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技巧的な山城
戦乱の世の中が長くづくと武器や兵器は飛躍的に発達していきます。戦国時代の山城の防御機能も同様で飛躍的に発達していきました。
切岸(きりぎし):斜面を削って急こう配にして登りづらくした。
堀切(ほりきり):敵の侵入を防ぐために山の尾根を切断し堀としたもの。
帯曲輪(おびくるわ):本丸などの主要な曲輪の周囲に配置した曲輪。
櫓(やぐら):見張りのための建物。櫓から弓矢や鉄砲で攻撃することも。
出丸(でまる):防御や攻撃などの点から中枢部から離れて配置された曲輪。
障子堀(しょうじぼり):堀の底を土手で仕切ったもの。敵の堀内での動きを抑えるためのもの。
竪堀(たてぼり)・畝状竪堀(うねじょうたてぼり):斜面を堀で縦に仕切って、敵の横方向への移動を抑えるためのもの。竪堀を連続させたものが畝状竪堀。
丸馬出(まるうまだし):出入口の守備や出撃のための拠点として設けられた。半円形のものを丸馬出という。角形のものは角馬出。
毛利氏の吉田郡山城、上杉氏の春日山城(新潟県上越市)、六角氏の観音寺城(滋賀県近江八幡市)、浅井氏の小谷城(滋賀県長浜市)などの戦国大名の本拠地の居城はとにかく巨大な山城です。
しかし、敵国との前線に築かれた山城は規模は小さいがいかに攻め落とされないかを考えられており複雑な構造をもっています。
賤ケ岳の戦いで柴田勝家が本陣を構えた玄蕃尾城(げんばおじょう、福井県敦賀市)は国指定史跡のためよく整備されているため、遺構が見つけやすくなっています。
また山中城(静岡県三島市)は後北条氏特有の障子堀が保存されているのでオススメです。
杉山城
杉山城(埼玉県比企郡嵐山町)は戦国期の山城の中でも最も発達した構造をもつお城です。
杉山城は本郭を中心に北、南、東へと郭(曲輪、くるわ)が連なっています。
本郭は長方形で、北辺、南辺、東辺のそれぞれに虎口(出入口)に横矢(側面攻撃)を与えるために土塁は折れており凸状になっています。
さらに本郭の外側にはそれぞれ二の郭、三の郭が配置され、本郭を防御しています。
一番なだらかで攻め上りやすい南側には大手口、外郭、馬出郭、南三の郭、南二の郭、井戸郭と多くの郭があり、またそれぞれの虎口に横矢が与えられるようになっていて特に防御を強固なものとしています。
杉山城は16世紀後半(1500年代後半)の発達した縄張(お城の構造)で極めて高いレベルにあります。
当時、埼玉県を支配していた後北条氏のお城の中にもこれほどの巧みな構造を持つお城はなく、豊臣秀吉による小田原攻めの時の豊臣軍の臨時のお城とも考えられていますが、城の歴史や築城者などは不明で謎の多いお城です。
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