今回は「都城制」について解説していきます。
学校の歴史の授業で都城制や「奈良・平安時代の都は中国の都市をマネして作った」というのを習ったことがあると思います。
学校では都城制について詳しい解説はなかったはず。
そこで今回は都城制について大きさなど調べてみました。
調べるうちに藤原京・平城京・平安京の違いなどハッキリしてきました。
それでは都城制についてみていきましょう。
Contents
都城制とは?
都城(とじょう)制とは、中国の都市づくりの基準で、よく「碁盤の目の街」などと言われるように左右対称で四角形の都市プランのことです。
都城制をもとに都市づくりをした国は、中国・日本・朝鮮など東アジア文化圏で広く採用。
もともと中国の都城制では王宮だけでなく街ごと城壁で囲っていました。
しかし朝鮮や日本では王宮は城壁で囲うものの街全体を囲う城壁は作られませんでした。
最初の都「藤原京」
中国で始まった都城制による都市づくり。日本で初めて都城制によって作られた都市は藤原京(奈良県橿原市・明日香村)(672〜694)。
藤原京は壬申の乱(672)に勝利した聖武天皇が、中央集権国家を目指して作った都市です。持統天皇が聖武天皇の死後も建設を進め694年に完成しました。
藤原京の大きさ
藤原京の大きさは約5.3㎞四方の街区に、東西南北それぞれに10の条坊(大きな道路)と、東西南北の各辺にそれぞれ3つずつ計12の門を備えていました。城壁はなく、築地塀や溝があるだけでした。
そして、ほぼ中央に約1㎞四方の藤原宮がありました。
この藤原京の大きさはのちの平城京や平安京を超える大きさで、古代最大規模の都市となりました。
藤原宮の役割とは?
藤原京の中心だった、「藤原宮」はどんなものだったのでしょうか?
藤原宮は、現在の皇居・官邸・議事堂や官庁街をあわせた機能を持っていました。このときの日本の政治機能はすべて藤原宮に入っていたことになります。
藤原宮は周囲1㎞を高さ5.5mの塀で囲まれていて、さらにその周りに堀が設けられていました。そして各辺に3つの門がありました。
藤原宮内部は、中央に政治や儀式の場である「大極殿(だいごくでん)」、役人・貴族が集まる「朝堂院(ちょうどういん)」、大極殿の北側に天皇が居住する「内裏(だいり)」が置かれていました。
スポンサーリンク奈良時代の中心都市「平城京」
藤原京は完成からわずか16年で役目を終え、都は平城京へと移っていきます(710)。
平城京の特徴は、平城宮の位置が北端中央に作られたことです。この点は、中央に藤原宮を作った藤原京とは異なっています。
そして、中央の大路「朱雀大路」を中心に「左京」「右京」とわけられていました。
平城京では街区を囲む城壁は築かれませんでしたが、南辺にだけ高さ5mの塀と、幅3.6mの堀が設けられていました。
スポンサーリンク京都の礎を作った「平安京」
平城京のあとは、恭仁(くに)京、紫香楽(しがらき)京、難波京、長岡京と続き、最後に築かれたのが平安京です。
794年に水害に悩まされていた長岡京から移ってきます。
平安宮は「京都御所」より西に寄っていて、当時の御所だった「平安宮」は二条城の北西に位置していました。
のちに清水寺や金閣寺・銀閣寺が築かれる場所は、この時はまだ平安京の外側だったんですね。
平安京はメインゲートである羅城門(らじょうもん)を中心に左右対称に寺院を建設しました。
これが現在でも有名な「東寺」。当時は「東寺」と「西寺」を築き左右対称としていましたが、東寺だけが当時のまま現在まで残されています。
まとめ
今回は「都城制」について解説しました。
京都・奈良へ旅行へ行かれる際にはこの記事を参考にしてもらえると幸いです。
読んでくださって、ありがとうございました。