今回は「弘前城の歴史」を紹介していきます。
- 弘前城の歴史をおおまかに知りたい人
- お城に興味を持ち始めた人
- 弘前城へ行く前に予習しておきたい人
- 弘前城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人
まずは弘前城の歴史のポイントを4つ紹介します。このポイントの所をおさえておくだけでも弘前城の歴史の大まかな流れは把握できます。
- 南部氏から独立した津軽為信が弘前城を築城開始
- 焼失していた天守を9代目・寧親(やすちか)が現在の天守を再建
- 旧藩士が桜を植えて、弘前城を桜の名所に
- 石垣の修理のために、天守が70m移動
弘前城の歴史に詳しくなって、お城巡りも歴史ドラマ・ゲームも楽しんでいきましょう。
Contents
弘前城ってどんなお城?
まずは弘前城がどんなお城なのかを紹介します。
最北の現存天守が建ち、桜の名所になっている弘前城
青森県弘前市にある弘前城は津軽平野に築かれ、江戸時代には弘前藩のお城でした。
弘前城には江戸時代に築かれた天守が現存していてます。この天守は最北に位置する天守であり、関東・東北地方で唯一の現存天守です。
弘前城は天守だけでなく、櫓や門、石垣・土塁なども多く残されていて、現存する遺構の数は姫路城に次いで2番目の多さ。そして本丸・二の丸・三の丸の堀がほぼ完全に残されているお城は弘前城のほかにはありません。
そして弘前城は桜の名所としても有名です。毎年桜の時期には「弘前さくらまつり」が催されていて、ソメイヨシノをはじめ、しだれ桜、八重桜など約2600本の桜が迎えてくれます。祭り期間中はライトアップされるので、お城での夜桜を楽しむこともできます。
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ここからは弘前城の歴史を戦国時代〜昭和・平成まで紹介していきます。
戦国時代の弘前城
南部氏から独立した津軽為信が弘前城を築城開始
弘前城は戦国時代末期に津軽為信が築城したことに始まります。
豊臣秀吉は1590年の奥州仕置きで東北地方の戦国大名たちを支配下に置くことで天下統一を果たしました。そして津軽為信は秀吉から津軽地方の領有を認められ、それまでの南部氏の家臣という立場から独立した大名になることができました。
独立した大名になった為信は、堀越城(弘前市)を拠点にしていました。しかし堀越城は、お城の近くで平川と大和沢川の合流地点がありよく氾濫すること、防御の面で不安があったことの2つのデメリットがありました。
そして1600年と1602年の二度にわたって、家臣の反乱によって堀越城が占拠されたり、本丸まで侵入される事件が起こりました。このことがキッカケで1603年より、為信は弘前城の築城を開始。軍師に相談して周辺の地形やお城の防御面、風水など多角的に考えて場所を決定したと言われています。
2代目・信枚の時代に五重天守がそびえる弘前城が完成
1603年から始まった弘前城の築城工事。しかし為信は弘前城の完成を見ることなく1607年に亡くなってしまいます。そして、津軽家と築城工事は三男の信枚(のぶひら)に引き継がれていきました。
為信の死によって一時中断していた築城工事は、1609年に改めて江戸幕府から許可が下りたので翌10年から再開。工事再開から1年後の1611年ころに、五重天守をそなえた弘前城が完成し、その後は城下町の整備が進められていきました。
信枚は家康の養女(満天姫・まてひめ)を正室に迎えていて、家康が豊臣氏を滅ぼした大坂の陣にも参加するなど、徳川家との結びつきを強めていました。信枚の代で弘前藩の基礎が出来上がっていきました。
1628年には僧侶の天海大僧正の助言を受けて、それまでの地名「高岡」から「弘前」へと改名。これにともなってお城も「弘前城」と呼ばれるようになりました。
江戸時代の弘前城
落雷で焼失していた天守を9代目寧親が現在も残る天守を再建
信枚が建てた五重天守は、1627年の落雷によって焼失してしています。この時シャチホコに雷が落ちて、天守が炎上。そして天守ないに保管してあった火薬に引火して、大爆発を起こしました。
焼失後は凶作などの影響もあって藩の財政が悪化していたため、天守は長い間再建されることはありませんでした。
江戸後期、9代目寧親が天守の再建を目指します。
しかし武家諸法度によって天守の新築は厳しく制限されていたので、天守の再建を断念。そこで「櫓の新築」として幕府に届け出て、許可を得ています。この時に建てられた櫓が現在の天守です。
江戸時代中は幕府に遠慮して天守とは呼ばずに、「御三階櫓」と呼んでいました。天守と呼ぶようになったのは明治に入ってから、と言われています。
明治・大正の弘前城
幕末・明治維新を乗り越え、弘前城には多くの建物、石垣が残された
弘前藩は江戸時代を通じて、大名家が入れ替わることなく津軽氏が治めていきました。
幕末・明治時代になると薩摩・長州の明治新政府と、会津藩をはじめとする東北地方の藩との間で対立が深まっていきます。戊辰戦争では東北地方の藩たちは奥羽越列藩同盟を組んで、薩摩・長州に対抗。その中で会津若松城を舞台に会津戦争などが行われました。
そんな中、弘前藩はいち早く奥羽越列藩同盟を離脱。明治新政府に従う意思を示しました。そのためか、のちに廃城令が出されて各地のお城が取り壊されていく中にあっても、弘前城では多くの建物が壊されずに残されました。
明治時代には弘前城に陸軍の所管になっていましたが、旧藩主の津軽氏が城跡の貸与を政府に願い出て、許可をもらっています。そして1895年から弘前城は弘前公園として一般に開放されました。
旧藩士が荒れてた弘前城を桜の名所に
明治中頃になると弘前城は荒れ果てていました。この弘前城の状況を見かねた旧藩士・菊池循衛(きくちたてえ)がソメイヨシノ約1000本を植えたと言われています。
お城に桜を植えることに反発する一部の元武士によって、桜の苗木が抜かれることもありました。その後ソメイヨシノを追加で1000本植えています。
大正時代になると夜桜見物が流行ってきます。そして地元の商工会が中心になて「観桜会」がスタート。観桜会では露店があり、見世物興業、津軽民謡などさまざまなイベントで賑わっていました。
この観桜会が現在の「弘前さくらまつり」へとつながっていきます。
昭和・平成の弘前城
弘前城は空襲にあわず、多くの建物が戦災を免れる
明治に内北の丸にあった「戌亥櫓(いぬいやぐら)」と西の丸にあった「未申櫓(ひつじさるやぐら)」が焼失してしまいました。しかし昭和になると天守と三つの櫓、五つの城門が旧国宝に指定されています。
太平洋戦争中、多くのお城が戦災にあい現存していた天守や櫓、門、御殿など多くの建物・遺構が失われました。その中でも弘前城は戦災にあうことはありませんでした。このため、弘前城は今でも築城以来一度も戦火に見舞われたことがないお城です。
弘前城は戦災にあうことがなく、多くの建物や土塁、石垣などが無事でした。なので現存する建物・遺構の数が姫路城に次いで2番目に多いお城。
戦後には、天守、未申櫓(二の丸)、辰巳櫓(たつみやぐら)、丑寅櫓(うしとらやぐら)、追手門、南内門、東内門、東門、北門が重要文化財に指定されました。そして弘前城は、種里城・堀越城とともに「津軽氏城跡」として国の指定史跡にもなっています。
石垣の修理のために、現存天守が70m移動
弘前城では2014年から天守台を含む石垣の修理が行われています。
1983年の日本海中部地震がキッカケで、石垣がふくらんでくる「ハラみ」が指摘されました。その後の観測によって、石垣のハラみが明らかになって、そのまま放置しておくと石垣上に建っている天守もろとも崩落する恐れがありました。
石垣工事は2段階に分かれていて、石垣上に建っている天守を移動させる「曳家(ひきや)工事」と、「石垣の解体修理」です。
石垣の解体修理を行うためには、一度天守を移動させなくてはなりません。天守は現存する建物であり解体するわけにはいかないので、曳家工法が採用されました。曳家とは、建物を複数のジャッキで持ち上げ、建物の下にレールを敷いて、レールに沿って移動させる工法です。2015年に行われた曳家工事では、70日間かけて約400トンの天守が約70m本丸の中心へ移動しました。
曳家工事のあと、石垣の解体修理に着手。2016〜18年にかけて石垣の解体が完了。修理部分の石垣で2172石を解体しました。
2019年より石の積み直し作業が行われていて、2021年に天守が元の位置に戻される予定です。
スポンサーリンク弘前城の歴史年表
1590 | 津軽地方を統一した津軽為信が豊臣秀吉から領有を保証される |
---|---|
1603 | 為信は高岡(弘前)で築城を開始 |
1607 | 為信が京都で亡くなる。三男信枚が跡を継ぐ |
1609 | 幕府から築城許可がおりる |
1609 | 高岡城(のちの弘前城)の築城を再開 |
1611 | 五重天守がそびえる高岡城が完成 |
---|---|
1627 | 落雷によって天守が焼失 |
1628 | 高岡から弘前へと改名し、弘前城とよばれるようになる |
1810 | 9代目寧親が天守を再建する |
1868 | 弘前藩は奥羽越列藩同盟を離脱し、新政府に従う |
1871 | 弘前城に陸軍の施設が置かれる |
---|---|
1873 | 弘前城は陸軍の所管となり、本丸御殿、武芸所などが取り壊される |
1895 | 弘前城が弘前公園として一般に開放される |
1952 | 国の指定史跡になる |
弘前城の歴史 まとめ
今回は弘前城の歴史を紹介しました。いかがでしたか?
弘前城は東北・関東で唯一の現存天守があるお城であり、桜の名所としても有名です。石垣修理のために天守を壊さずに移動させているなど、他のお城にはない見どころがたくさんあります。
最後にもう一度弘前城の歴史のポイントをおさらいしておきましょう。
- 南部氏から独立した津軽為信が弘前城を築城開始
- 焼失していた天守を9代目・寧親(やすちか)が現在の天守を再建
- 旧藩士が桜を植えて、弘前城を桜の名所に
- 石垣の修理のために、天守が70m移動