滋賀県にある織田信長の妹婿で有名な浅井長政の小谷城にはどんな歴史があるの?
小谷城は誰が築城したのか?どんな戦いがあったのかなど知りたいな!
今回は「小谷城の歴史」を紹介していきます。
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この記事では下記のポイントで小谷城の歴史を紹介していきます。
- 戦国大名への足がかりになった浅井亮政の小谷城築城
- 領内を安定化させた2代目久政と戦国大名として独立した3代目長政
- 織田信長と浅井長政の小谷城の戦い
- 大河ドラマの撮影もおこなわれた小谷城
それでは小谷城の歴史を紹介していきます。
Contents
小谷城とはどんなお城?
滋賀県長浜市にある小谷城。
小谷城は北近江(滋賀県北部)を支配した戦国大名・浅井三代(亮政、久政、長政)のお城として有名です。
標高495mの小谷山の山頂からのびる尾根に築かれた山城で、戦国時代屈指の規模を誇っていました。そのため「戦国期拠点城郭」として分類され、城郭考古学において重要なお城。
現在の小谷城跡では大きな堀切や石垣、琵琶湖を一望できる眺望などを見ることができます。
小谷城の歴史は約50年あまりと短いものの、浅井氏が守護大名の家臣から戦国大名へと成り上がり、そして滅亡していく濃い歴史が詰まったお城です。
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ここからは小谷城の歴史を戦国〜現在まで紹介していきます。
戦国時代の小谷城
戦国大名への足がかりになった浅井亮政の小谷城築城
まず小谷城がいつ頃に築城されたのか明確にはなっていません。
浅井三代の初代・亮政(すけまさ)によって築城されたことは確かで、「長享年後畿内兵乱記」という資料で「1525年、南近江の大名・六角定頼によって小谷城が攻撃された」という記録が最初。
小谷城はこの頃までに築城されていたと考えられています。
1523年、北近江の守護大名・京極氏の後継ぎ問題から始まった家臣同士の抗争の中で、浅井亮政は小谷城を築城し他の家臣たちを上回る力を発揮するようになっていきました。
また亮政は主人の京極氏を小谷城へ招いて饗応(接待)することで、京極家内で重臣の地位を確立していきました。
1538年に京極高清が亡くなったことによる京極家内の内部抗争に乗じて、亮政は再び六角氏に攻められています。この時、亮政は六角氏に合戦では敗れたものの小谷城に籠城することでやり過ごしていました。
築城されたころの小谷城は現在の本丸が中心ではなく、小谷山の頂上にある大嶽城(おおずく)を中心としていました。大嶽には古くは大嶽寺(戦国時代にはすでに廃寺)があり、初期の小谷城はお寺跡を利用して築城されたお城。
浅井亮政は小谷城で主人を接待しライバル六角氏と渡り合ったことで、他の家臣との間で実力の差が出てき、亮政による小谷城築城が京極氏家臣から戦国大名へと飛躍するキッカケとなりました。
領内を安定化させた2代目久政と戦国大名として独立した3代目長政
南近江の六角氏との抗争は続きながら1542年に浅井亮政は亡くなり、2代目・浅井久政が跡を継いでいます。
しかし久政は1553年に地頭山(滋賀県米原市)での合戦で六角義賢に惨敗。
敗北の結果、久政の長男に義賢の「賢」の字をもらって「賢政(のちの長政)」と名乗らされたり、その賢政に六角氏家臣・平井定武の娘を室として迎えることになっています。
そのため浅井氏はなかば六角氏に支配される形になりました。
しかしながら久政は六角氏の支配を受けながらも領内を安定化・発展させていきました。
領内の村ごとの水源をめぐる争いの裁定や家臣たちの掌握につとめて大名としての基礎体力を強化しています。
ところが1560年になると、久政は長男の賢政に家督を譲って引退。
この時の久政はまだ36歳で賢政は16歳でした。引退するにも跡を継ぐにも早すぎる年齢でした。
この久政引退には六角氏との関係をめぐって浅井氏の中で意見が分かれ、久政は賢政や家臣たちに引退に追い込まれたと考えれています。
新たに当主となった賢政は六角氏と対立していきます。
六角氏との関係を断つために、六角義賢からもらった「賢」の字を捨てて「長政」と名乗り、六角氏家臣・平井氏の娘だった妻とも離縁しました。
そして1560年8月の野良田合戦(滋賀県彦根市)で浅井長政は六角氏に勝利し、戦国大名として独立を達成。
独立を達成したもののいまだ六角氏は健在で、西の美濃斎藤氏など敵対する大名に浅井氏の領地は囲まれていました。
浅井氏は初代亮政の代から越前(福井県)の朝倉氏との同盟を結んでいたけれど、長政は新たに尾張(愛知県)の織田信長とも同盟を締結。
長政は妻に信長の妹・お市の方を迎え、のちに豊臣秀吉や徳川幕府に影響を与える「浅井三姉妹」を授かることになります。
織田信長と浅井長政の小谷城の戦い
織田信長と同盟を結んだ後の浅井長政は信長の上洛を援護し、宿敵だった六角氏を撃破します。しかし長政と信長の同盟は長くは続きませんでした。
京都を制圧した後の信長は周辺の大名に京都へ来るように命令。ところが越前(福井県)の朝倉義景はこれを拒否したため、信長は1570年に朝倉氏への攻撃を始めました。
この信長の行動に対して長政は、祖父・亮政の代から同盟相手だった朝倉氏を見捨てずに信長と対立。朝倉氏のお城(天筒山城・金ヶ崎城、福井県敦賀市)を攻めていた織田軍の背後を長政は攻撃しました(金ヶ崎の退き口)。
信長は朝倉・浅井氏のはさみ撃ちの危機を脱して本拠地・岐阜城へ戻ると、すぐに体勢を立てなおして長政へ反撃。
1570年6月に信長と徳川家康は姉川(滋賀県長浜市)で浅井・朝倉軍と対峙し撃破しました。姉川の合戦に勝利した信長軍だったけど、その勢いのまま長政の本拠地・小谷城を攻め落とすことはできませんでした。
浅井長政も信長にやられる一方ではなく、志賀の陣(滋賀県大津市)などで信長を苦しめています。
一方で信長は横山城や虎御前山城を改修・築城して最前線基地にすることで小谷城への圧力を強めていきました。
1573年8月8日、山本山城(滋賀県長浜市)の城主だった長政家臣の阿閉貞征(あつじさだゆき)が信長に降伏してきました。信長はこれをチャンスと捉えて小谷城へと急行。
8月12日には信長軍は小谷城への攻撃を開始し、小谷山山頂にある大嶽(おおずく)砦を奪っています。
越前の朝倉氏も浅井長政の危機に出陣してきてはいたものの、信長軍によって大嶽砦が奪われたことを知って越前へ退却してしまいます。
信長は小谷城は包囲したままに、退却する朝倉軍を追撃。信長はそのまま朝倉氏の本拠地・一乗谷まで攻め込んで、当主・朝倉義景を自害に追い込んで朝倉氏を滅亡させました。
朝倉氏を滅亡させた後、小谷城に戻った信長は攻撃を再開。
8月27日夜、豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)は本丸より後ろにある京極丸へ奇襲し占領に成功します。これによって長政のいる本丸と父・久政のいる小丸との連絡が絶たれてしまい、浅井軍は効果的な反撃ができなくなってしまいました。
つづいて秀吉は小丸を攻めて浅井久政を切腹に追い込んでいます。
本丸一つになっても長政は抵抗を続け2日間持ちこたえていたけれど、9月1日に長政も切腹し小谷城は落城。浅井氏は滅亡しました。
小谷城落城の際に長政の妻・お市の方と浅井三姉妹が小谷城から脱出したことは有名な話です。
小谷城落城後、浅井氏の領地は功績のあった秀吉に与えられました。
秀吉は商業の発展には不利な小谷城から、琵琶湖畔の長浜(当時は今浜と呼ばれていて、秀吉が長浜に改名)へ移り、1574年から長浜城を築城しています。
小谷城は落城後に廃城となり、秀吉の長浜城築城に小谷城の資材が再利用されたと伝わっています。
現在の小谷城
大河ドラマの撮影もおこなわれた小谷城
小谷城は落城後はお城として使用されることはなく、昭和になるまで長い間放置されていました。
1937年に小谷城跡が史跡としての重要性が認められ国の史跡に指定されています。
しかしながら国の史跡に指定されてから平成まで、小谷城跡を将来に正しく継承するための方法や保存管理・整備活用を行うための基準が定められておらず史跡整備や公園整備を行える状況ではありませんでした。
そこで長浜市は2014年に「史跡小谷城保存管理計画」を策定。その中で下記の5つを基本方針として小谷城跡の整備を進めています。
- 歴史遺産の保存・整備方法の検討と管理体制の整備
- 生活環境と調和した自然環境の保全方法の検討
- 小谷城跡城郭部の調査・保存・修復・活用方法の検討
- 清水谷の調査・保存・整備・復元などによる史跡公園化
- 歴史的環境を活かした地域住民と行政との協働によるまちづくりの推進
2011年のNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国」では、小谷城落城から物語が始まりました。小谷城が舞台の一つということで小谷城跡でも撮影ロケが行われ、主演の上野樹里さんを始め出演者の方々が小谷城を訪れていました。
スポンサーリンク小谷城の歴史年表
1516 | 「浅井三代記」の記録でこの年に浅井亮政が小谷城を築城したとしている |
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1523 | 亮政が守護京極氏の後継ぎ争いに乗じて勢力を拡大 |
1523〜25 | この頃までには小谷城は築城されていた |
1525 | 六角定頼が浅井亮政と小谷城を攻撃 |
1534 | 亮政が京極高清・高延を小谷城に招いて饗応(接待)する |
1538 | 六角定頼が再び小谷城を攻撃 |
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1542 | 浅井亮政が亡くなる 久政が家督を継ぐ |
1553 | 久政が六角定頼との地頭山合戦に敗れ、六角氏に支配される |
1560 | 浅井長政が六角義賢に野良田合戦で勝利し、独立する |
1565〜68 | 浅井長政はこの頃に信長の妹・お市の方と結婚する |
1570 | 4月信長が越前朝倉氏を攻めたため、長政と信長の同盟は決裂 6月姉川の戦いで信長・徳川家康が勝利し、横山城を奪う |
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1572 | 小谷城への最前線基地として信長は虎御前山城を築城 |
1573 | 浅井氏家臣阿閉貞征が信長に寝返ったことで、小谷城は落城 浅井氏は滅亡する |
1575 | 浅井氏の領地を与えられた豊臣秀吉が長浜へ移り、小谷城は廃城に |
1937 | 小谷城跡が国の史跡に指定される |
小谷城を見学しに行こう!
今回は「小谷城の歴史」を紹介しました。
もう一度歴史のポイントをおさらいしておきます。
- 戦国大名への足がかりになった浅井亮政の小谷城築城
- 領内を安定化させた2代目久政と戦国大名として独立した3代目長政
- 織田信長と浅井長政の小谷城の戦い
- 大河ドラマの撮影もおこなわれた小谷城
お城それぞれの歴史を知っていると、お城めぐりもより楽しくなるので気になるお城の歴史を知れべてみるのはいかがですか。
お城の歴史を知って、もっとお城めぐりや歴史ドラマ、ゲームなど楽しんでいきましょう。
小谷城へのアクセス
- 滋賀県長浜市小谷郡上町(おだにぐじょうちょう)139番地(小谷城戦国歴史資料館)
- 電車での行き方:JR北陸線「河毛駅」より徒歩30分(河毛駅よりレンタサイクル有り)
- クルマでの行き方:北陸自動車道「小谷城スマートIC」より約5分
- 期間限定ですがシャトルバスも運行されています。「小谷城シャトルバス|長浜・米原・奥びわ湖を楽しむ観光情報サイト」
- 詳しくはこちら「アクセス|小谷城戦国歴史資料館」
参考書籍+オススメ書籍
- 戦国大名浅井氏と小谷城 編著:小和田哲男
- 史跡小谷城跡ー浅井氏三代の城郭と城下町ー 発行者:長浜市長浜城歴史博物館
- 史跡小谷城跡保存管理計画書 長浜市教育委員会(こちらで閲覧・ダウンロードできます)