今回はお城の「塀(へい)」について解説していきます。
お城でもっとも多く築かれたものが「塀」です。 全国どこのお城に行っても、塀は数km以上つくられていました。徳川幕府の本拠地・江戸城においては9km以上の塀が作られていたと言われています。 しかし、現存している塀はすべてのお城を合わせても1kmほどしかありません。そのほとんどが姫路城にあります。
塀にはお城の守備を固めながら、攻撃するための工夫が凝らされていました。
今回は「塀」について見ていきましょう。
- 土塀とは?
- いろいろな塀 なまこ壁・油壁
- 塀の防御の工夫
Contents
土塀とは??
中世城郭(鎌倉や室町時代のお城)では「板塀」が主流でした。お城の曲輪(本丸や二の丸などの区画のこと)のまわりを柵でかこい、そこに板をはっただけのものです。 戦国から江戸時代になると「土塀」が主流になってきます。 土塀とは土を塗り固めた塀です。ようするに土壁とおなじです。今でも古い家の和室などは土壁でできているところはあるかもしれません。
板塀は木の板を貼っただけのものなので弓矢にたいしては十分な防御力がありましたが、鉄砲や火矢にたいしては防御力がありませんでした。(貫通したり燃えるため) その点、土塀は塀に厚みがあるため弓矢はもちろん鉄砲も貫通することはありませんし、土でできているため燃えることもありません。(塀を支えるための柱も土でおおってしまうので、燃えやすい木材が外に露出していませんでした) 板塀とは違い、つくるためには時間と労力がかかりますが格段に防御力がアップするため戦国時代から江戸時代にかけてお城の塀の主流になっていきました。
控え柱(ひかえはしら)のある土塀とない土塀
土塀には控え柱(控えはしら)というものがあります。 控え柱とは城内側で土塀を補強するための柱のことです。 控え柱をつくることで、土塀の厚さをそれほど厚くしなくても(自立できなくても)よくなりました。控え柱をつくらない場合、土塀が倒れないように十分に壁を厚くしなくてはいけませんでした。しかし控え柱をつくることで薄い(薄いといっても鉄砲は貫通しない程度に)土塀をつくることができ、労力と時間の節約にもなりました。 そして控え柱があることで強度が増すので、合戦のときには敵に土塀を引き倒されるのを防ぐ目的もありました。
スポンサーリンクいろいろな土塀 なまこ壁と油壁
土塀のなかでもっとも多いのは漆喰(しっくい)を塗った総塗籠(そうぬりごめ)の白い土塀です。
総塗籠の土塀は表面に漆喰を塗っているため、耐火性に優れています。 土塀には総塗籠のほかにも「なまこ壁」と「油壁」というものがあります。
なまこ壁とは??
なまこ壁とは「総塗籠の土塀の下半分に瓦を貼った壁」のことです。
なまこ壁(海鼠壁)は塀の下半分に瓦をはっている分、さらに鉄砲は貫通しにくくなり、耐火性もアップしています。 金沢城ではほとんどの土塀とやぐらなどの壁にもなまこ壁が使われています。 なまこ壁は耐久性に優れていることから、雪がよく降る寒冷地で使用されていました。現在では金沢城以外にも新発田城(新潟県)のやぐらにもなまこ壁が使われています。
油壁
油壁とは「土塀に使う砂に粘土ともち米を混ぜて作った塀」のことです。 油壁は古く、奈良時代のお寺の塀や平城京や平安京の天皇の御所の塀にも使われていました。 油壁のお城での使用例は少なく、お城に現存している油壁は姫路城のみです。
スポンサーリンク土塀の防御の工夫
土塀は弓矢や鉄砲から味方を守るだけでなく、城内から攻撃もできました。 ではどのように攻撃したのか見てみましょう。
狭間(さま)
狭間(さま)とは土塀に開けられた穴のことで、この穴から土塀の向こう側(城外)の敵を弓矢や鉄砲で攻撃していました。
狭間にはいろいろな形があり、四角□、三角△、丸○があります。弓矢をつかう時と鉄砲をつかう時とで狭間の形が違っていて、弓矢は縦長の長方形□、鉄砲は三角△や丸○の狭間が使用されていました。それぞれを矢狭間・鉄砲狭間と呼ぶこともあります。
石落とし
石落としとは土塀や石垣の真下にいる敵を攻撃するためのものです。 前の項で狭間について説明しましたが、狭間の穴は小さく真下は死角になっていて見えません。 なので石落としをつくって、真下にいる敵を攻撃できるようにし、狭間の補助をしていました。
石落としという名前ですが、石落としは開口部の幅が狭いのでそれほど大きな石は落とすことができません。なので石落としでは鉄砲が使われていました。
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