まずはじめに1つクイズです。
お城の歴史の中で「お城が一番発展した時期」はいつでしょうか??
織田信長の時代?
それとも武田信玄や上杉謙信が競い合ってた時代?
または豊臣秀吉が天下統一したときでしょうか?
答えは「江戸時代」
といっても江戸時代初期期の約15年間。
江戸時代の最初の約15年は豊臣政権から徳川幕府への移行期間でした。
この移行期間中は徳川家康にとって合戦はないけどまったく油断ならない時期。
さしずめ米ソ冷戦といえるような、徳豊冷戦です。
米ソ冷戦では核兵器が戦争で使用されなくとも進化していったように、
徳豊冷戦では合戦は起きていないけれどお城が発展していきました。
では江戸時代最初の15年にどうしてお城が発展したのか見ていきましょう。
1600年 関ヶ原合戦
1603年 徳川家康 征夷大将軍就任・幕府開府
1605年 徳川秀忠 2代将軍就任
1611年 徳川家康、豊臣秀頼 二条城会見
1614年 大坂冬の陣
1615年 大坂夏の陣
1615年 一国一城令 発布
Contents
関ケ原合戦後 東軍武将への褒美
関ケ原合戦で徳川家康側の東軍で一番活躍した武将は誰でしょうか??
黒田長政、福島正則、細川忠興、藤堂高虎、井伊直政、池田輝政、加藤嘉明あたりでしょうか。
実はこの武将の中で徳川家康の家臣は井伊直政1人だけでなんです。
あとの人たちはみな豊臣秀吉のおかげで大名になることができた人物ばかりなのです。
何が言いたいかというと、
「関ケ原合戦は徳川が自分の力で勝利を得たわけではなく豊臣系大名の活躍があったからこその勝利だった」ということ。
このことが徳川家康の悩みの種となってしまいます。
天下を獲りに行きたい家康はどうしても大坂にいる秀吉の子・豊臣秀頼を排除したい。
そのために障害となる豊臣系大名も排除しておきたい。
しかし関ケ原合戦でそのほかの豊臣系大名が活躍してしまったために褒美として領地を与えなくてはならなくたってしまったのです。
関ケ原合戦前後での石高(お米の取れる量=領地の豊かさ=大きいほど兵をたくさん持てる)を比較してみました。
黄色い枠で囲ってある武将が豊臣系大名です。
みんな軒並み石高が倍増。
徳川家康はしぶしぶ豊臣系大名に大きな領地を与えなければいけなかったのです。
しかしずる賢い徳川家康は考えました。
ほとんどの豊臣系大名を江戸から遠い中国・四国・九州へ追いやってしまったのです。
「大きな領地をやる代わりに江戸から遠くへやってしまえ」ということ。
これで家康は江戸と京都の間に邪魔な豊臣系大名を排除することができ、何かあるとすぐ京都へ飛んでいけるようになりました。
しかし豊臣系大名は大きな領地を持ってしまいました…
スポンサーリンク空前の築城ラッシュ
関ケ原合戦後の1600~1615年の間に全国で築城ラッシュが起きていました。
佐賀藩の「鍋島直茂譜考補」という書物には1609年の佐賀城天守の竣工が述べられており、
「今年、日本国中の天守数二十五立つ」と書いてあります。
関ケ原合戦から9年がたち、全国で築城工事が進み天守が建ち始めている状況がわかります。
それでも1年で25もの天守が建つというのはスゴイ!
現在の主要都市で見かけるお城のほとんどはこの15年間に建てられたお城。
なぜこの15年間に築城が集中しているのか?
「徳川VS豊臣で冷戦構造になっていたから」
なのです。
家康としてはどうしても大坂にいる秀吉の子・秀頼を排除したい。
そのため親豊臣大名は「家康にイチャモンつけられて潰されるのは次はワシかも知れん」と考えてました。
だから各大名は自分の居城を徹底的に磨き上げていったのです。
その代表が加藤清正の「熊本城」です。
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加藤清正と熊本城
関ヶ原合戦後の緊迫した情勢の中、加藤清正は「熊本城」を築いていく。
最終的に「大天守・小天守」以外にも
- 宇土(うと)やぐら
- 御裏(おんうら)五階やぐら
- 飯田丸五階やぐら
- 竹の丸五階やぐら
- 数寄屋丸(すきやまる)五階やぐら
という五階やぐらを五基も建ててしまうのです。
五階やぐらというのは、やぐら内部が五階建てになっています。
熊本城の五階やぐら、やぐらと呼んではいるけど他の城だと十分に天守級の建物。
比べると高知城天守と同じくらいの大きさになります。
サッカーのFCバルセロナみたいにエース級の選手をそろえてしまったのが熊本城。
さらに城内の通路を複雑にし、高石垣で高低差を作り出し、常に通路を見下ろしながら攻撃をくわえられる構造になっています。
熊本城は7基の天守が並びたつ巨大城となり、豊臣系城郭の最高到達点というものになったのです。
しかし加藤清正は手を抜きません。
本拠地である熊本城を中心に、自分の領地全体を守るために各地にさらにお城を築いていったのです。
このなかで「宇土城」「麦島城」「佐敷城」「南関城」は天守をそなえる総石垣の城で、弱小大名のお城を超える大きさを誇っていました。
加藤清正は本拠地である熊本にくわえ、各地にお城を築いて鉄壁の防御を完成させていきました。
スポンサーリンク黒田長政と福島正則
加藤清正だけじゃなくそのほかの親豊臣大名はどうだったのでしょうか!?
「黒田長政」と「福島正則」も加藤清正に負けず劣らずの城郭網を築いていきます。
加藤清正、黒田長政、福島正則は防御強固なお城を次々と築いていったのにはワケがあります。
お城の防備に少数の兵に任せて、残りの浮いた戦力をいつ来るかわからない
「第二次関ヶ原合戦」
への備えとしたのです。
親豊臣大名にとって、関ヶ原合戦は東西両軍合わせて15万人が激突する未経験な合戦でした。
そして「第二次関ヶ原合戦」は想像できないほどの大軍に攻められることも考えらた。
それに耐えられるようにしたのが「熊本城」であり、領内各地に築いた支城網でした。
まとめ
- 関ヶ原合戦後は緊迫した情勢で冷戦状態だった。
- 冷戦状態の中、大名たちは自分の領地を守るためお城を築いていった。
- その結果、この時期に築城技術が格段に進化した。
参考資料