今回は「惣構え(そうがまえ)」について解説していきます。
「惣構え」とは簡単に言うと、「都市全体を囲んだ堀や土塁など城壁」のことです。
惣構えは城下町をも堀や土塁で囲むことで、長期間の籠城(お城にこもって戦うこと)に対応できるようにしました。
- 城下町も囲むことでどんなメリットがあったの?
- 時代によって変わる惣構えの役割
- いろいろなお城の惣構え
Contents
惣構えは城下町もかこむことでどんなメリットがあったの?
惣構えで城下町をまるごとかこむことのメリットにはどんなものがあったのでしょうか?
メリットには下記の2つがありました。
- 惣構えのなかで食糧生産
- 総構えのなかに職人町をつくる
惣構えのなかで食糧生産
惣構えで城下町をふくむ広い土地をかこむことで、敵に荒らされることがなく食料をつくることができます。
惣構えのないお城では、合戦が起きる直前に周辺の町やお城から食料を集めてきて城内に備蓄していました。
そして、合戦が始まってしまうと外部との連絡はかんたんには取れなくなってしまうので、基本的には城内に備蓄しておいた分の食料しかありませんでした。
惣構えのなかに田畑をつくることで、城内に備蓄しておいた食料に+αの食料が生まれるので、長期間の籠城を可能にしました。
豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして攻めた小田原城(神奈川県)。小田原城は秀吉軍が攻めてくることに備えて約9kmにも及ぶ惣構えを築き、お城や城下町をかこんでいました。このときの小田原城には約5万6000人の兵士が籠城していたと言われています。
いくら周囲9kmをかこったとしても5万人もの兵士、そして町人や農民をも養えるほどの食料を自給自足できていたとは思えません。なので惣構えのなかで食料生産ができて無制限に籠城していられるわけではなくて、あくまで備蓄していた食料の+α分でしかありません。
しかしその+α分でより長い期間を籠城することができ、敵(お城を攻める側)の食料がなくなるのが先かという我慢比べに持ち込むことができました。
惣構えのなかに職人町をつくる
お城で籠城するときに重要なのが食料だということはすぐにわかります。
食料がなければたくさん兵士がいても戦えないからです。
では惣構えを築くときにはなぜ食料をつくらない城下町までかこったのでしょうか?城下町より田畑を多くかこったほうがよかったのではと思いますよね。
しかし城下町にもしっかりとした役割がありました。
それは「武器や防具の生産・修理」でした。
惣構え内で刀鍛冶・鉄砲鍛冶や甲冑職人の職人町をつくることで、傷んだ槍や甲冑の修理をしたり新たに作ったり、矢や鉄砲の弾など消耗品を生産していました。
食料の次に武器がなくては戦えないので、職人町は城下町に必須のものでした。
戦国時代末期から江戸時代にかけて鉄砲の普及率もかなり上がっていました。なので鉄砲の弾が生産できるというのは特に重要だったのではないかと思います。(火薬の生産はできないので、完全に備蓄に頼るしかないです)
スポンサーリンク時代によって変わる惣構えの役割
戦国時代までの惣構え
惣構えができたのは戦国時代。惣構えのなかにお城のほか、家臣の屋敷や城下町・お寺や神社もありました。
戦国時代では惣構えの外側にも城下町が広がっていました。
織田信長の岐阜城では惣構えのなかに住んでいた商人・職人はいわば信長の家臣でした。信長軍のために鉄砲や火薬を仕入れたり、槍や防具を生産・修理していました。
つまり信長の岐阜城では、惣構えのなかには家臣だけが住んでいたと言えます。
惣構えの外側では町や市場、農村、お寺などが独自に惣構えや防御施設をつくっていました。戦国大名といっても絶対的権力を持っていたわけではなく、お寺や町などがそれぞれに権力を持っていて並立的に共存していました。
江戸時代の惣構え
江戸時代では刀狩りや兵農分離で農民やお寺が武器を持ち戦うことが禁止になりました。
それまでお城の惣構えの外側にあった町やお寺は城下町に集められ、大名を頂点とした身分・階級がはっきりとした城下町の一部になっていきました。そして、惣構えは城下町全体をかこうようになっていきました。
戦国時代の惣構えでは大名の家臣のみが内側に住んでいました。なので、江戸時代の惣構えは戦国時代のものと比較すると、とても面積が大きい総構えになっています。
スポンサーリンクいろいろなお城の惣構え
それではいろいろなお城の惣構えを見ていきましょう!
小田原城(神奈川県)
まずは小田原城。上の絵は江戸時代に書かれた小田原城と城下町の絵図です。
江戸時代の小田原城を描いたものなのですが、豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして北条氏と戦っていた頃の惣構えも絵図のようなカタチだったと思われます。
小田原城を中心に城下町ごと惣構えがかこっているのがわかります。この惣構えは約9kmにもおよび土塁と堀で城下町をかこう長大なものでした。
豊臣秀吉は小田原城の惣構えをモデルに大坂城の惣構えや京都の御土居を築いたとされていて、その後の江戸時代に建てられたお城の惣構えの基本となっていきました。
大坂城(大阪府)
大坂城の惣構えは北・東・西側を天満川・東横掘川・猫間川などの河川を利用していて、南側は空堀を築いていました。
大坂城の惣構えは1614年の大坂冬の陣で迫り来る徳川軍20万人を防ぎ、誰一人として総構えの中に侵入させることはありませんでした。
大河ドラマにもなった「真田丸」は、惣構えの南側・空堀の外側に築かれていました。大坂城の南側はなだらかな斜面になっていて弱点とされていました。真田丸はこの弱点を補うために築かれました。
小倉城(福岡県)
小倉城はさきほどの小田原城と同じく海に面したお城でした。しかし、小田原城の惣構えは海とのあいだに砂浜があったのに対して、小倉城では直接海に面していて堀には海水を引き込んでいました。
船を使えば海から直接城内へ入ることができます。
なので敵にお城をかこまれたとしても、船を使えば外部との連絡や物資・食料の補給も可能に。
小倉城を完全に包囲しようとすると海側にも船を並べてかこわなくてはいけなくなるので、攻める側に多大な費用をかけさせることができます。したがって、攻める側は短期間しかお城を包囲できないので、より小倉城が有利になっていきます。
スポンサーリンク