お城の歴史

石垣がのこる日本三大山城のひとつ【高取城の歴史】をまるっと解説

高取城の歴史

今回は「高取城の歴史」を紹介します。

こんな人にオススメの記事です

高取城の歴史をおおまかに知りたい人
お城に興味を持ち始めた人
高取城へ行く前に予習しておきたい人
高取城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人

まずは高取城の歴史のポイントを3つ紹介します。
このポイントをおさえておくだけでも、歴史の概要はつかめますよ。

  • 南北朝時代に越智邦澄によって築城
  • 本多利久・俊政親子が高取城を天守や石垣をもつお城に大改修
  • 城主・植村氏は特別な許可「常普請」を幕府からもらっていた

お城に限らず、神社やお寺、そのほかの歴史的建造物でも建てられた時の時代背景や歴史を知っていると見学した時により楽しめ、そして歴史ドラマや小説なども理解度が増してストーリーに入り込むことができます。

この記事で高取城の歴史に詳しくなってお城めぐりや歴史小説・ドラマをもっと楽しんでいきましょう。

Contents

高取城ってどんなお城?

日本三大山城のひとつ、巨大な石垣の山城

高取城の場所高取城の場所

奈良県高市郡高取町にある高取城。

高取城は岩村城(岐阜県)や備中松山城(岡山県)とともに日本三大山城のひとつに数えられている山城。
標高583mで城下町との標高差は400m以上と、近世(戦国末期〜江戸時代)に作られたお城では特に高い場所に作られた山城です。

そのため眺望はよく、条件が良ければ大阪や六甲山まで見ることができます。

また高取城の場所が高すぎたために、江戸時代の城主は城下町で政務を行なっていました。

現在の高取城には建物は残っていません。
しかし本丸や二の丸の石垣はキレイに残されています。

「たつみ高取 雪かとみれば 雪でござらぬ 土佐の城」と詠われたように、山に降った雪と間違えるほどキラキラ光っていた石垣が高取城の最大の見どころです。

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高取城の歴史

ここからは高取城の歴史を戦国時代〜明治・昭和・平成まで順に紹介していきます。

戦国時代の高取城

南北朝時代に越智邦澄によって築城

高取城からの眺望高取城からの眺望

高取城が築城されたのは南北朝時代。
天皇家(朝廷)が北朝と南朝に分かれていた時期を南北朝時代といいます。

大和国(奈良県)では平安・鎌倉時代と経ていくうちに、越智氏、十市(とおち)氏、箸尾氏、筒井氏の4つの武士一族が力をつけてきていました。

南北朝時代になると、南朝側の越智氏と北朝側の筒井氏とで大和国の支配権をめぐって対立するようになります。

こうした南北朝時代の争いの中で、高取城は越智邦澄によって貝吹山城の支城として築城されています。奈良と吉野を結ぶ芋ヶ峠を監視する目的で築かれ、当初は小さなお城でした。

織田信長の命令で高取城は一時廃城に

高取城の石垣高取城の石垣

戦国時代になる頃には、越智氏は高取城を本拠地にしていました。

信長や秀吉が誕生する以前、本願寺の僧・証如が率いる一向一揆が大和国へ侵入。高取城を包囲する事件がありました。この時は高取城の越智氏と助けにきた筒井氏で一向一揆を挟み撃ちにして撃退しています。
その後、越智氏は筒井氏の配下となっています。

織田信長が将軍・足利義昭をつれて京都へ入ると、筒井氏・越智氏はともに信長の配下になりました。

のちに織田信長は大和国に破城令を出しています。
破城令とは江戸時代の一国一城令と似ていて、信長は大和郡山城を残してその他のお城を廃城にしました。
これは大和国での「戦国時代は終わり、平和になった」ことを示していたと言われています。

このため高取城は信長の破城令によって一時的に廃城になっています。

本多利久・俊政親子が天守や石垣をもつお城に大改修

高取城の石垣高取城の石垣

本能寺の変で織田信長が亡くなると、筒井氏当主・筒井順慶は秀吉に仕えるようになりました。越智氏も筒井氏に従って秀吉に仕えています。
しかし順慶によって越智氏当主・越智頼秀が殺害されました(自害説もあり)。この事件によって越智氏は滅亡してしまいます。

この後、筒井順慶は自身のお城・大和郡山城を中心にしたお城網を整備。高取城も支城の一つとして改修・拡張されました。

順慶の跡をついでいた筒井定次は、秀吉の命令で伊賀上野へと移っていきました。
代わりに大和国を統治することになったのが、秀吉の弟・豊臣秀長です。
秀長は大和郡山城を居城としたので、家臣を高取城の城主にしていました。
最初、脇坂安治が、のちに本多利久・俊政親子が城主になっています。

豊臣秀長・秀保と主人が相次いで亡くなると、本多利久・俊政は秀吉の家臣になりました。
秀吉家臣になった後もそのまま高取城主を続けていて、高取城を大改修、天守や石垣を使った巨大な山城へと変身させています。

秀吉の死後に起きた関ヶ原の戦いの直前、本多俊政は徳川家康に従って、上杉景勝討伐のために会津へと向かっていました。
そこで近畿地方で挙兵した石田三成と西軍は、徳川家康の東軍に味方している大名のお城を攻撃していきました。俊政が留守にしていた高取城も西軍の攻撃を受けていました。
しかし城主や多くの武士が留守にしていても、残っていてい者で西軍の攻撃に持ちこたえていて、高取城は落城することはありませんでした。

江戸時代の高取城

城主・植村氏は特別な許可「常普請」を幕府からもらっていた

高取城の石垣高取城の石垣

関ヶ原の戦いは徳川家康の東軍の勝利で終わりました。
東軍に味方していた本多俊政は高取城と領地を保証されています。
江戸幕府が成立すると高取藩として、本多氏が治めていきました。

しかし俊政の跡を継いでいた本多政武は跡継ぎがいないまま亡くなってしまいます。
このため高取藩は取りつぶしにされてしまいました。

取り潰しの後、高取城は一時的に幕府の直轄領となっていました。
その後、徳川家譜代の旗本・植村家政が大名となり、高取城主になっています。
ここから明治時代まで14代にわたって植村氏が高取城を治めていきます。

植村氏は幕府から特別な許可をもらっていました。
「常普請」といって、「いつでもお城の改修や修理を行なっても良い」というものです。

江戸時代は武家諸法度によってお城の改修・修理は厳しく制限されていて、幕府の許可なく行うと罰せられました。
秀吉家臣として有名な福島正則は大雨で壊れた広島城を許可なく修理したために領地を取り上げられています。

2万5000石の領地しか持たなかった植村氏には高取城は大きく、財政的には厳しかったと思います。
しかし現在も残るキレイな石垣は、定期的に手入れを受けていたことを示しています。

明治・昭和・平成の高取城

廃城令で高取城は石垣のみが残るお城に

高取城の石垣高取城の石垣

明治時代になると、廃城令で全国のお城が「存城処分」と「廃城処分」に分けられました。

高取城は廃城になり、建物の大半が周辺の寺院へと売られていきました。
廃城の18年後(1891年)には天守を含めた高取城のすべての建物が取り壊されていました。

高取城に建物が残っていないけど、城下のお寺に移築された門が残されています。
子嶋寺に高取城のニノ門が移築されていて、現在もお寺の門として残っています。

戦後の1953年には高取城跡が「歴史上または学術上価値が高いと認められ保護が必要なもの」と認定されて国の史跡に指定されています。

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高取城の歴史年表

1332 越智邦澄が貝吹山城の支城として高取城を築城
1532 本願寺の僧・証如と一向一揆が大和へ侵攻、高取城を包囲する(天文の錯乱)
1580 織田信長の破城令によって高取城が一時的に廃城に
1583 越智頼秀が殺害され、越智氏は滅亡する(自害説もあり)
1584 筒井順慶が大和郡山城の支城の一つとして高取城を改修、拡張
1585 筒井氏が伊賀上野へ移り、豊臣秀長の家臣、脇坂安治、のちに本多利久・俊政が高取城主になる
1591 豊臣秀長が亡くなり、本多氏は子の秀保に仕える
1595 豊臣秀保がなくなり、本多俊政は秀吉の家臣となる
1592〜96 本多氏によって高取城が大改修され、天守や石垣をもつお城に
1600 関ヶ原の戦い
俊政が留守にしている間に、西軍が高取城を攻撃したけどもちこたえる
1637 俊政の子・政武が亡くなる。
跡継ぎがいなかったために、本多氏は取りつぶしに
1640 旗本の植村家政が大名となって、高取藩を再興
明治まで植村氏が治めていく
1863 高取城が天誅組の攻撃を受ける、13代植村家保によって撃退される(天誅組の乱)
1869 版籍奉還、高取城が兵部省の所管となる
1873 高取城が廃城に、大半の建物が取り壊され近隣の寺院へ売却された
1887 高取城の黒門が払い下げられる
1891 この頃までにすべての建物が取り壊される
1892 松ノ門が土佐小学校の校門に移築
1944 土佐小学校が火災で全焼
松ノ門は一部損壊し、解体保存された
1953 高取城跡が国の史跡に指定される
2004 解体保存されていた松ノ門が児童公園の表門として一部復元される
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高取城の歴史 まとめ

今回は「高取城の歴史」を紹介しました。

高取城は南北朝時代に築かれて、戦国〜江戸時代にかけて何度も改修され巨大な山城になったお城でした。
現在は日本三大山城の一つに数えられ、日本100名城にも選ばれています。

建物は残っていませんが石垣は当時の姿を留めていて、山中にのこる石垣が見どころの一つになっています。

最後にもう一度歴史のポイントをおさらいしておきましょう。

  • 南北朝時代に越智邦澄によって築城
  • 本多利久・俊政親子が高取城を天守や石垣をもつお城に大改修
  • 城主・植村氏は特別な許可「常普請」を幕府からもらっていた

高取城へのアクセス

  • 奈良県高市郡高取町
  • アクセス方法1:電車「壺阪山駅」から徒歩で約2時間
  • アクセス方法2:電車「壺阪山駅」よりバスで「壺阪寺」へ、ここから徒歩で約1時間
  • アクセス方法3:クルマで現地へ行き、城下の観光駐車場や高取町役場に駐車、そこからバスや徒歩で高取城へ
  • 高取城はアクセスしにくい場所にあります。事前に観光HPを確認しましょう。「高取城へお越しになる皆様へ|高取町観光ガイド

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