今回はお城の攻め方の1つ、「調略戦」について解説していきます。
調略とは、はかりごとをめぐらすこと。計略「goo国語辞書」より
調略とは、はかりごと。つまり、ニセ情報を流して敵を混乱させたり、敵の武将を味方へ寝返らせることです。
お城を「攻める」「落とす」と言うと、力攻めでお城へ突撃したり、水攻めや兵糧(ひょうろう)攻めで敵のお城を包囲することを想像すると思います。
しかし、力攻めで無理やり攻めたりしなくても、お城を落とすことができたのが「調略戦」なのです。
・調略戦のパターンとメリットとは?
・実際の戦国の調略戦とは?
ー七尾城の戦い
ー名胡桃城の戦い
ー第1次月山富田城の戦い
ではさっそく、戦国の城攻め「調略戦」を見ていきましょう!
Contents
調略戦のパターンとメリットとは?
ここでは調略戦のパターンとメリットをそれぞれ解説していきます。
調略戦のパターンは2つ フェイクニュースと寝返り
調略戦のパターンとは下記の2つ。
- お城に立てこもっている敵武将を寝返らせること
- ニセ情報(フェイクニュース)を流し、敵を混乱させること
1つ目の「お城に立てこもっている武将を敵武将を寝返らせる」とは、「お城に立てこもっていても勝ち目はないよ〜」とか「今のうちにこっちの味方になっておいたら、得だよ!」と敵を誘惑して、こちらの味方になるよう説得することです。
そして2つ目の「ニセ情報を流して、敵を混乱させること」とは、敵のお城のなかにこちらのスパイ(忍者)を忍ばせておいて敵の兵士に「このお城はヤバイらしい」とかニセ情報を広めることで敵の動揺や混乱を誘っていました。
調略戦のメリットとは?
調略戦でお城を落とすメリットにはどんなものがあったのか見ていきましょう。
カンタンにメリットをあげると次の2つ。
- 城攻めの短期化
- 兵の消耗を避けることができる
メリットの1つ目「城攻めの短期化」とは、調略戦には力攻めや水攻めほど時間がかからず、城攻めにかかる時間が短縮されること。
城攻めにかける時間が短縮されることで、「食料の温存」「敵の援軍が来る前に決着をつける」「味方の兵士のストレス軽減」などのメリットが得られます。
また落としたお城が敵にとって重要な拠点だった場合、敵の守りの体制を再び整えるまでに時間がかかります。そして整えるまでの間は敵にとってスキだらけの状態になるので、そのスキをついて攻めていくことが可能になります。
メリットの2つ目「兵の消耗を避けることができる」とは、調略戦を成功させることで、力攻めのように実際に戦うことなくお城を落とすことが可能なことです。
極端な話、敵のお城を任されている武将(城主や城代)を1人説得することができれば、兵を出陣させることなくお城を落とすことが可能です。(もちろん敵もお城を任せる人物には裏切らな武将を選んでいるでしょう)
また戦うことがないので敵の兵も消耗させずにすみます。調略の結果、敵武将が寝返ることで配下の兵もこちらの味方になります。なので次の合戦には、もともと味方の兵士と寝返って味方になった兵士の両方が戦える状態でのぞむことができます。
お城を落とした上に、敵の兵士もこちらの味方として活用できるので一石二鳥とも言えます。
実際の戦国の調略戦
ここでは実際の戦国の調略戦による合戦を見ていきましょう。
- 七尾城の戦い(1576年)
- 名胡桃城の戦い(1589年)
- 第1次月山富田城の戦い(1542年)
七尾(ななお)城の戦い(1576年)
七尾城(石川県)とは、石動(いしするぎ)山系の北端に位置する城山の7つの尾根に築かれたお城。7つの尾根に作られたので、七尾城という。
能登(石川県北部)と越中(富山県)を領地にしていた畠山氏が代々このお城を居城としてきました。1500年代(16世紀)前半には全国有数の規模を誇る山城として改修されていました。
今回の1576年の七尾城の戦いとは、能登と越中を治めていた畠山氏と、越後(新潟県)から攻めてきた上杉謙信との戦いです。
ではさっそく、戦いの経過を見ていきましょう。
1576年当時の七尾城周辺(能登)の状況は、南から織田信長の軍勢が着々と支配地域を拡大していました。
この時の将軍・足利義昭に協力する形で信長と対決することを決めていた上杉謙信は、信長に能登や越中を取られてしまうと不利な状況になってしまうため、なんとしてでも阻止したかった。
そこで謙信は信長より先に能登と越中を支配するために動き出します。
1576年9月、謙信は越後から越中へ大軍で進軍。
このとき、越中と能登を治めていた畠山氏は謙信と正面から戦うことは不利と考え、守りの固い七尾城へ立てこもる(籠城:ろうじょう)ことにしました。
越中を越えて能登へと進んできた謙信は、七尾城を落城させるためにまずは周りのお城から攻めることに。しかし肝心の七尾城はなかなか落とせません。
途中いろいろあって、翌77年7月、再び七尾城を攻撃するも上杉軍は敗退してしまいました。
力攻めでは不利だと考えた謙信はお城に立てこもる畠山氏の家臣を寝返らせるための交渉をはじめました。
この時の畠山氏の当主は「春王丸」というわずか4歳の子供でした。そこで政治の実権は有力家臣の「長続連(ちょうつぐつら)・綱連(つなつら)父子」「遊佐続光(ゆさつぐみつ)」「温井景隆(ぬくいかげたか)」が握っていました。
しかしこの4人は、謙信に味方する方が良いと考える遊佐続光、温井景隆と、信長に味方する方が良いと考える長父子との間で意見が対立していました。
そして七尾城の中では、お城に立てこもっている期間が長引いたために病気が流行していました。そのため当主である春王丸までもが病気で亡くなっていました。
当主を失った七尾城では家臣が分裂。そこで謙信は家臣を寝返らせるために交渉へ。相手はもちろん謙信に味方した方が良いと考える遊佐続光と温井景隆です。
1576年9月、遊佐続光と温井景隆はこのままお城に立てこもっていても勝てないと考え、上杉軍へ寝返ることを決めました。
9月15日、遊佐続光と温井景隆は七尾城内で反乱を起こし、上杉軍を城内へと引き入れました。そして城内は大混乱になり、七尾城は落城しました。
謙信が敵家臣の寝返りに成功したポイントは2つ。
- 敵家臣が団結しておらず、それぞれの考えがバラバラだったことを謙信が知っていたこと。
- 謙信は寝返らせる相手として誰と交渉するのが良いか把握していたこと。
謙信は忍者などを使うなどして、七尾城内の情報を手に入れていたのでしょう。家臣たちが団結していないこと、そして誰が寝返る可能性があるか、寝返った時の影響が一番大きくなるのは誰なのかを謙信は把握して寝返りの交渉を進めていたと考えられます。
名胡桃(なぐるみ)城の戦い(1589年)
名胡桃城(群馬県)とは、利根川と赤谷川の合流地点近くに築かれ、沼田城を攻めるために築かれたとも、守るために築かれたとも言われるお城。
この名胡桃城と沼田城の間には複雑な問題があり、それが名胡桃城の戦いの原因でもあり、1590年の豊臣秀吉による小田原攻めへとつながっていく。
1582年、本能寺の変で織田信長が死ぬと、織田家の領地だった信濃(長野県)、甲斐(山梨県)、上野(群馬県)を巡って、徳川家康と北条氏直との間で争奪戦になった。(天正壬午の乱)
このとき、徳川と北条の争奪戦に巻き込まれた真田昌幸はそれまで治めてきた領地をなんとか守っていた。
1585年、徳川家康の傘下に入ることで自分の領地(信濃と上野の一部)を守ろうとした真田昌幸だった。しかし家康が北条と和睦(停戦)したことで事情が変化。
家康と北条との間で交わされた約束には、昌幸の領地の半分を北条へ引き渡すことが入っていた。もちろん昌幸には事前の相談はなし。
このときの家康と北条との約束が1589年の名胡桃城の戦いの原因となる。
その後、この約束に反発した真田昌幸は北条へ引き渡すはずだった領地を引き渡さずに治めていた。
1589年春、豊臣秀吉は真田と北条との仲介に入り、この問題を下記のように裁定した。
- 真田が治めていた沼田領(上野の一部)を3等分する。
- 沼田城を含む2/3を北条が治める
- 名胡桃城を含む1/3を真田が治める
- 真田が失った領地は家康が別の領地を与える
このときは真田と北条も秀吉の案を受け入れて、領地の配分が行われた。
この時名胡桃城を守っていたのは真田家臣の「鈴木重則」。
鈴木重則は名胡桃城を、姉婿の「中山九郎兵衛」とともに守っていた。
しかしこの中山九郎兵衛は北条とつながっていた。
1589年10月、中山九郎兵衛が鈴木重則に対して「真田昌幸から呼び出しがあった」と伝え、上田城(長野県)へ行くように促した。しかしこの情報はウソで、重則が外出した後お城の城門を閉じ、封鎖してしまった。
そこへ沼田城を任されていた北条家臣・猪俣邦憲がやってきて、名胡桃城を奪ってしまったのだ。
すぐに異変に気づいた重則だったが手遅れでだった。その後、重則は主人である真田昌幸に対して面目が立たないとして近くのお寺で切腹したという。
この北条家による名胡桃城の強奪が豊臣秀吉への反抗と捉えられ、翌90年の小田原攻めへとつながり、北条家は滅亡する。
- ウソ情報(フェイクニュース)を使って城主を留守にさせ、お城を奪った
第1次 月山富田(がっさんとだ)城の戦い(1542年)
月山富田城(島根県)は戦国時代に中国地方で大きな勢力を誇った戦国大名尼子氏の本拠地だったお城。地形を活かした難攻不落のお城で日本100名城にも選べれています。
この第1次月山富田城の戦いの面白いところは、今回見てきた2つの戦い(七尾城と名胡桃城)とは違い、お城に立てこもっている側(籠城側)による調略戦が成功したことです。
ではさっそくこの戦いを見ていきましょう。
1542年ころの中国地方は、山口県を本拠地としていた大内氏と、この月山富田城を本拠地としていた尼子氏という2つの大きな戦国大名が争っていました。そしてそこに毛利元就など、小さな国人領主(直接農民を支配していた武士、地侍)が巻き込まれていました。
1542年の第1次月山富田城の戦いが起きた当時は、大内氏が優勢で尼子氏は窮地に立たされていました。
この時の尼子氏の当主は尼子晴久でした。しかし前年の1541年11月に晴久の祖父・経久がが亡くなりました。尼子経久とは、1代で尼子氏を有力戦国大名へと押し上げたカリスマで、彼の死は周辺地域へ大きな影響を与えました。
経久の死によって、それまで尼子氏に従っていた国人領主が大内氏へ属すという尼子離れが起こったのです。
1542年1月、大内氏の当主・大内義隆は自ら月山富田城へ向けて出陣します。
途中、宮島の厳島神社によって戦勝祈願をするなどしながら月山富田城のある出雲へと向かいます。そして毛利元就など道中にいる国人領主を合流させながら大軍となって攻めていきました。
月山富田城へ到着したのは1542年10月。しかししばらくは攻撃らしい攻撃はしていなかったそうです。
1543年1月大内義隆は月山富田城の目の前の京羅木山へと本陣を移動。
ここで大内氏には2つの作戦案がありました。家臣の陶隆房(晴賢)がすすめる「お城を一気に力攻めする作戦」と毛利元就がすすめる「力攻めで落とすのは無理なので、じっくりと包囲する作戦」でした。
ここで大内義隆は家臣・陶隆房の作戦案「一気に力攻め」を選択。
1543年3月、本格的な戦いが始まる。そして大内軍の有利な状況で合戦が進んでいきます。
合戦を有利な状況で進めていた大内氏でしたが、4月になると状況が逆転。
1度は大内氏へと寝返っていた元尼子家臣3人が、再び寝返って尼子氏の味方になったのです。
そしてこの元尼子家臣3人三刀屋久扶(みとやひさすけ)、三沢為清(みさわためきよ)、本城常光(ほんじょうつねみつ)は、月山富田城を攻撃すると見せかけてそのままお城へ入城。
これによって力攻めでお城を落とすことは困難になってしまいました。
さらに月山富田城を攻めるために出雲奥深くまで進出してきていた大内軍は、元尼子家臣の寝返りによって敵の領地内に孤立する形に。
1543年5月7日、大内義隆はこのまま踏みとどまって城攻めをすることは危険と判断して、撤退していきました。
- 一度は相手側へ寝返った元家臣を再び寝返らせることに成功。そして窮地を脱した。
この戦いの流れを変えた元家臣3人はどのように考えて、再び尼子氏に味方するようになったのかはわかりません。(伝える文書などが残っていないので)
この3人の立場になって理由を想像してみることも歴史の楽しみの1つだと思います。
スポンサーリンクまとめ
- 調略戦のパターンは2つ、寝返りとフェイクニュース
- 調略戦を成功させるために、相手の情報を入手することが重要
- 情報を元に適切な人物に、適切なタイミングでアプローチする
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