お城の歴史

雲海に浮かぶ天空の城として有名な【竹田城の歴史】を総まとめ

解説!竹田城の歴史
お城好きな武将
お城好きな武将

天空の城として有名になった竹田城にはどんな歴史があるの?

竹田城は誰が築城したのか?どんな戦いがあったのかなど知りたいな!

今回は「竹田城の歴史」を紹介します。

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ゆうき
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この記事では下のポイントで竹田城の歴史を紹介していきます。

竹田城の歴史のポイント
  • 応仁の乱の中心人物・山名宗全によって築かれた竹田城
  • 合戦の経験を活かして竹田城を完成させた赤松広秀
  • 天空の城・日本のマチュピチュとして注目された竹田城

それでは竹田城の歴史を紹介していきます。

Contents

竹田城とはどんなお城?

竹田城の場所竹田城の場所

兵庫県朝来市にある竹田城。

竹田城は標高353mの古城山に築かれた山城で、山全体が虎が伏せている姿に見えることから、別名「虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)」とも。

竹田城を有名にしたのは雲海に浮かぶ城跡の写真ではないでしょうか!?誰でもTVや雑誌などで見たことがあると思います。
そのため近年は観光客が急増しているお城の一つです。

竹田城は本丸・天守台を中心に三方向に曲輪が配置され、南北400m・東西100mの規模を誇る。

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また秀吉時代の城主・赤松広秀によって築かれた石垣が残されています。
のちに詳しく紹介しますが、竹田城は関ヶ原の戦い後に廃城になっていて、江戸時代以前の山城に造られた石垣が完存しているお城は全国的にも貴重。
そのため国の史跡に指定され、保存整備されています。

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竹田城の歴史

ここからは竹田城の歴史を室町・戦国時代〜現在まで順に紹介していきます。

室町・戦国時代の竹田城

応仁の乱の中心人物・山名宗全によって築かれた竹田城

竹田城と但馬国竹田城と但馬国

竹田城が初めて築かれたのは室町時代。

1443年、のちに応仁・文明の乱で中心人物の一人となる山名宗全によって築かれました。また家臣の太田垣光景が城主になっています。

築城の2年前、1441年に嘉吉(かきつ)の乱があり、但馬(たじま)守護(兵庫県北部)の山名宗全と播磨(はりま)守護(兵庫県南部)の赤松氏の間で争いになっていました。

そのため、但馬と播磨の国境に近いということで山名宗全は竹田城を築城したと考えられます。

その後は山名氏が応仁の乱で中心人物となったことで、丹羽守護(京都府北部)の細川氏や播磨の赤松氏などとの争いは戦国時代まで続いていくことに。そんな中でも城主の太田垣氏は竹田城を守っていきます。

そして戦国時代になると太田垣氏は主人である山名氏から独立した勢力をほこるまでになっていました。

織田・毛利の間に挟まれて、豊臣秀長に2度も落とされた竹田城

竹田城の石垣竹田城の石垣

竹田城築城から約120年後、1569年に織田信長が足利義昭を連れて京都へ入ります。

この頃、広島県を拠点にしていた毛利元就の要請で、信長は秀吉に軍を与えて但馬へ派遣。毛利氏が滅した尼子氏の残党とそれを援護する山名祐豊の背後を攻撃してほしいという要請でした。

この時の秀吉軍は10日間で生野〜此隅山(このすみやま)まで18城を陥落させ、この中に竹田城も含まれると考えられています。

落城後も竹田城では太田垣氏が城主を続け、此隅山城の山名祐豊は一時的に堺へ亡命した後に信長に礼銭賭して1千貫を献上することで但馬への復帰を許されました。

1573年になると吉川元春(毛利元就の次男)が率いる毛利軍が但馬へ侵攻。竹田城の太田垣輝延は毛利軍に降伏してしまいます。つづく75年には山名祐豊は毛利氏と同盟を結びました。

1575年、丹波の赤鬼と言われ明智光秀を苦しめた赤井直正が竹田城・有子山城を急襲して、これらを奪取。山名祐豊は信長に支援を求めたため、信長は明智光秀に赤井直正の居城だった黒井城を攻めさせています。
このため直政は竹田城から撤退しました。

播磨や但馬などで勢力圏が接するようになった織田信長と毛利氏はしだいに敵対するようになっていきます。信長は豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)を中国(毛利)攻めの大将とし、中国地方の攻略を任せました。

1577年に秀吉は播磨へ侵攻。播磨の有力領主だった赤松広秀や別所長治、小寺政職(まさもと)などはすでに信長の味方になっていたので、秀吉は半月ほどで播磨のほぼ全域の平定に成功しています。(のちに別所長治が寝返ることで三木城攻めが行われます)

秀吉は信長から長浜(滋賀県)で休暇を取れと言われたけど、休暇返上でそのまま但馬などへ軍を進めました。

秀吉は弟の秀長に軍を任せて但馬を攻めさせています。この時の但馬は守護の山名韶煕(あきひろ)は信長に通じていたものの、家臣・太田垣氏は毛利氏に味方していた。

秀長は但馬にいる毛利氏に味方する武将の制圧と生野銀山の確保が目標でした。但馬に侵攻した秀長軍は生野銀山周辺の岩洲城を攻撃・落城させ、つづいて竹田城へ攻め寄せていきます。

竹田城は約3000人と言われる秀長軍と3日間の激闘の末に落城。秀長は一時的に城代として竹田城に入城。また秀吉から竹田城の城普請(土木工事)が命じられています。

1579年になると明智光秀の丹波攻略を支援するために、秀長は竹田城から丹波へ出陣していきます。するとこの隙を突いて、毛利氏の支援で太田垣輝延が竹田城に再入城しました。

1580年に寝返った別所長治を三木城で滅して播磨平定を成しとげた秀吉は、再度但馬へ弟・秀長を派遣。秀長によって竹田城をはじめ有子山城も落城し、大名・山名氏の但馬支配は終わり、竹田城の太田垣氏も没落していきました。

但馬を手に入れた秀吉は有子山城に弟・秀長を、竹田城の城主に桑山重晴をそれぞれ任命しています。

合戦の経験を活かして竹田城を完成させた赤松広秀

赤松広秀が完成させた竹田城赤松広秀が完成させた竹田城

1585年、本能寺の変で信長が死んだ後、関白になっていた豊臣秀吉は竹田城主に播磨龍野城から赤松広秀を任命。広秀は関ヶ原の戦いまで15年間城主を務めていきます。(前城主の桑山重晴は和歌山城主に)

広秀は秀吉家臣として、九州(島津氏)、小田原(北条氏)、朝鮮(文禄・慶長の役)で戦ったり、京都・伏見城の築城にも参加しました。

広秀はこれらの合戦や築城工事から築城技術を学び竹田城にも活かしていきます。

秀吉軍が朝鮮で築いたお城(倭城)の特徴の1つである登り石垣も竹田城に見ることができます。

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秀吉の死後、石田三成と徳川家康が争った関ヶ原の戦いが起きると、広秀は三成の西軍に味方しました。西軍の一員として広秀は丹後(京都府)の田辺城にこもる細川幽斎を攻撃。朝廷の仲介もあって西軍は田辺城を明け渡されます。

しかし田辺城の明け渡しの2日後、9月15日に関ヶ原で西軍本隊が敗北してしまいました。

竹田城に戻っていた広秀は、東軍の亀井茲矩(これのり)の説得もあって東軍に寝返り。いまだ抵抗を続けていた鳥取城の攻撃に参加しています。

この鳥取城攻撃の際に広秀は城下町に放火したと言われています。
この放火を理由に広秀は徳川家康から切腹を命じられました。

広秀が切腹した後は竹田城もまもなく廃城になっています。

昭和・平成の竹田城

天空の城・日本のマチュピチュとして注目された竹田城

雲海に浮かぶ竹田城雲海に浮かぶ竹田城

関ヶ原の戦いの後に廃城となった竹田城は江戸時代には生野代官所の支配下に置かれていました。

昭和になって1939年に城跡が当時の竹田町の所有になり、1943年に国の史跡に指定されています。1971〜80年にかけて石垣修理も行われていました。

2013年ごろから「天空の城」「日本のマチュピチュ」としてTVや雑誌などでたびたび竹田城跡が取り上げられるようになり、観光客数が急増。

見学者が急増したことによる史跡へのダメージもあり、観覧料の徴収や見学範囲の設定などを行なって、史跡の保護と整備の両立を図っています。

2015年に策定された「竹田城保存活用計画」では、竹田城跡の適切な保護(保存)、整備活用のあり方の明示や、竹田城が持つ価値の分析と次世代への継承を目指しています。

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竹田城の歴史年表

1441 嘉吉の乱、山名宗全らによって播磨守護・赤松満祐が追討される
1443 山名宗全によって竹田城が築城される
太田垣光景が竹田城主に
1569 織田信長が豊臣秀吉に命じて、但馬に侵攻
但馬の18城を陥落させる
1573 毛利軍が但馬へ迫ってきたため、山名祐豊や太田垣輝延らが毛利氏へ降伏
1575 丹波黒井城主の赤井直正が竹田城や有子山城を急襲し、これらを奪取
1577 播磨を一時平定した豊臣秀吉が弟・秀長を但馬へ派遣
秀長は竹田城などを攻め落とす
1578 秀吉は秀長を竹田城の城代にする
1580 再度播磨を平定した秀吉が秀長を但馬へ派遣
山名氏による但馬支配は終わり、太田垣氏も没落する
竹田城主には桑山重晴が任命される
1585 播磨龍野城から赤松広秀が竹田城主になる
1600 関ヶ原の戦い
赤松広秀は西軍の一員として田辺城を攻撃
石田三成が関ヶ原で敗北した後は鳥取城攻撃に参加
城下町放火の責任を問われて広秀は切腹、竹田城は廃城に
1615 竹田城跡は生野代官所の支配下に
1939 城跡は竹田町(当時)の所有となる
1943 竹田城跡が国の史跡に指定される
1971〜80 石垣修理が行われる
2006 日本100名城に選出される
2009 竹田城跡の国史跡の指定範囲が拡大される
2012 竹田城跡が「恋人の聖地」として認定
2013 第20回全国山城サミットが朝来市で開催
2015 「竹田城跡保存活用計画」の策定
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竹田城へのアクセス

  • 兵庫県朝来市和田山町竹田
  • 電車での行き方:JR播但線「竹田駅」より、「駅裏登山道ルート」で徒歩40分、「表米神社登山道ルート」でも徒歩40分
  • クルマでの行き方:北近畿豊岡自動車道・播但連絡自動車道「和田山IC」より約10分
  • 詳しくはこちら「アクセスガイド|竹田城跡 公式ホームページ

竹田城へ見学しに行こう!

今回は竹田城の歴史を紹介しました。

もう一度歴史のポイントをおさらいしておきます。

  • 応仁の乱の中心人物・山名宗全によって築かれた竹田城
  • 合戦の経験を活かして竹田城を完成させた赤松広秀
  • 天空の城・日本のマチュピチュとして注目された竹田城

お城それぞれの歴史を知っているとお城めぐりもより楽しくなるので、気になるお城の歴史を知れべてみるのはいかがですか。

お城の歴史を知って、もっとお城めぐりや歴史ドラマ、ゲームなど楽しんでいきましょう。

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