お城の歴史

知れば知るほど面白い【熊本城の歴史】まとめ

熊本城の歴史

今回は「熊本城の歴史」を紹介していきます。

こんな人にオススメの記事です
  • 熊本城の歴史を大まかに知りたい人
  • お城に興味を持ち始めた人
  • 熊本城を観光する前に予習しておきたい人
  • 熊本城を観光したけどもっと歴史を知りたくなった人

まずは熊本城の歴史のポイントを紹介します。このポイントを押さえておくだけでも熊本城の歴史がわかります。

  • 築城名人・加藤清正が54万石の大名にふさわしいお城として、熊本城を築城する
  • 西南戦争で劣勢の中、西郷軍の攻撃に耐えた
  • 熊本地震により被災。多くの建物や石垣が被害を受けた

この記事で熊本城について詳しくなって、観光も歴史ドラマも楽しんでいきましょう!

熊本城とはどんなお城?

まずは熊本城とはどんなお城なのかをまとめました。

口コミで人気。熊本城は日本の城ランキングTOP3にランクイン!

観光客が訪れる熊本城観光客が訪れる熊本城

旅行プラットフォーム「トリップアドバイザー」が毎年口コミで人気のお城ランキングを紹介しています。

2019年版のランキングで熊本城は第3位にランクイン。口コミ評価は5段階で「4.5」を得ています。

日本からだけでなく、世界中からの旅行者に人気のお城になっています。

参考サイト「口コミで人気!日本の城ランキング2019

日本三名城に数えられる熊本城

熊本城の宇土櫓熊本城の宇土櫓

熊本城は日本三名城に数えられています。

お城を選ぶ定義などによって変わるものの、名古屋城、大阪城、姫路城とともに熊本城も選ばれています。

熊本城が名城と呼ばれる理由2つあります。

1つは加藤清正が築いた石垣。熊本城の石垣は「清正流(せいしょうりゅう)石垣」と、勾配の美しさから「扇の勾配」と呼ばれています。

2つ目は他の名城と違い、実際に戦闘を経験していること。そして敵軍の攻撃に耐えた事実があることです。

この2つの理由から熊本城は日本三名城に選ばれています。

熊本城の歴史

ここからは戦国時代〜昭和・平成までの熊本城の歴史を順をおって紹介していきます。

戦国時代の熊本城

熊本城周辺はもともと重要な土地だった

熊本城の地形熊本城の地形

熊本城が建てられていた場所には、戦国時代以前から別のお城がありました。

もっとも古い記録では「千葉城」と呼ばれていたお城があり、肥後(現在の熊本県)の守護を務めていた菊池氏の一族、出田秀信(いでたひでのぶ)が築きました。

のちに鹿子木親員(かのこぎちかかず)が「隈本城」を築城しています。隈本城は規模は不明で、現在の熊本市古城町に築かれていました。

熊本城が建てられている場所は丘陵地帯で、もともとは茶臼山と呼ばれていました。この場所は肥後中心地であり、朝鮮半島と交易があったので重要な土地でした。

熊本城は「千葉城」と「隈本城」を城内に取り込んで築かれました。

豊臣秀吉の九州平定と隈本城

戦国時代になると肥後守護だった菊池氏は滅亡。隈本城は大分県(豊後)の戦国大名大友氏の支配下になっていました。大友氏のもとで、城親冬(じょうちかふゆ)が城主になっています。

大友氏も耳川の戦い(1578)で鹿児島の戦国大名島津氏に敗れると、次第に衰退していきます。このころ、城親冬・親賢父子は大友氏から島津氏に従うようになりました。

中国・四国地方を平定して天下統一を進める豊臣秀吉が九州へ攻めてきたのは1586年でした。

九州統一まであとわずかだった島津氏は秀吉に敗れ、領地は薩摩・大隅と日向の一部に減らされます。

隈本城は島津氏から秀吉のもとへ移り、秀吉は配下の佐々成政へ肥後一国と隈本城を預けます。

肥後国人一揆と佐々成政

秀吉から肥後の統治を任された佐々成政は、隈本城を本拠地としました。

成政は住民から年貢(お米)をしっかり徴収するために検地をします。検地とは田んぼや畑の面積を測って採れるお米の量を算出し、年貢として払うべきお米の量を決めていくことです。

肥後の住民の反対があった中で、成政は検地を強行。そのために肥後全体を巻き込んだ一揆(反乱)に発展していきました。

一揆に参加した人たちは35000人とも言われていて、一時は一揆勢が隈本城を包囲しています。

対応に困っていた成政は秀吉に援軍を要請。朝鮮半島を攻撃することを計画していた秀吉にとって九州は拠点となる重要な場所でした。

秀吉は九州・四国の大名に命じて軍を派遣し、一揆を鎮圧しました。成政は内政の失敗を理由に切腹を言い渡されました。

江戸時代の熊本城

佐々成政のあと肥後は南北に分けられ、南部は小西行長へ、北部は加藤清正へ与えられました。隈本城は北部にあり、加藤清正のものになりました。

築城名人・加藤清正によって築かれた熊本城

加藤清正加藤清正

肥後北部を与えられた清正は一揆の後始末を行ったあと、新しいお城の築城を開始します。

まずはじめに清正が行ったのは、河川工事でした。熊本城周辺を流れている川の流れを変えることで、川を水堀として利用しようとしました。現在の坪井川と井芹川を内堀とし、白川を外堀にしました。

築城工事は朝鮮出兵(文禄・慶長の役)のために一時中断。秀吉の死によって終了した朝鮮出兵から帰国後も、関ヶ原の戦いが起こったので築城は進んでいませんでした。関ヶ原の戦いで清正は徳川家康の味方をしたので、肥後南部の旧小西領を与えられ肥後一国を治める大名になりました。

工事中だった熊本城も肥後一国を治める大名にふさわしいようにと、大幅に計画変更されました。

1607年に完成した熊本城。清正は熊本城の完成を機に、「隈本」から「熊本」へと改めました。隈の字の右側(つくり)は「畏」で「おそれる」と読むことから、これを清正が嫌ったので熊の字に改めたと言われています。

明智光秀の孫・細川忠利が熊本城主に

熊本城の大小天守と宇土櫓熊本城の大小天守と宇土櫓

清正の跡を継いだのは息子の忠広。しかし忠広は3代将軍徳川家光によって領地を没収されてしまいます。没収の理由は、家光と3代将軍の地位を争っていた家光の弟・忠長と緊密な関係にあったためと言われています。

加藤氏に代わって熊本城主になったのは、細川忠利。細川氏は小倉城40万石から熊本へ移ってきました。

細川忠利の親は忠興とガラシャです。細川ガラシャは明智光秀の娘でした。本能寺の変で光秀が謀反を起こすまでは、明智家と細川家は親密な関係にあり、光秀の娘であるガラシャが忠興のもとへ嫁いでいました。

細川忠利は外様大名でありながら江戸幕府からの信頼も厚く、参勤交代の改善案を提出し採用されています。

以降、細川氏が幕末まで熊本を治めています。

宮本武蔵と熊本城

宮本武蔵宮本武蔵

細川忠利が熊本城へ招いた客人がいました。それが宮本武蔵です。

宮本武蔵は日本で最も有名な剣豪と言っていいでしょう。佐々木小次郎との巌流島での決闘が有名で、映画などの作品で描かれています

宮本武蔵は熊本城内に屋敷を与えられて、武蔵はこの屋敷で亡くなっています。

武蔵が書いた書物で有名な「五輪書」。武蔵は熊本城近郊にある霊巌洞(れいがんどう)という洞窟にこもって五輪書を書き上げました。

明治の熊本城

明治維新後に熊本藩の実権を握った実学党は熊本城の解体を明治政府に申請し、許可されています。しかし熊本城の解体は反対にあって凍結され、城内は天守を含めて一般公開されました。

廃藩置県(1871年)後には二の丸に熊本県庁が置かれていました。

熊本城はのちに陸軍の所管となり歩兵、砲兵部隊が置かれ、病院も建設されました。

明治に制定された廃刀令への反対運動から起きた「神風連の乱」は熊本で起きています。元武士だった人たちが熊本城を襲撃するも、失敗。1日で鎮圧されています。

熊本城を落とせなかった西郷隆盛

熊本城の石垣熊本城の石垣

明治初期には全国で元武士による事件・反乱が起きていました。最も有名で大きな反乱が西郷隆盛が主導した西南戦争です。

西南戦争では西郷軍は陸路で鹿児島から東京へ向かおうとしていました。なので当然ながら熊本城を越えていかなければなりませんでした。

熊本城では西郷軍の攻撃に備えていました。その準備中の原因不明の火事によって、大天守、小天守、本丸御殿、本丸東三階櫓、月見櫓などを焼失しています。

熊本城を守る部隊は4000人。たいして熊本城を攻める西郷軍は1万4000人でした。

2ヶ月あまりに渡る西郷軍の攻撃に耐えた熊本城は、援軍の到着もあって西郷軍を撃退。加藤清正が築いた石垣が西郷軍の城内への侵入を阻んだと言われています。

熊本城を落とせなかった西郷隆盛は「わしは官軍に負けたのではない、清正公に負けたのだ」と語ったと伝わっています。

昭和・平成の熊本城

熊本城天守の復興と建物の復元

復元された戌亥櫓復元された戌亥櫓

昭和になると熊本城内の建物も老朽化のために修復が必要になってきていました。

西南戦争50周年事業として1927年に、寄付金を集めて宇土櫓の解体修理が行われています。1933年には宇土櫓など13棟が旧国宝に、城跡が史跡に指定されています。

西南戦争で焼失した天守の再建は、戦前の1928年に市議会で満場一致で決議されています。太平洋戦争をはさんで、1960年に古写真などをもとに大天守と小天守を再建。

平成になると数寄屋丸二階御広間をはじめとして、戌亥(いぬい)櫓、未申(ひつじさる)櫓、飯田丸五階櫓、本丸御殿大広間などが復元されていきました。

熊本地震からの復興

再開に向けて工事中の熊本城再開に向けて工事中の熊本城

2016年4月14日、16日に最大震度7の地震が二度熊本を襲いました。

この地震で重要文化財13棟すべてと、復元した建物20棟が被害を受けています。石垣は全973面、面積約79000平方メートルのうち、229面、約8200平方メートルと約1割が被害を受けました。

倒壊した北十八間櫓、東十八間櫓、不開門(あかずもん)などの重要文化財は、部材を回収した上で、復旧に向けて整理・保管されています。倒壊をまぬがれた建物も一度解体した上で復旧する予定です。

崩落した石垣は石材1つ1つの大きさを計測し、写真を撮っています。崩落前の石垣の写真と見比べながら、崩落した石材がどこにあったのかを突きとめていきます。

石垣と石材の照合作業を繰り返して、石垣が地震によってどの部分から崩れていったのかを明らかにして、復旧方法や安全対策に応用されています。

2019年10月より熊本城大天守外観復旧を記念しての特別公開が始まっています。
(詳しくは➡︎「特別公開|【公式】熊本城」をご覧ください)

熊本城の歴史年表

1469〜87 肥後守護菊池氏の一族・出田秀信が千葉城を築く
1496 鹿子木親員が隈本城を築く
1550 大友氏の家臣城親冬が隈本城主になる
1587 城親冬の孫・久基が豊臣秀吉に隈本城を明け渡す

佐々成政が肥後領主となり、熊本城へ入る

1588 佐々成政は秀吉の命で切腹

加藤清正が隈本城へ入る

1591 加藤清正が熊本城の築城工事を開始
1592〜98 朝鮮出兵(文禄・慶長の役)により築城工事は中断
1607 熊本城完成。隈本から熊本へ改名
1611 清正が死去。加藤忠広が跡を継ぐ
1632 細川忠利が肥後54万石の領主として熊本城へ入る
1645 宮本武蔵が熊本城内の屋敷で死去
1871 廃藩置県により熊本県ができる

熊本城に鎮西鎮台が置かれる

1877 西南戦争により天守や本丸御殿など焼失
1889 熊本地震により石垣42カ所崩落
1927 宇土櫓の解体修理が行われる
1933 熊本城全域が史跡に、建造物が旧国宝に指定される
1950 文化財保護法により、建造物が旧国宝から重要文化財になる
1955 史跡熊本城跡を特別史跡に指定
1960 熊本城大小天守を再建
1989 数寄屋丸二階御広間を復元
1991 台風19号により天守が被害を受け、改修
1993 旧細川刑部邸を東子飼町から三の丸へ移築復元
2002 南大手門を復元
2003 戌亥櫓、未申櫓、元太鼓櫓を復元
2005 飯田丸五階櫓を復元
2008 本丸御殿大広間を復元
2014 馬具櫓を復元
2016 熊本地震が発生、熊本城も被害を受ける
2019 熊本城大天守の外観復旧

熊本城の歴史 まとめ

今回は熊本城の歴史を紹介しました。いかがでしたか?

今回紹介した熊本城の歴史を知っておくだけでも、観光や歴史番組もより楽しむことができます。

最後にもう一度ポイントをまとめておきます。

  • 築城名人・加藤清正が54万石の大名にふさわしいお城として、熊本城を築城する
  • 西南戦争で劣勢の中、西郷軍の攻撃に耐えた
  • 熊本地震により被災。多くの建物や石垣が被害を受けた

お城にはそれぞれ個性のある歴史を持っています。それらを知ることでよりお城を楽しんでいきましょう。

参考資料