今回は戦国の城攻め「水攻め」について解説していきます。
水攻めといえば、映画化もされた小説「のぼうの城」で、忍城(埼玉県)での水攻めが描かれていましたね。
実は水攻めといっても2種類あって、
- 敵のお城のなかにある井戸を枯らせたり、毒物を入れるなどして飲料水を断つこと
- 敵のお城の周囲に堤防を築いて、そこへ川の水を引き込み、お城を水没させること
水攻めと聞いてすぐにイメージできるのは2番目のお城を水没させる方の水攻めですよね。
今回は2番目の水攻めについて解説していきます。
Contents
すぐわかる水攻め
まず、水攻めとは
お城のまわりに土手・堤防を築き、そこへ水を流し込んで水没させて孤立させる戦法
敵のお城を孤立させることで外部との連絡や補給を断つことを目的にするので、「兵糧攻め」の1つと言えるでしょう。
水攻めはお城を水没させるので、山の上にある「山城」や丘の上にある「平山城」には当然使えません。
なので、水攻めは「平城」相手にしか使えない戦法だったのです。
平城は、河川・湿地・湖沼などをお城の守りに利用していました。大軍で平城を攻めたとしても沼地などで思うように動けないわけです。
そこで水攻めとは、その平城の水による防御を逆手にとって利用した戦法なのです。
- 備中高松城の戦い(1582年)
- 太田城の戦い(1585年)
- 忍城の戦い(1590年)
水攻めの成功例 備中高松城の戦い
織田信長が京都で本能寺の変によって死んだ時に、豊臣秀吉によって行われていたのが、この「備中高松城の戦い」です。
信長の死の知らせを聞いた秀吉が、この備中高松城(岡山県)から京都までを急いで帰り、明智光秀を倒したことは有名ですね(中国大返し)
では、本能寺の変が起きるまで秀吉は備中高松城をどのように水攻めで攻めていたのでしょうか?
水攻めまでの経過
1582年5月、中国地方の覇者・毛利氏の最前線・備中高松城を秀吉は3万の兵で包囲しました。
しかし、秀吉はこの備中高松城を攻めあぐねていました。
そして知人への書状でこのお城のことを、次のように書いていました。
平城を数年にわたって改修強化し、そのうえ城は三方は深田で、攻めよることができない
備中高松城は足守川・血吸川と湿地帯に囲まれていて、大軍では身動きが取れず、攻めにくいお城だったのです。
そこで秀吉と軍師をつとめていた黒田官兵衛は考えました。
「毛利氏からの援軍が来る前に素早く落城させ、その後の戦闘を有利に進めるため味方の損害を少なくする方法はないかと?」
そこで思いついたのが「水攻め」です。
秀吉は備中高松城を水攻めにするために、全長3㎞、高さ8m、底辺部24m、上部11mの規模の堤防をわずか11〜12日で築きました。
短期間で工事を完了させるために秀吉は、お米6万3500石(約9525トン分)、お金63万5000貫(約635億円)を用意して地元の農民に工事を手伝わせたり、土俵1つをお米・1升、お金100文(約1万円)と交換していました。
そして備中高松城を攻めている時はちょうど梅雨でした。(工事開始は5月8日、今の暦で6月8日)
こうして天気にも恵まれて、備中高松城を水攻めにすることができました。
高松城内では各所を移動するにも舟を利用しないといけないほど水没していたようです。
そして、5月24日に毛利氏の援軍が到着するも、お城はすでに水の中で、手出しが出せませんでした。
備中高松城 水攻め成功の秘訣
秀吉の備中高松城水攻めが成功した秘訣は3つあります。
- 水没させる面積と川の水量が適切だった。水没面積から逆算して、堤防の大きさ・工事期間を計算が適切だった
- この計算を可能にする、測量・土木・治水技術に優れていたこと
- 水攻めを実行するための資金と、秀吉の判断で作戦を決定する権限があったこと
そして、城攻めの時期が梅雨という雨の多い時期だったからこその、水攻めだったのでしょう。
スポンサーリンク水攻めの失敗例 忍城の戦い
忍城の戦いとは、豊臣秀吉による天下統一の総仕上げとして行われた小田原城攻め(1590年)にともなって起きた合戦です。
忍城の戦いのとき、秀吉は小田原城にいたので、忍城には来ていませんでした。そこで、石田三成が忍城攻めを任されていました。
水攻めまでの経過
6月5日、石田三成率いる秀吉軍は2万の兵で忍城を包囲し、7日から水攻めのための堤防工事を開始。(この水攻めは秀吉による命令でした)
石田三成が築いた堤防の大きさは(長さ28㎞、底辺部19m、高さ2.3m)という、秀吉が備中高松城を水攻めにするために築いた堤防(長さ3㎞)を大きく超える長さでした。
しかも三成はこの堤防を4〜5日であらかた作り終えたといいます。近隣の農民を動員し、昼はお米・1升、お金60文(約6千円)で、夜はお米1升、お金100文(約1万円)で雇い、24時間体制の突貫工事でした。
しかしここで誤算がありました。
堤防が完成し、堤防内が順調に水没していくなかで忍城だけが水没しなかったのです。お城だけが浮いた状態に。
その後、6月17日に大雨が降りました。この雨で増水し忍城も水没するかと思われました。しかし堤防が決壊していまし、逆に三成軍に被害が。270人が死んだともいいます。(忍城側による破壊とも言われています)
堤防が決壊し、水攻めは失敗。
水がはけた後の忍城周辺は、一帯が泥沼とかしていてお城に近づくことができなくなっていました。このままではメンツが立たない三成は、無理に力攻めを行うものの失敗。三成隊は500人の犠牲を出す始末。
忍城を攻めあぐねている間に、本城である小田原城が落城。そして小田原城にいた忍城主・成田氏長の説得によって忍城は開城しました。
忍城 水攻め失敗の理由
三成が忍城での水攻めを失敗した理由は4つが考えられます。
- 忍城が周囲より高い場所にあった
- 梅雨が明けていて、周辺の川の水位が下がっていた
- 築いた堤防の東南方向の立地の標高が低く、堤防内の水位が上がると決壊しやすい状態だった
- お城を攻めている三成側の意思の不統一
上↑の図を見てもらうと、忍城周辺はわずかに標高が高くなっていることがわかります。
堤防の高さが3.2mだということを考えると、周囲よりたとえ2〜3mでも高いだけでも水没しなかった可能性があります。
そして堤防の東南部分が一番標高が低くなっていることがわかります。なので東南部分が大雨で決壊しやすい状態でした。
次に秀吉軍のなかでの意思の不統一がありました。
三成は武功を挙げるために力攻めにしたかったが、秀吉の命令でしぶしぶ水攻めにしました。
三成以外の武将は水攻めだからと気を抜いていたといいます。なので諸隊の士気は上がらず、警備もおろそかに。
堤防の決壊が大雨によるものか、それとも忍城側の破壊工作によるものかはわかりません。お城を攻める側が警備をおろそかにしていたことも、忍城側の破壊工作を招いてしまった一因と言えるでしょう。
(秀吉は備中高松城で3㎞の堤防を3万の兵で、三成は忍城を28㎞の堤防を2万の兵で警備しました。28㎞もの堤防を警備することにも無理があった)
もし秀吉本人が忍城まで来ていたら、水攻めに向かない地形・土地であることを見抜いていて水攻めは行わなかったかもしれませんね。
スポンサーリンク水攻めのまとめ メリットとデメリット
ここで水攻めのメリットデメリットを整理しておきます。