今回は「城下町」について解説していきます。
石川県金沢市や長野県松本市など、江戸時代の城下町の面影をのこす町はたくさんあります。
(Wikipedia「城下町」)
では戦国時代を通じてお城が発展していく中で、城下町はどのように形成され、発展していったのでしょうか?
- 戦国から江戸時代まで、城下町はどのように発展していったのか?
- 城下町はどういう構造をしているのか?
では城下町について解説していきます。
Contents
城下町の基礎は織田信長が作った!? 城下町の発展の歴史
室町〜戦国前期の城下町 一乗谷城・朝倉氏館
室町〜戦国前期、全国各地(北海道と沖縄をのぞく)に守護職という役職に任命せれた人がいました。
この守護たちは「守護館」とよばれる平地の館に住んでいて、その周辺に家臣の「侍屋敷」があつまり町を形成していました。
一乗谷城(福井県)は越前国(現在の福井県北部)の守護をつとめていた朝倉氏の館です。(朝倉氏は平地の館と山頂の山城を使い分けていました)
戦国大名の館跡や周辺の町の遺跡が残っていることから朝倉氏館跡は国の特別史跡に指定されています。
一乗谷の町は、上下の城戸(きど)と呼ばれる土塁でかこまれた谷間に、朝倉氏の館を中心としてその周辺に家臣の侍屋敷や商人・職人の町家が並んでいました。
朝倉氏は南北朝時代(1336〜1392)には一乗谷を本拠としていたようです。その後、織田信長に攻め滅ぼされる1573年(元亀4年・天正元年)までの約200年間に一乗谷は、京都からの公家や文化人を受け入れ「北ノ京」と言われるまでに発展していきました。
しかし発展の裏側で問題が発生していました。
山と山の谷間を本拠地とすることは守りやすいですが、町として発展していくには土地が狭すぎたことです。
一乗谷の町は、上下の城戸を超えて広がっていったため、朝倉氏でも把握しきれない状態となってしまいました。
「小牧山城」 織田信長は寺社の影響力を排除し、自由な経済活動を目指した
織田信長の最初の居城は清須城(愛知県)でした。
信長が本拠地としていたころの清須では、清須城と周辺の町(惣構えの内側)と御園神社、山王坊という神社で開かれていた市場(御園市場、中市場)とに分かれていました。
清須城周辺の町(惣構え内)は信長と主従関係(主人と家臣の関係)を結んだ商人・職人たちの町でした。
ここの商人・職人たちは信長のために軍需物資(食料、武器弾薬など)を仕入れたり、痛んだ鎧や刀の修理をしていました。
そして惣構えの外側、御園神社と山王坊で開かれていた御園市場・中市場では信長とは関係のない私的な市場が開かれていました。
惣構え内を見ても、家臣の屋敷・町家(上の図でピンク色の四角□)が整理されているようには見えません。
これは信長以前から清須城や守護代館があり、そのまわりに町が形成され発展していったからです。
信長はこの状況を変えようとし、新しいお城を築き始めました。
それが「小牧山城(愛知県)」です。
信長は小牧山城では4本の主要道をつくり、その周辺に町家を作りました。
そしてただ町家を建てただけでなく、道路を職業別で分けていったのです。
清須城では周辺の神社・お寺(御園神社・山王坊)でも市場が開かれていました。この市場では神社やお寺の影響力が強く、お金を払わないとお店を開くことができないなど、自由な経済活動ができなかったと言われています。
そこで信長は小牧山城では、商人・職人を職業別で集住させ、寺社の影響力を排除し自由な経済活動を目指していきました。
「岐阜城」信長を頂点とする権力構造の明確化
信長の本拠地は小牧山城のあと岐阜城(岐阜県)へと移ります。
岐阜城では城下町をさらに発展させていきました。
岐阜城では城下町の最も外側に市場を設け、そこに「楽市・楽座令」を施行しました。
楽市・楽座では既得権益(独占販売権や不入権など)をもつ商工業者を排除し、自由な経済活動を公認し、新興の商工業者を育てることが目的とされました。
そして信長は岐阜城で新たな権力構造を作ろうとしていました。
信長は岐阜城がある金華山の山頂に信長と家族のための御殿を建て、重臣の屋敷を堀で囲われた麓周辺に、中下級家臣の屋敷や町家は堀の外側に建てさせました。
このように身分・階級によって住む場所を区別することで、金華山山頂の信長を頂点とする権力構造を明確にしました。
信長は重臣であっても許可なく金華山へ入ることを禁止していました。そうすることで、家臣や町人に信長は雲の上の人であると意識させていきました。(城下から山頂の御殿は見えていたはずなので、視覚的にも雲の上の人だと意識させられる)
「安土城」信長の権力の象徴となった天主
織田信長、最後の本拠地は「安土城(滋賀県)」です。
信長は安土城でも岐阜城のように身分・階級による居住区の区別をし、安土山山頂に信長が住むことで、権力構造を明確にしていきました。
信長が安土城でさらに発展させたものは「天主」です。(安土城では「天守」ではなく、「天主」と書きます。これは信長の書状などに「天主」と書かれているため)
信長は安土城に天主を築くことで、さらに強く信長の権力を意識させたことでしょう。
街道もわざわざ安土の城下町を通るようにし、旅人や行商人に天主を見せることで、日本全国へ信長のスゴさが伝わるようにしました。
本能寺の変で信長が死んだ後、豊臣秀吉が大坂城に天守を建て、徳川家康の江戸城や全国のお城に天守が広まっていきました。
室町時代までの権力構造(大名だけが権力を持っていたわけではなく、寺社などさまざまな権力があった)より、大名(信長)を頂点とする権力構造(町づくり)が統治する上で便利でした。
この信長モデルの町づくりを全国に大名が真似することで各地に現在まで残る城下町が作られていきました。
なので、日本全国にある城下町の基礎は信長が作ったと言えるでしょう。
スポンサーリンク城下町はどういう構造をしているのか?
城下町は町といっても、お城を守るために防御のこともしっかり考えられていました。
城下町の特徴は3点あって、⬇︎です。
- 街道の両側に町家を隙間なく建て並べ、道のところどころをT字路・クランクにする
- お城の周囲は侍屋敷
- 城下町の外側には寺町をつくる
城下町ではどのような工夫がされていたのか見ていきましょう。
城下町の特徴① 町家は街道の両側に隙間なく建てて、曲がり角はT字路やクランクにする
特徴①は、「町家は街道の両側に隙間なく建てること」と「曲がり角はT字路やクランクにする」です。
「町家を街道の両側に隙間なく建てること」とはどういうことでしょうか?
上⬆︎の絵をみてください。
広島城(広島県)の城下町ですが、城下町を左右に街道が(黄色の線)あります。そして、街道に沿って町家が建てられているのがわかります。
街道の両側に町家を並べるのは、人通りの多い街道に町家を並べることで利便性を上げ、経済性を高めるためです。
そして「隙間なく建てる」ことで、街道を通って侵入してきた敵軍の視界を奪う目的がありました。
町家・町屋のあいだの隙間をなくすことで、左右の視界が制限されて、前後にしか見通せなくなります。
そして「曲がり角はT字路やクランクにする」。
T字路やクランクをたくさん使うのも、町を迷路にすることで敵の行動を制限することが目的です。
しかし町を複雑にしすぎると、利便性・経済性が損なわれてしまうのでバランスが重要になります。このバランスは大名によってどちら(防御と利便性)を重視しているかで変わってくるので、城下町ごとで比べるのも面白いです。
城下町の特徴② お城の周囲は侍屋敷
特徴②は「お城の周囲は侍屋敷」です。
上⬆︎の絵は高知城(高知県)の城下町です。
高知城の周りは侍屋敷で囲まれています。そしてその外側に町屋・町家がならなび、寺町・宮(神社)、足軽町があります。
この城下町の区分の仕方が、前項「城下町の発展の歴史」で書いた「信長モデルの城下町」です。
お城(大名・お殿様)を頂点として、家臣(侍)、町人・足軽という身分・階級で区別した町づくりです。
大名・お殿様がお城の本丸にいて、本丸を町の中心点にすることで、お殿様が頂点の権力構造を目で見てもわかるようにしていました。
城下町の特徴③ 城下町の外側には寺町をつくる
特徴③は「城下町の外側には寺町をつくる」です。
寺町とはその字のとおり、「お寺を集めて作った町」です。
では、なぜ城下町の外側に寺町をつくるのでしょうか?
もう一度、高知城の城下町を見てください。
たしかに、寺町が城下町の外側にあります。(一部町屋のなかにもありますが)
寺町を外側に置くことにもしっかりした理由がありました。
「お寺は防御拠点にもなる」からです。
お寺が防御拠点になる理由は2つあって、
「お寺の境内はそこそこ広くて」、「本堂という立派な建物や石垣・塀を持っている」という点です。
1点目。境内がそこそこ広いので、それなりの人数の兵士を境内に待機させたりすることができます。
2点目。お寺は、本堂という立派な建物や石垣・塀を持っているので、もともと防御力がけっこう高い。
そもそもお城のやぐらや天守などの建築物はお寺の技術が元になっています。
室町や戦国初期までのお城や武士の館は、石垣はもちろん、瓦屋根すら持っていないことがほとんどでした(こけら葺き、板葺きの屋根だった)。
戦国後期にむかって、戦国大名の権力が大きくなっていきお寺の大工集団も支配下におくことで、お寺の建築技術をお城にも流用することができるようになったのです。
なので、もともとお寺は防御力が高い建物だったので、防御拠点とすることができました。