅で上飯田線・名鉄小牧線に乗換え、名鉄「小牧」駅下車。徒歩25分または名鉄バス・ピーチバス・小牧巡回バスに乗り換え、「小牧市役所前」バス停下車。徒歩10分
車「小牧IC」より約5分
所在地 新潟県上越市中屋敷
遺構 土塁 曲輪 堀切 井戸 虎口
アクセス トキ鉄・妙高はねうまライン「春日山駅」より徒歩40分(春日山神社・謙信公銅像まで)
頸城バス「中屋敷」下車徒歩20分
頸城バス「春日山荘前」下車徒歩15分
※いずれも春日山神社・謙信公銅像まで
車 北陸自動車道「上越IC」より15分
上信越自動車道「上越高田IC」より20分
所在地 広島県安芸高田市吉田町吉田
遺構 曲輪 石垣 土塁 堀切 井戸
アクセス JR可部線 可部駅下車→バス(上根・吉田線)安芸高田市役所前下車
JR芸備線 向原駅下車→向原駅からタクシー15分※向原駅から吉田へのバスは便数が少なく、日曜日・祝日は運休です。
バス 広島バスセンターから吉田出張所行き→安芸高田市役所前下車
車 中国自動車道高田インター下車約15分(広島市内から約70分)
国道54号線を利用(広島市内から約75分)
所在地 高知県南国市岡豊町八幡
遺構 石積 土塁 曲輪 堀切 井戸 虎口 竪堀 横堀
アクセス JR土佐大津駅より徒歩50分
バス はりまや橋・高知駅南口ほかで乗車 南国オフィスパーク・領石・田井方面行き「学校分岐(歴民館入口)」下車、 徒歩15分(1時間に1~2便)
車 高知自動車道南国I.C.より車で約10分
高知龍馬空港より車で約20分、JR後免駅より車で約15分
所在地 岐阜市金華山天守閣18
遺構 曲輪 石垣 土塁 堀切
開館時間 3月16日~ 5月11日 午前9時30分~午後5時30分
5月12日~10月16日 午前8時30分~午後5時30分
10月17日~3月15日 午前9時30分~午後4時30分
※元旦のみ午前6時30分~午後4時30分
休館日 年中無休
アクセス JR岐阜駅または名鉄岐阜駅から岐阜バス「N80」高富行きなど長良橋方面行きまたは「市内ループ線左回り」で15分片道210円。「岐阜公園・歴史博物館前」バス停下車、徒歩3分の岐阜公園内から金華山ロープウェー3分、金華山ロープウェー山頂駅から徒歩8分。
車 東海北陸自動車道岐阜各務原I.Cから国道21号線を西進、156号を北進、岩戸トンネル出口を左折、鵜飼い大橋手前を左折、金華山トンネルを出てすぐ岐阜公園堤外駐車場(1回300円)。徒歩3分の岐阜公園内から金華山ロープウェー3分、金華山ロープウェー山頂駅から徒歩8分。