お城の歴史

現存天守が残る天空の城【備中松山城の歴史】

備中松山城の歴史

今回は「備中松山城の歴史」を紹介します。

こんな人にオススメの記事です
  • 備中松山城の歴史をおおまかに知りたい人
  • お城に興味を持ち始めた人
  • 備中松山城へ行く前に予習しておきたい人
  • 備中松山城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人

まずは備中松山城の歴史のポイントを4つ紹介します。このポイントのところだけを読んでも、歴史の大枠はつかめます!

  • 備中の戦国大名・三村氏の居城として、中国地方の覇者・毛利元就と戦う
  • 水谷勝宗が現在まで残る天守を築く
  • 廃城令のあと、お城は放置され朽ち果てていった
  • 昭和・平成の大修理と、建物の復元工事が行われる

それでは備中松山城の歴史に詳しくなって、お城めぐりや歴史ドラマ・ゲームもより楽しんでいきましょう。

備中松山城の場所備中松山城の場所

備中松山城ってどんなお城?

天空の城・備中松山城天空の城・備中松山城

まずは備中松山城とはどんなお城なのか紹介します。

備中松山城は岡山県高梁市にあって、江戸時代からの天守が現存する12のお城の一つです。そして、備中松山城は山城で、天守は山の上にあります。なので備中松山城の天守は現存する12の天守うち、唯一山城にある天守としても有名です。

備中松山城は日本三大山城の一つにも数えられていて、山上にあるので雲海の上にお城が見える「天空の城」の一つでもあります。

備中松山城は鎌倉時代に築城されてから、明治時代まで使われてきたお城。江戸時代の天守・石垣が残る部分だけでなく、戦国時代の土づくりのお城が残っている場所もあります。なので、中世と近世の2つの時代のお城が融合している珍しいお城でもあります。

備中松山城の歴史

ここからは備中松山城の歴史を戦国時代〜昭和・平成まで紹介していきます。

備中松山城の構造備中松山城の構造

戦国時代の備中松山城

備中の戦国大名三村氏の居城として毛利氏と戦う

備中松山城の現存天守備中松山城の現存天守

備中松山城の始まりは鎌倉時代までさかのぼります。最初に城を築いたのは秋庭重信という人。重信は後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうとして返り討ちにあった承久の乱での功績で、この地を与えられてました。

室町時代初期には秋庭氏を従属させていた高橋氏がお城を拡張。その後秋葉氏ののち、上野氏、庄氏と続き、戦国時代になると三村家親が備中松山城を奪取しています。

三村家親は当初毛利元就と組んで、備前(岡山県)の宇喜多直家と争っていました。1570〜73年頃には家親から元親へと代替わりしていて、備中松山城は大松山から小松山までを含む大城廓になっていました。

毛利元就がなくなると、三村氏に転機が訪れます。元就の跡を継いだ孫の輝元が宇喜多直家と和睦。毛利氏の支援のもとで宇喜多直家と争っていた三村元親の立場がなくなってしまいました。そこで元親は毛利氏の元を離れて、京都で台頭してきていた織田信長に接近。この三村氏の動きに反発した毛利氏との間で「備中兵乱」といわれる戦いへと発展していきました。

三村元親は信長の味方になったと言っても、この時期の信長は京都周辺の安全もまだ確保できてはいませんでした。なので、とても備中(岡山県)まで援軍を出すことはできませんでした。強大な兵力を持つ毛利氏を相手に三村氏は負け続け、三村元親は自害。備中松山城は毛利氏のお城になりました。

毛利氏の対織田軍最前線のお城に

備中松山城が毛利氏のお城になってしばらくすると、今度は宇喜多直家が織田信長へと寝返っていきました。

こうなると備中松山城が対織田軍・宇喜多軍への最前線のお城になります。そして最前線のお城として防御力を高めるために毛利輝元自身が備中松山城を改修したとも言われています。

織田信長は豊臣秀吉を中国地方へ派遣して、毛利氏と争わせていました。秀吉が毛利氏側のお城・備中高松城(岡山県)を攻めている最中に、本能寺の変が起こり織田信長が死んでしまいます。秀吉は本能寺の変を起こした明智光秀を倒すために、京都へと戻っていきました。

この時に秀吉は毛利氏と和睦していて、これ以上秀吉から攻められることはなくなりました。そのため、備中松山城は毛利氏のお城としてその後も続いていきました。

江戸時代の備中松山城

水谷勝宗が現在まで残る天守を築く

備中松山城備中松山城

天下統一を果たした豊臣秀吉がなくなると、関ヶ原の戦いが起こります。この戦いで毛利輝元は西軍の総大将として、東軍の徳川家康と争っていきました。しかし結果は西軍の負け。輝元は関ヶ原での合戦には参加していなかったけど、負けを認めて領地の広島へと帰っていきました。

負けた輝元は家康によって領地を取り上げられ、周防・長門の2カ国に減らされてしまいました。備中松山城のある備中は徳川家の直轄地になり、家康は小堀正次を備中松山城主にしています。正次の跡を継いだ子の政一は、備中松山城の麓に「御根古屋」と呼ばれる御殿を立てて、居館兼政庁としました。

小堀氏の後は、池田氏、水谷氏と続き、水谷勝宗のときに備中松山城を大改修。このときに、現在まで残る天守や櫓、石垣などが築かれ、現在の城の形になりました。

水谷勝宗の跡継ぎは相次いで死んでしまい、水谷氏は取り潰しにあってしまいます。備中松山班は一時的に赤穂藩の浅野氏に預けられました。このとき、のちに赤穂浪士討ち入り事件を起こす、大石良雄(内蔵助)が城番として備中松山城に滞在していました。

1744年に板倉氏が城主になると、板倉氏が明治まで備中松山を治めていきました。

明治時代の備中松山城

廃城令のあと、お城は放置され朽ち果てていった

備中松山城の石垣備中松山城の石垣

明治まで備中松山を治めていた板倉氏は、幕末には15代将軍・徳川慶喜の信任も厚く、江戸幕府の政治を取り仕切る老中を務めていました。

そのため、江戸幕府と薩摩・長州藩などが争った戊辰戦争では、備中松山藩は朝敵(朝廷・天皇の敵)とされました。そんな危機的な状況を備中松山藩執政の山田方谷の決断で、薩摩・長州藩(新政府軍)に降伏し従うことに。備中松山城は無血開城となりました。

戊辰戦争が終わって廃城令が出されると、ほとんどのお城の天守や建物は取り壊されていきました。備中松山城も例外ではなく、山麓にある根古屋御殿(藩主の居館)が取り壊されました。そして山上の天守や櫓・門などは、取り壊し費用がかかるためにそのまま放置されることに。

大正末期にはほとんど廃墟になっていて、建物は朽ち果てて、天守と二重櫓がかろうじて残っている程度でした。

昭和・平成の備中松山城

昭和の大修理を経て、天守は旧国宝へ

昭和の初めに歌人の与謝野晶子が備中松山城を訪れて、荒れ果てたお城を見て歌を読んでいました。

「瀬戸の海 伯耆の霧の 分れ去り あらはになりぬ 傷ましき城」

昭和になるとお城の惨状を見かねた地元の有志たちが、資金を募って復旧に立ち上がりました。そしてまずは二重櫓と土塀の修理に着手。戦争などでの一時中断をはさみながら1939年に皇紀2600年を記念して、高梁町(現高梁市)が天守の解体修理と二重櫓・土塀の修理も進めていきました。

この修理の結果、天守・二重櫓・山の平櫓東土塀が旧国宝に指定。戦後には城跡が国の指定史跡になっています。

昭和・平成の大修理と建物の復元工事が行われる

備中松山城の土塀備中松山城の土塀

戦後に2度目の修理で、天守の部分修理、二重櫓と土塀の解体修理が行われました。しかしその後お城は再び放置状態になってしまいます。

放置状態だったお城を1994年からお城全体の復元整備が行われることに。この復元工事では、本丸南御門・東御門・腕木御門・路地門・五の平櫓・六の平櫓・土蔵などが1997年までに完成しました。

平成になると天守下の石垣がズレていることが発覚。このズレが原因で、天守の床が傾くなど、建物自体が沈下する事態になっていました。そのため石垣の復旧工事が行われました。

石垣のズレは昭和の修理の際に誤って別の場所に石を置いて、そのまま積み上げていってしまったために起きてしまいました。石垣は一度解体して、元どおり積み上げて修復。石垣を支えている岩盤も補強されました。

天守も昭和の解体修理・部分修理から40年以上が経過していて、木材が腐食していて倒壊する危険性もあり再び解体修理されました。また外壁の漆喰もはがれていたので、全面的に漆喰の塗り直しも行われ、平成の大修理は2001〜03年の2年間かけて行われ、総事業費2億1500万円でした。

備中松山城の歴史年表

1240 秋庭重信が備中有漢郷の地頭となり大松山に城を築く
14世紀〜16世紀 お城は小松山まで拡張。高橋氏、秋庭氏、上野氏、庄氏が城主に。
1561 成羽鶴首城の三村家親が備中松山城を奪取
1566 宇喜多直家が家親を暗殺
1571 宇喜多氏と連携していた庄高資によって占拠されていた備中高松城を三村元親が奪還する
1574〜75 毛利氏と宇喜多氏の攻撃によって落城し、元親は自害する
1579〜82 毛利氏と織田氏が争う。和睦後は備中松山城は毛利氏のお城になる
1600 関ヶ原の戦いの後、備中は徳川家の直轄地となり、小堀氏が城番として備中高松城に入る
1605 小堀政一が山麓の御根古屋や山上のお城を改修する
1617 鳥取藩から池田長幸が入り、備中松山藩を立ち上げる
1641 2代目池田長常が亡くなる。跡継ぎがいなかったので取り潰しとなる
1642 備中成羽藩から水谷勝隆が入る
1681〜83 2代目水谷勝宗が城を大改修し、天守や櫓を建てる
1693 3代目水谷勝美、4代目勝晴が相次いで死去。水谷氏も取り潰しとなる
1695 高崎藩から安藤重博が入る
1711 2代目安藤信友が加納藩へ移り、代わって淀藩から石川総慶が城主に
1744 総慶が伊勢亀山藩へ移り、代わりに板倉勝澄が入る
1873 廃城令によって御根古屋は取り壊され、山上の建物は放置された
1939 天守、二重櫓、三の平櫓東土塀の修理が行われた
1941 天守、二重櫓、三の平櫓東土塀が旧国宝に指定
1956 城跡が国の指定史跡になる
1994〜97 本丸南御門や五の平櫓、土塀などが復元される
2001〜03 天守の解体修理が行われる

備中松山城の歴史 まとめ

今回は備中松山城の歴史を紹介しました。いかがでしたか?

備中松山城は鎌倉時代に築城されてから、幕末・明治まで続いたお城でした。それだけ長い間使われ続けたことは、この地域の重要拠点にお城が建てられていたと考えることもできます。さらにその場所に最初に建てた秋庭重信の選択がピカイチだっと言えますね。

最後にもう一度ポイントをおさらいしておきましょう。

  • 備中の戦国大名・三村氏の居城として、中国地方の覇者・毛利元就と戦う
  • 水谷勝宗が現在まで残る天守を築く
  • 廃城令のあと、お城は放置され朽ち果てていった
  • 昭和・平成の大修理と、建物の復元工事が行われる

参考資料