お城用語でよく聞く「馬出し」って何?
馬出しにはどんな役割や機能があったのか知りたいな。
今回は「馬出し(うまだし)」の疑問に答えていきます。
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お城の出入口は兵士が出撃する場所でもあり、逆に敵の攻撃を最も受けやすい場所でもありました。
そこで考えられたのが「馬出し」というお城の出入口の形です。
今回は「馬出しの役割や機能」を写真・図などを使って解説していきます。
- 馬出しの役割
- 地域で差があった馬出し
- 馬出しの機能3つ
- 馬出しがオススメなお城4選
Contents
馬出しとはお城の出入口のひとつ
馬出しはお城の出入口の形の一つです。
戦国時代にお城とともに出入口が工夫されて発展していく中で、馬出しが登場しました。
馬出しは出入口の前面に作られた小さな空間で、周囲を堀で囲まれていて左右に出入口があります。
馬出しの形には2種類あって、四角いものを「角馬出し」、半円形のものを「丸馬出し」といいます。
東日本のお城で多く見られる馬出し
馬出しには地域性があって、東日本のお城で多く見られます。
戦国時代に東日本のお城では「横堀」が発達しました。
お城(曲輪)をぐるっと横堀が囲んでいるので、どこかに出入口を作る必要があります。
この出入口をいかに守るかが重要で、出入口をふさぐようにお城の外側に作られたのが馬出しです。
東日本の戦国大名で、武田氏が「丸馬出し」を、北条氏が「角馬出し」を好んで作っていました。
馬出しの機能3つ
ここでは馬出しの機能3つを詳しく見ていきます。
- 出撃拠点として
- 出入口の防御として
- 馬出しは奪われても大丈夫!
その1 出撃拠点としての馬出し
- 城内から味方の出撃をサポートできる
- 出入口が左右2つあるので2方向へ出撃可能
馬出しの機能の1つ目は「出撃拠点としての馬出し」です。
馬出しの出入口は左右にあって、堀をはさんで城内から丸見え。
そのため馬出し内から外へ出撃するときは、城内からの援護がありスムーズに出撃できました。
逆に兵が退却してきた時も城内から援護することができます。
また出入口が左右2方向にあるので、兵を分散させて出撃させることも可能。
馬出しは城内と連携することで、お城にこもっているだけじゃなく時には敵の隙を見て反撃することも可能にしました。
その2 出入口の防御としての馬出し
- 馬出しへ侵入しようとする敵を城内から攻撃
- 反対側の出入口から出て敵をはさみ撃ちに
お城を攻める側の立場からするとお城の出入口はカンタンな方が攻めやすい。
これは当然として、馬出しがあることで城門へ直接攻撃することができなくなり、「馬出しを奪う→城門を突破する」と2段階が必要になりました。
さらに馬出しに侵入しようとしても、出入口は城内から丸見えで攻撃を受けてしまいます。
また馬出しの出入口は左右に2つあるのでどちらか一方の出入口が攻められたとしても、反対側の出入口から出撃して背後を襲うことが可能でした。
その3 馬出しは取られても大丈夫!
- 馬出し内は狭くて動きずらいので、城内からの攻撃に無防備に
- 中と外との連絡・連携が取りずらい
馬出しは敵に奪われても大丈夫でした。
なぜなら簡単に奪い返すことができたから。
馬出しは堀と土塁・石垣に囲まれた小さな空間なので、敵は身動きが取りづらく、外にいる味方と連絡・連携が取れなくなります。
さらに馬出しに侵入した敵は身動きが取れない状態で、城内から攻撃を受けることになりました。
これでは城門を攻撃することができません。
なので馬出しが奪われたとしても城門を突破することは難しく、簡単に奪い返すことも可能でした。
スポンサーリンク馬出しがオススメなお城4選
ここでは馬出しがオススメなお城を4つ紹介します。
- 諏訪原城(静岡県)
- 篠山城(兵庫県)
- 佐倉城(千葉県)
- 広島城(広島県)
巨大な丸馬出しを持っている【諏訪原城】
諏訪原城には巨大な丸馬出しが残されています。
諏訪原城は武田信玄の跡をついでいた武田勝頼が築城。
以前まで諏訪原城の丸馬出しも武田氏時代のものと考えられていました。
しかし武田家が信長によって滅ぼされた後、諏訪原城は徳川家康によって改修されていたことが発掘調査によって判明。
巨大な丸馬出しは家康が作ったもので、当時の対豊臣秀吉を意識してお城を強化したと考えられています。
角馬出しが残る天下普請で築かれたお城【篠山城】
江戸時代初め、徳川家康の命令で大名たちに工事を負担させる「天下普請」によって篠山城は築城。
篠山城では三の丸の出入口3つ、大手・東・南の出入口に角馬出しが作られました。
大手馬出しは明治以降の市街地化で埋められてしまったけど、南馬出しは完全な状態で残っていて、東馬出しも原型をとどめています。
また南馬出しだけ大手・東馬出しとは違って、石垣は使われず土塁のみで作られていました。
角馬出しが復元された幕府トップ老中のお城【佐倉城】
江戸幕府の最高職「老中」が城主を任されることが多かった佐倉城。
佐倉城の馬出しは二の丸「椎木門(しいのきもん)」の前に作られていました。
この馬出しは明治時代なって陸軍によって埋められていたけど、1983年に馬出しの堀と土塁が復元されています。
かつての堀の深さは6mほどあったけど、危険防止のため深さ3mで復元されました。
秀吉のお城を参考にした馬出しを持つ【広島城】
広島城は戦国大名・毛利元就の孫、毛利輝元が築いたお城。
輝元は秀吉の招待で京都の聚楽第(じゅらくだい)、大坂城などを見てまわっていました。
秀吉のお城に感銘を受けた輝元は聚楽第を参考に広島城を築城。
広島城に残る馬出し(二の丸)は聚楽第を参考に取り入れられたもので、秀吉も自身のお城で馬出しを活用していたことが広島城からわかります。
お城めぐりで馬出しに注目してみよう!
今回は「馬出し」を解説しました。
馬出しは出入口を守りつつも、積極的に出撃するための出入口の形の一つです。
最後にもう一度今回の内容をまとめておきます。
- 馬出しとはお城の出入口の形の一つ
- 東日本のお城で多く見られる
- 馬出しの機能3つ「出撃拠点として」「出入口の防御として」「取られても取り返せる」
お城めぐりをするときはこの記事を参考に、ぜひ「馬出し」に注目してみてください。
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