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今回の合戦は「川越城の戦い(川越夜戦)」
川越城をめぐる戦いは何度も繰り返されていますが、今回は1546年(天文15年)に起きた合戦です。
川越城の戦いは毛利元就の「厳島合戦」、織田信長の「桶狭間の戦い」とともに三大奇襲戦に数えられています。
今回の主役は「北条氏康」。
北条氏康は神奈川県小田原市に本拠をかまえていた戦国大名で、北条氏の三代目です。
のちに関東地方の覇者となる北条氏。
川越城の戦いのときはまだまだ新興勢力でした。
この1546年に起きた川越城をめぐる戦いをきっかけに関東における力関係が変わり、室町時代をとおして権力と勢力を保っていた戦国大名が没落していきます。
では、関東地方の新旧対決となった川越城の戦いを見ていきましょう。
Contents
合戦前 1545年(天文14年)8月~9月 川越城の戦い(川越夜戦)
川越城の戦いは川越とは違う場所で起きた合戦が原因になって起きました。
1545年(天文14年)8月、駿河(静岡県東部)を支配していた今川義元が武田信玄の援軍を得て、当時北条氏の領土になっていた駿河国・河東地域(静岡県三島市周辺)へ攻めてきました。
北条氏康は河東地域に兵を出して対処しました。
しかし相手は当時有数の力を持っていた今川義元と武田信玄。
戦況はこう着状態になっていました。
北条氏康が河東地域に釘づけになっている状況をチャンスとみた人物がいました。
「上杉憲政」と「上杉朝定」です。
上杉憲政と上杉朝定は、「鎌倉府」(室町幕府の関東支配のための機関)を補佐する「関東管領」という役職を世襲する一族でした。
それぞれ元もと本拠地を置いていた地名から上杉憲政は「山内上杉家」、上杉朝定は「扇谷上杉家」と称していました。
両上杉家は親戚同士だけど、関東管領をどちらが世襲するかをめぐって長い間対立していました。
川越城の戦いのときは山内上杉憲政が関東管領になっていました。
長年対立してきた山内上杉家(山内憲政)と扇谷上杉家(上杉朝定)でしたが、
北条氏によって扇谷上杉家は滅亡寸前にまで追い詰められていたため協力して北条氏に対抗することを決断する。
さらに鎌倉府を世襲していた足利晴氏を味方にします。
足利晴氏は足利将軍家の親戚で、北条氏康の妹をお嫁さんにしていました。
駿河の河東地域と川越城と挟み撃ちにあっている北条氏康の分が悪いと判断して、足利晴氏は氏康の義弟でありながら敵の上杉憲政と上杉朝定の味方になりました。
絶体絶命!北条氏康 危機を脱する 1545年10月~1546年4月 川越城の戦い(川越夜戦)
1545年9月、上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏軍は川越城を包囲。
兵数は軍記物語には8万人と書かれているけどこれは誇張で、実際には約3万人が妥当と思う。
それに対する川越城の兵数は3千人と言われている。
川越城は約10倍もの軍によって包囲されていることになる。
川越城は平城だけど、周りには川が多くて沼地が広がっていた。
そのため、沼地が邪魔で攻める場所が限定されているので守りやすく攻めにくいお城でした。
しかし、3千の兵では3万の軍を相手にすることはできず、お城にこもっているだけでは食料がなくなり降伏するしかありません。
川越城が助かるには援軍を待つしかありませんでした。
その頃、北条氏康はまだ駿河・河東地域(静岡県三島市周辺)で今川義元・武田信玄軍と対峙していました。
当時の北条氏の体力では2正面作戦を行うことはできず、どちらか一方を捨てなければいけなかった。
ここで、氏康は決断します。
今川義元の援軍として来ていた武田信玄の仲介を得て、駿河・河東地域を今川義元へゆずることで停戦合意に達したのです。
駿河・河東地域をゆずるということは、北条氏の本拠地・小田原城の箱根の山をはさんで目と鼻の先が敵の領土になるということでした。
しかし氏康は即決で河東地域を捨てました。
氏康の中では川越城と河東地域を比較して川越城の戦略的価値が高かった。
停戦合意に達した今川義元と氏康ですが、氏康は義元を警戒してすぐに川越城へ援軍として駆けつけることができませんでした。
氏康が川越城へ駆けつけたのは翌1546年4月まで遅れます。
決着!川越城の戦い(川越夜戦) 1546年4月
北条氏康はすぐに援軍として駆けつけることができなかった。
しかしこの間、何もしていなかったわけではありません。
川越城を包囲していた上杉憲政・上杉朝定に対して「詫び状」を送っていたのです。
川越城を手放す代わりに城内にいる兵士の解放を求めていました。
さらに妹婿の足利晴氏に対しては寝返るよう説得を試みます。
しかし上杉憲政・上杉朝定と足利晴氏から拒否されてしまいます。
1546年4月中旬、氏康は小田原から江戸を経由して川越へ兵5千を率いて向かいます。
1546年4月19日、氏康は川越城周辺に到着します。
この時点でも氏康はまだ上杉憲政に対して「詫び状」を送っていました。
上杉憲政・上杉朝定、足利晴氏らは氏康が「詫び状」を出すなど、戦闘意欲が低いとみて油断していました。
しかし氏康は到着後、すぐに行動します。
4月20日未明、川越城の南側に布陣していた上杉朝定軍へ襲い掛かったのです。
突然のことで、混乱する上杉朝定軍はまともな反撃もできずに敗走し、上杉朝定は討ち死にしてしまいます。
そして、上杉憲政軍は逃げてきた上杉朝定軍に巻き込まれ、ともに混乱に陥ってしまいました。
城外での戦闘に気づいた川越城守備隊は出撃し、東側に布陣していた足利晴氏軍に襲い掛かり、敗走させました。
スポンサーリンクまとめ
北条氏康は次の点を見抜いていました。
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- 相手は大軍だけれど寄り合い所帯で意思統一が不十分だった。
- 大軍であることがかえって油断する原因になった。
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これらの点をふまえながら、氏康は素早く行動を起こすことで相手の態勢が整う時間を奪い奇襲を成功させました。
氏康は一貫して川越城を維持することを目標とし、そのために今川義元と領土を譲ってまで争うべきではないと判断し行動していました。
それに対して、上杉憲政・上杉朝定、足利晴氏軍は1545年9月に包囲して以降、1546年4月まで川越城を包囲するのみでした。
上杉・足利軍はこの合戦で何を達成したいのか(川越城を奪うのか、氏康を討ち取るのか)、どうやって達成するのか(川越城を力攻めにするのか、降伏を促すのか)が定まっていなませんでした。
複数の戦国大名が協力することで大軍で川越城を包囲することができる反面、それぞれの思惑があってこの合戦で何を達成するのかを決めることができなかった。
目標を定め果断に行動していった北条氏康と、それができなかった上杉・足利軍。
現代のベンチャー企業や大企業にも当てはまるのではないでしょうか。
およそ45年後、豊臣秀吉が20万もの大軍で北条氏の本拠地・小田原城を包囲します。
しかしこのときは秀吉がトップで絶対的な権力を持っていて、北条氏を滅ぼすという目標設定もされていたので大軍をまとめることができました。
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参考資料:
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