福島県にある石垣や復元された三重櫓で有名な白河小峰城にはどんな歴史があるの?
白河小峰城は誰が築城したのか?どんな戦いがあったのかなど知りたいな!
今回は「白河小峰城の歴史」を紹介していきます。
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この記事では下記のポイントで白河小峰城の歴史を紹介していきます。
- 白河小峰城を歴史の名城に改修した丹羽長重
- 明治新政府軍と奥羽越列藩同盟が激突した白河小峰城の戦い
- 市制40周年を記念した木造再建された白河小峰城の三重櫓
- 東日本大震災の被害から復興を遂げた白河小峰城
それでは白河小峰城の歴史を紹介していきます。
Contents
白河小峰城とはどんなお城?
福島県白河市にある白河小峰城。
お城跡は国の指定史跡になっていて、石垣や土塁・堀などが現存しています。
また白河小峰城は東北地方では数が少ない石垣を多く用いたお城で、盛岡城(岩手県)・会津若松城(福島県)と共に東北三名城の一つに挙げられています。
平成になって白河小峰城の三重櫓が復元されたことが先駆けとなり、全国で天守や櫓の木造復元が活発になっていきました。
白河小峰城の歴史
ここからは白河小峰城の歴史を室町・戦国時代〜現在まで順に紹介していきます。
室町・戦国時代の白河小峰城
- 白河は古代から関所が置かれた重要な場所だった
- 室町時代初期に結城親朝によって白河小峰城が築城される
- 豊臣秀吉によって結城氏はお城と領地を取り上げられる
室町初期、結城親朝によって築城された白河小峰城
白河小峰城は福島県を流れる阿武隈川と谷津田(やんた)川に挟まれた白河郡小峰ヶ岡にあります。この白河の地は古代から関所が置かれるなど、東北地方への入り口として重要な土地でした。「白河関跡|白河市公式ホームページ」
白河の地に初めてお城が築かれたのが、鎌倉末期から室町時代初期(南北朝時代)のこと。
この時期に結城親朝(ちかとも)が築城しました。築城当時の白河小峰城の姿はのちに回収されたこともあって詳しいことは分かっていません。
もともと結城氏は近くの搦目(からめ)城を拠点にしていましたが、1340年に結城親朝が新しく白河小峰城を築いて移ってきていました。
結城親朝という人物は鎌倉幕府滅亡の際には、後醍醐天皇に味方して倒幕側として参加しています。鎌倉幕府滅亡後の後醍醐天皇が主導した建武の新政で、親朝は東北地方における役職についていました。
次第に建武の新政に対する武士の不満が募っていき、後醍醐天皇と室町初代将軍・足利尊氏が対立する南北朝時代が始まります。親朝は最初後醍醐天皇の南朝側に味方。しかし南朝側が不利になってくると尊氏の北朝へと寝返っています。
1347年に親朝が亡くなると、白河小峰城は親朝の次男・朝常が相続。戦国時代に豊臣秀吉が天下統一するまで結城氏が白河小峰城を治めていきます。
豊臣秀吉によってお城と領地を取り上げられてしまった結城氏
戦国時代の結城氏と白河小峰城は、会津の戦国大名・蘆名氏、常陸の戦国大名・佐竹氏や伊達政宗など大きな大名の間で巧みに生き抜いてきました。
豊臣秀吉が天下統一に王手をかけて小田原城の北条氏を攻めていた頃、結城氏は伊達政宗に服属しています。この時、秀吉は伊達政宗をはじめ、東北の大名にも小田原城攻めへの参加を求めていましたが結城氏は行きませんでした。(伊達政宗に止められていたとも)
そのため北条氏を滅ぼした後の秀吉による「奥州仕置」で、結城氏は白河小峰城と領地を取り上げられてしまいます。
そして白河小峰城は新たに会津42万石を拝領した蒲生氏郷の領地となって、蒲生氏が支配するお城の一つになりました。
江戸時代の白河小峰城
- 丹羽長重が三重櫓や石垣を持つ現在の形へお城を大改修
- 白河小峰城は江戸幕府に重要視され、幕府や徳川家にゆかりのある者が城主に
白河小峰城を石垣の名城に改修した丹羽長重
徳川家康によって江戸幕府が開かれ1615年の大坂の陣で豊臣氏が滅んだ後、1627年にとなりの棚倉城(白川郡棚倉町)から丹羽長重が10万石で白河小峰城へ移ってきました。
丹羽長重は織田信長に仕えた重臣・丹羽長秀の息子。長重は関ヶ原の戦いで西軍に味方して戦っていたため一時的に大名ではなくなっていましたが、のちに2代将軍・徳川秀忠の斡旋で大名に返り咲いていました。
会津を治めていた蒲生氏は跡をつぐ息子がいないことで改易になり、領主がいなくなっていた白河に丹羽長重が移ってきていました。
1629年から長重は白河小峰城を4年がかりで大改修。現在のように石垣や三重櫓を持つお城にしています。(改修というより一からの築城と言ってもいい)
長重は徳川秀忠や3代将軍・家光に仕えて徴用され、築城の名手としても知られた人物でした。
そのため秀忠は陸奥国の要衝(重要地点)だった白河郡を長重に任せて、当時武家諸法度で築城が厳しく制限されていた中でもお城の改修を特別に許可しています。
秀忠が長重に特別な許可を与えていた背景には、東北の大名(とくに伊達政宗)に備える意味もありました。
東北の重要拠点とされた白河小峰城は有力者が城主を務めていった
1637年に丹羽長重が亡くなると、長重の息子・光重が跡を継いでいます。その後、1643年に光重は二本松城へと移っていきました。
丹羽氏のあとの白河小峰城には、古くから(戦国時代から)徳川家に仕えてきた譜代・親藩大名が交代で城主を務めていきます。
1643年 | 榊原忠次(徳川四天王・榊原康政の孫) |
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1649年 | 本多忠義(徳川四天王・本多忠勝の孫) |
1681年 | 奥平忠弘(祖父の奥平信昌は家康の長女・亀姫を正室とした) |
1692年 | 松平直矩(なおのり)(祖父が家康次男の結城秀康、越前松平氏) |
1741年 | 松平定賢(さだかた)(先祖に水戸藩主・徳川頼房、久松松平氏) |
1823年 | 阿部正権(まさのり)(幕末に老中を務める阿部正弘の家系とは本家・分家の関係) |
このように戦国時代から徳川家に仕えてきた家柄や婚姻関係など幕府と強いつながりを持つ大名・家系が白河藩主(白河小峰城主)を務めてきました。。
このことから陸奥(東北地方)の要衝として白河と白河小峰城を、幕府がいかに重要にしていたのかがわかります。
幕末の1866年に阿部氏8代目・阿部正静(まさきよ)が棚倉城へ移ると、白河領は幕府領となり二本松藩へと預けられました。
幕末の白河小峰城
- 白河小峰城は奥羽越列藩同盟の拠点となったけど新政府軍に攻撃され奪われる
- 攻防戦の中で三重櫓などの建物が焼失
明治新政府軍と奥羽越列藩同盟が激突した白河小峰城の戦い
1868年に起きた戊辰戦争では白河小峰城も戦いの舞台となっています。
1868年に明治新政府が成立。この時白河小峰城は幕府領だったため、城主は不在でした。そのため仙台藩・棚倉藩・二本松藩・三春藩・泉藩・湯長谷(ゆながや)藩が共同で守備することになっています。(この時の仙台藩らは新政府側だった)
4月11日に西郷隆盛とかつ回収によって江戸城が開場された後、仙台藩らが守る白河小峰城を会津藩が攻撃。この時は城を守っていた兵が少なくまともに戦うこともできずに、会津藩に白河小峰城を占拠されています。
この直後、会津藩・庄内藩が朝廷(天皇)の敵「朝敵」にされていたことから、この2つの藩を助けるために会津藩や仙台藩が中心となって東北地方や新潟県の藩が「奥羽越列藩同盟」を結成。薩摩や長州の新政府軍と対立することになっていき、白河小峰城は列藩同盟川の拠点になっています。
5月1日、薩摩、長州、大垣、忍藩を中心とする新政府軍600〜700人が白河小峰城を攻撃。列藩同盟側は会津藩の1000人を中心に仙台藩や棚倉藩、新撰組など2500人で白河小峰城を守備していました。
人数で優る列藩同盟だったけれど、新政府軍の装備が最新式だったのに対して列藩同盟側の装備は旧式なものばかりで火縄銃も使われていたといいます。
装備の差も大きく、5月1日早朝に始まった戦闘で、正午過ぎには白河小峰城は新政府軍い奪われてしまいました。
列藩同盟側も反撃に出ます。二本松藩、相馬藩も加わって、再度白河小峰城の奪還を目指しました。
しかし列藩同盟側の各藩の足並みがそろわず、7度にわたって白河小峰城を攻撃するものの効果的な攻撃をすることができませんでした。
そして1868年7月15日頃には列藩同盟は白河小峰城の奪還を諦めて、撤退していきました。
この一連の戦いの中で、天守代用の三重櫓など、本丸の一部が焼失しています。
明治時代の白河小峰城
廃城令で建物が壊され石垣や土塁が残るだけになった白河小峰城
戊辰戦争で傷ついていた白河小峰城は、明治時代になると全国のお城と同様に廃城令によって廃城となり、残されていた建物も取り壊されます。
城跡には石垣や堀・土塁が残るのみでした。
二の丸太鼓門のそばにあった太鼓櫓は、1874年に民間に払い下げられ移築されています。1930年にもう一度移築されて、移築された建物が現在まで残されています。
2度の移築によって元の太鼓櫓の形は損なわれているけれど、白河小峰城の貴重な建物遺構として白河市の指定重要文化財になっています。
現在の白河小峰城
- 三重櫓の木造復元がきっかけで全国の天守や櫓の木造復元が活発に
- 東日本大震災で大きな被害を受けたけど、2019年に修復工事が完了
市制40周年を記念して木造再建された三重櫓
1989年に市制40周年を迎えることを記念して、1987年に白河市は白河小峰城の天守代用とされた三重櫓の木造復元を決定。
これまでの天守や櫓の再建は鉄筋コンクリート造で外観を似せるだけでしたが、白河小峰城の三重櫓は初めての木造復元に挑戦しました。
木造復元にあたって、白河市は文献資料や発掘調査、同時代に建てられ現在まで残っている現存天守などに基づいて、可能な限り正確な復元を目指す計画を策定。
文献資料では、白河藩主・榊原忠次が作成した「奥州白河城絵図(正保城絵図)」や1808年に松平定信が家臣に作らせた「白河城御櫓絵図」を参考にしました。
発掘調査では、柱を建てる土台にしていた「礎石」という石が発見され、正確な柱の位置や間隔を知ることができました。
また現存天守である松本城の乾小天守は、外観や大きさに共通点があり、外観や構造の参考にしています。
さまざまな調査をもとに、1988年から復元工事を開始。
木材には白河市内の稲荷山公園の樹齢400年の杉の巨木などが用いられています。また工法も江戸時代当時のもので建設し、釘なども1つ1つ作られた和釘が使用されました。
1990年10月に復元工事は終了し、翌91年4月に三重櫓落成式が行われています。
1994年には三重櫓につづいて前御門が復元されました。
この白河小峰城の三重櫓の木造復元が先駆けとなって、全国で天守や櫓の木造での復元が活発になっていきます。
東日本大震災の被害から復興を遂げた白河小峰城
2011年に発生した東日本大震災では仙台城などの東北のお城とともに、白河小峰城も大きな被害を受けています。
本丸を中心に石垣が10ヶ所で崩落。とくに本丸南面の石垣の被害が大きかったです。木造復元された三重櫓は倒壊こそしなかったものの、壁や柱に破損がありました。
2013年9月から石垣が崩落した10ヶ所と修復が必要な4ヶ所の修復を開始。
崩落した石材は震災前に撮影された写真をもとに位置を照合しながら、積み直されていきました。
2015年には一番被害の大きかった本丸南面の石垣の修復が終わり、2019年4月に白河小峰城全体での修復工事が完了し、以前の姿を取り戻しています。
白河小峰城の歴史年表
1340 | 結城親朝が小峰ヶ岡に白河小峰城を築城し、搦目城から移ってくる |
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1347 | 親朝次男の結城朝常が小峰城主になる |
1590 | 豊臣秀吉の奥州仕置によって結城氏は白河小峰城と領地を取り上げられる 白河小峰城は蒲生氏郷の支城に |
1598 | 上杉景勝が会津の領主になり、白河小峰城も景勝の領地となる |
1601 | 関ヶ原の戦いの後、蒲生秀行が会津若松城主になり、白河小峰城は秀行のものに |
1627 | 丹羽長重が棚倉城から白河小峰城へ移ってくる |
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1629 | 長重が幕府の命令でお城の大改修を開始 |
1632 | 長重によるお城の改修と城下町の建設が完了する |
1643 | 丹羽光重が二本松藩へ移り、代わって榊原忠次が城主に |
1649 | 村上藩より本多忠義が移ってきて、城主になる |
1681 | 宇都宮藩から奥平忠弘が移ってきて、城主になる |
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1692 | 山形藩から越前松平氏、松平直矩が城主に |
1741 | 高田藩から久松松平氏、松平定賢が城主に |
1823 | 忍藩から阿部正権が移ってきて城主になる |
1866 | 白河領は幕府領になって、二本松藩へ預けられる |
1868 | 戊辰戦争で戦場になり、白河小峰城は落城する |
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1991 | 戊辰戦争で焼失した三重櫓が本丸に木造復元される |
1994 | 前御門が復元される |
2010 | 白河小峰城跡が国の指定史跡に |
2011 | 東日本大震災で大きな被害を受ける |
2013 | 震災で崩落した石垣などの修復工事が始まる |
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2019 | 震災後の修復工事が完了し、以前の姿を取り戻す |
白河小峰城を見学しに行こう!
今回は「白河小峰城の歴史」を紹介しました。
もう一度ポイントをおさらいしておきます。
- 白河小峰城を歴史の名城に改修した丹羽長重
- 明治新政府軍と奥羽越列藩同盟が激突した白河小峰城の戦い
- 市制40周年を記念した木造再建された白河小峰城の三重櫓
- 東日本大震災の被害から復興を遂げた白河小峰城
お城それぞれの歴史を知っていると、お城めぐりもより楽しくなるので気になるお城の歴史を知れべてみるのはいかがですか。
お城の歴史を知って、もっとお城めぐりや歴史ドラマ、ゲームなど楽しんでいきましょう。
白河小峰城へのアクセス
- 福島県白河市郭内1
- 電車での行き方:JR東北本線「白河駅」より徒歩5分
- クルマでの行き方:東北自動車道「白河IC」より約20分(駐車場あり)
- 詳しくはこちら「小峰城歴史館のご利用案内|白河市公式ホームページ」