今回は「名古屋城の歴史」を紹介していきます。
- 名古屋城の歴史を大まかに知りたい人
- お城に興味を持ち始めた人
- 名古屋城を観光する前に予習しておきたい人
- 名古屋城を観光したけどもっと歴史を知りたくなった人
まずは名古屋城の歴史のポイントを4つ紹介します。このポイントを押さえておくだけでも名古屋城を訪れた際には楽しめます。
- 那古野城で織田信長は成長し、新婚生活を送った
- 名古屋城は徳川家康によって築かれ、大阪の豊臣家に対する備えだった
- 太平洋戦争で旧国宝だった天守と本丸御殿を焼失
- 豊富な資料をもとに正確に復元された本丸御殿
この記事で名古屋城について詳しくなって、観光も歴史ドラマも楽しんでいきましょう!
Contents
名古屋城とはどんなお城?
まずは名古屋城とはどんなお城なのか、簡単にまとめました。
名古屋城の入場者数は日本TOP3!
名古屋城を訪れる人の数は大阪城に次ぐ2位で、2018年度は約220万人が訪れています。
入場者数が200万人を超えているのは、大阪城・名古屋城・二条城の3つだけ。名古屋城は日本でたくさんの人が訪れるお城の一つになっています。
日本一の広さを誇った名古屋城天守
現在の名古屋城天守は戦後に再建されたもの。太平洋戦争中までは江戸時代初期に建てられた天守が現存していました。
一番大きい天守は3代将軍・徳川家光が建てた江戸城天守。この江戸城天守は石垣を除いた建物部分だけで44.8mありました。名古屋城はというと建物部分は36.1mでした。
高さは江戸城が大きいですが、広さ(床面積)は名古屋城が一番でした。
名古屋城の1階の広さは約31.8m✖︎約36m。江戸城の1階では約33.9m✖︎約38.2mでした。1階の広さは名古屋城より江戸城の方が大きいですが、江戸城天守は1階〜5階にかけて徐々に狭くなっていきます。名古屋城天守は1階と2階が同じ大きさだったので、江戸城天守より床面積が広い天守となりました。
ちなみに現存している姫路城天守の2倍以上の広さがありました。
豊富な資料をもとに正確に復元された本丸御殿
2018年6月より全面公開が開始された名古屋城本丸御殿。
名古屋城の本丸御殿は太平洋戦争中に焼失するまで残存していました。もし現存していたら二条城二の丸御殿(京都市)とともに江戸時代の御殿建築を伝えるものとして、世界遺産登録は間違いなしともいわれています。
全国各地のお城で建物の復元工事が行われています。名古屋城だけは他のお城より豊富な資料が残されていて、それを基に正確な復元が可能になっています。
名古屋城の天守や本丸御殿は戦争で焼失する前に、調査が行われていて正確な実測図や多くの写真が残されていました。この資料の豊富さは他のお城を圧倒しています。
今回復元された本丸御殿は正確に江戸時代の本丸御殿を再現したものです。ぜひ、名古屋城を訪れた際は見学してみてください。
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ここからは名古屋城の歴史を戦国時代〜昭和・平成まで紹介していきます。
戦国時代の名古屋城
名古屋城のもとになったお城は今川氏親(うじちか)によって建てられました。今川氏親とは桶狭間の戦いで信長に討たれてしまう今川義元の父親です。
当時のお城は「柳の丸」と呼ばれていて、名古屋城の二の丸あたりにありました。この柳の丸には今川義元の弟・氏豊が入っています。
柳の丸を1538年に織田信長の父・信秀が氏豊から奪いました。この頃信秀と氏豊は蹴鞠や連歌を通じて仲良しになっていました。
一緒に連歌をするために柳の丸を訪れていた信秀は、氏豊と連歌を楽しみつつ滞在していました。そうするうちに信秀が病気になり、看病のために家臣たちが柳の丸へやってきます。
その夜、城下町で火事があり氏豊家臣たちは消化のために城外へ。この隙をついて、城内にいた信秀と家臣たちが本丸を襲い、お城を奪ったと伝わっています。
この結果、柳の丸は織田家のお城となり、信秀は柳の丸から「那古野城」と改名しました。
織田信長が成長し、新婚生活をおくった那古野城
織田信長が生まれたのは1534年。以前は那古野城で生まれたと言われていました。しかし父・信秀が那古野城を獲得したのが1538年なので、今は否定されています。
その後信秀は那古野城を信長に譲り、新たに古渡城を築いて移っていきました。
若い頃の信長は那古野城で成長し、美濃(岐阜県)の戦国大名・斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)との新婚生活も過ごしました。
1555年に尾張を統一した信長は、本拠地を名古屋城から清須城へ移しました。
その後の那古野城は、信長の叔父・信光や家臣・林秀貞が城主になるも、1582年ごろには廃城になっています。
江戸時代の名古屋城
関ヶ原の戦いの後、徳川家康は征夷大将軍になり日本を徳川幕府のもとでまとめようとしていました。そんな時に名古屋城は家康によって築かれました。
徳川家康によって築かれた名古屋城
廃城になってから荒れ果てていた那古野城後に、徳川家康は新たにお城を築き始めます。そのお城が現在の名古屋城です。
家康が征夷大将軍に任命された頃はまだ政治的に不安定な状況でした。秀吉は関ヶ原の戦い以前に死んでいたけど、大坂城にはまだ幼い秀吉の子・秀頼がいました。
新たに征夷大将軍になって江戸幕府を開いた家康が日本を治めていくのか、それとも秀頼が成人した際には豊臣家が日本を治めていくのか、まったくわからない状況でした。
そんな状況で家康が一番恐れたことは、秀吉に恩を感じている大名がまとまって家康に敵対してくること。
関ヶ原後の領地再配分で、家康は秀吉に恩を感じている大名の多くを西日本へ移しました。これらの大名たちが大阪の秀頼の元へ集まり、江戸へ進軍してくることが予想されたのです。
そこで敵の軍勢を食い止めるお城が必要になり、新しく築かれたお城が「名古屋城」なのです。
家康はなぜ名古屋を選んだのか?
尾張では信長の頃から清須城が中心地として栄えていました。しかし家康は清須城を廃止して、新たに名古屋城を築いています。
なぜ家康が清須城を廃止して新しいお城が必要だったのか?清須城には下記のデメリットがあったからでした。
- 清須の城下町の中を流れる五条川の水害に見舞われること
- お城のための十分な用地を確保できないため、城下町建設や大軍駐留に不向き
そこで家康は新たにお城を築くために「那古野(名古屋)」「古渡」「小牧山」の3つを候補地に挙げています。3つの候補地はそれぞれ以前にお城が築かれていた場所でした。
最終的に家康は「那古野(名古屋)」を選ぶわけですが、那古野(名古屋)にお城を築くメリットは3つありました。
- 熱田台地の末端にあり、南側以外は高低差があるので攻められにくい
- 台地の上になので、岐阜方面が見渡せる
- 庄内川、木曽川を防衛線として利用できる
この3つのメリットはすべて大阪にいる豊臣秀吉の子・秀頼を意識したものでした。
尾張の新しい中心地として作られた名古屋城
名古屋城の築城は新しいお城を一つ作るというわけではありませんでした。
もともとの尾張の中心地・清須城からの首都機能を移転する工事でもありました。
清須城は取り壊して、名古屋城の石垣や建物の部材として再利用しています。住民も強制移住されられ、武家屋敷や町屋だけでなく、3つの神社と110の寺院も名古屋へ移転されていきました。
名古屋城に現存している西北隅櫓は清須城の部材を再利用して建てられていて、「清須櫓」とも呼ばれています。
名古屋城の金シャチは純金だった!
名古屋城だけでなく、名古屋市のシンボルにもなっている金のシャチホコ。
信長や秀吉が築いた安土城や大坂城の天守にも金のシャチホコはありました。しかし名古屋城天守のシャチホコは信長や秀吉のシャチホコとは別格でした。
信長・秀吉のシャチホコは、瓦で作ったシャチホコに金箔を貼り付けたもの。ですが名古屋城のシャチホコは金箔ではなく、金の延べ板を貼り付けたものでした。
シャチホコはオスとメスがあり、2体で一対になっています。名古屋城天守のシャチホコ2体で使われた金は約215キログラムにもなりました。金の値段が1グラムあたり5746円(2019年10月21日)なので、約12億3500万円になります。
のちに明治になって、名古屋城の金のシャチホコはオーストリア・ウィーンで開催された万国博覧会へ出品されています。
3代将軍家光が不機嫌になるほど豪華だった本丸御殿
2018年から全面公開が始まった名古屋城本丸御殿。
本丸御殿は徳川将軍が京都へ行く際の宿泊所として提供された御殿。2代将軍・秀忠と3代将軍・家光が宿泊しています。
1634年に家光が京都へ行く際に名古屋城へ立ち寄り、宿泊しました。家光の訪問に合わせて本丸御殿の増改築が行われていて、書院と湯殿書院が建てられました。
書院は家光のベッドルームで、本丸御殿の中でも最も豪華な部屋でした。
あまりの豪華さに家光が不機嫌になったとも伝わっています。
名古屋城天守ー宝暦の大修理
1610年から築かれた天守台石垣が地盤沈下によって傾き、天守も傾いてしまいました。
1752年から傾いた天守と石垣の解体修理が行われます。
天守1階の中心部は解体しないで外周部のみ解体し、天守台石垣の北・西面の積み替えが行われました。
石垣にかかる重量を減らすために天守の軽量化として、軽量で防火性の高い銅製の屋根瓦に替えられています。
明治の名古屋城
幕末・戊辰戦争で名古屋城は戦火に巻き込まれることはありませんでした。
徳川家の一族で徳川御三家とも言われていた尾張徳川家は、薩摩・長州藩の明治新政府軍の味方になっていたためです。
取り壊される予定だった名古屋城
明治になると、尾張藩主だった徳川慶勝は明治政府へ名古屋城の取り壊しと金シャチの献上を申し出ます。
しかし、文化的な価値のある名古屋城を取り壊すのは惜しく、陸軍大佐・中村重遠やドイツ駐日大使マックス・フォン・ブラントの忠告を受けた陸軍卿・山縣有朋によって取り壊しは中止され、保存が決定しました。
陸軍の管理下にあった名古屋城はのちに宮内省のものとなり、天皇家の別荘「名古屋離宮」になりました。
昭和になると宮内省から名古屋市へ下賜され、「恩賜元離宮名古屋城」として一般公開が始まります。そして天守をはじめとした建物や本丸御殿内の障壁画が旧国宝に指定されています。
濃尾地震によって被害を受けた名古屋城
1891年10月28日、岐阜県本巣市を震源とする濃尾地震が発生しました。この地震はマグニチュード8.0とされていて、内陸部で起きた観測史上最大の地震でした。
この地震によって名古屋城も被害を受けています。
天守や本丸御殿は無事だってけれど、本丸の西南隅櫓が石垣とともに堀の中へ倒壊。そのほかにも正門の榎多門や本丸御殿の障壁画などが被害を受けました。
西南隅櫓はのちに修復され、正門には江戸城内に建てられていた蓮池門が移築されました。
また障壁画も2年かけて修復されています。その他の被害を受けた建物は取り壊されました。
昭和・平成の名古屋城
1931年から一般公開されていた名古屋城は太平洋戦争でたいへんな被害を受けました。
戦争で焼失した天守と本丸御殿
太平洋戦争末期1945年5月14日、名古屋空襲によって名古屋城内の多くの建物が焼失。天守をはじめ、本丸御殿、櫓1棟、城門5棟、土蔵1棟を失いました。
天守では戦災から金シャチを守るために取り外し工事が進められていました。この作業用の足場にアメリカ軍の飛行機から投下された爆弾(焼夷弾)が引っかかって、天守に引火したといわれています。
天守は炎に包まれてから約2時間で焼け落ちました。
天守とともに金シャチも焼け落ち、ガレキの中から溶けたあと固まった金塊となって発見されています。
本丸御殿の再建と天守の木造化
現在の名古屋城天守は1957年に名古屋開府350年、名古屋市制施行70周年の記念事業として再建されました。このとき、木造かコンクリートにするかで議論があったけど、戦災で傷んでいた天守台石垣を守るためにコンクリートで再建されました。
2002年から名古屋市は「名古屋城本丸御殿基金」の寄付を募集し、2009年より本丸御殿再建工事を開始しました。
本丸御殿は2013年より玄関と表書院を公開、2018年6月より全体公開が始まりました。
名古屋市では天守の木造再建計画が進められています。
名古屋城天守も本丸御殿と同じく、焼失前に天守の調査が行われていて詳細な実測図や多数の写真が残されていて、焼失以前の姿を再現可能です。
スポンサーリンク名古屋城の歴史年表
1521〜28 | 今川氏親が柳の丸を築城 |
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1538 | 織田信秀が柳の丸を奪い、那古野城とする |
1555 | 織田信長が本拠地を那古野城から清須城へ移す |
1582 | 那古野城が廃城になる |
1610 | 徳川家康が天下普請により名古屋城を築城開始 |
1612 | 名古屋城天守が完成 |
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1615 | 名古屋城本丸御殿が完成 |
1616 | 徳川義直が清須城から名古屋城へ移る |
1634 | 徳川家光が京都へ向かう途中に、名古屋城へ立ち寄る |
1752 | 名古屋城天守 宝暦の大改修 |
1870 | 徳川慶勝が名古屋城の取り壊しと、金シャチの宮内省献上を発表 |
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1871 | 三の丸の武家屋敷が取り壊される |
1873 | 二の丸御殿が取り壊され、兵舎が建てられる
金シャチがウィーン万国博覧会に出品 |
1879 | 山縣有朋が名古屋城の保存を決定 |
1891 | 濃尾地震により名古屋城被災 |
1893 | 名古屋城は陸軍から宮内省へ管理が移る |
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1930 | 宮内省から名古屋市へ下賜。建物24棟が旧国宝に指定される |
1931 | 名古屋城の一般公開が開始 |
1932 | 名古屋城が実測調査される |
1945 | 5月14日、名古屋空襲によて多くの建物を焼失 |
1957 | 名古屋城天守の再建が始まる |
---|---|
1959 | 名古屋城天守と正門が完成 |
2009 | 本丸御殿復元工事が開始される |
2013 | 本丸御殿の玄関・表書院の公開開始 |
2018 | 本丸御殿復元工事完了。全体が公開される |
名古屋城の歴史 まとめ
今回は「名古屋城の歴史」を紹介しました。いかがでしたか?
今回紹介した名古屋城の歴史を知っておくだけでも、観光や歴史番組もより楽しむことができます。
最後にもう一度ポイントをまとめておきます。
- 那古野城で織田信長は成長し、新婚生活を送った
- 名古屋城は徳川家康によって築かれ、大阪の豊臣家に対する備えだった
- 太平洋戦争で旧国宝だった天守と本丸御殿を焼失
- 豊富な資料をもとに正確に復元された本丸御殿
お城にはそれぞれ個性のある歴史を持っています。それらを知ることでよりお城を楽しんでいきましょう!!