今回は「島原城の歴史」を紹介します。
- 島原城の歴史をおおまかに知りたい人
- お城に興味を持ち始めた人
- 島原城へ行く前に予習しておきたい人
- 島原城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人
まずは島原城の歴史のポイントを3つ紹介します。
このポイントをおさえておくだけでも歴史の概要は掴めますよ。
- 島原の乱の原因になった松倉重政の島原城築城
- キリシタン弾圧や圧政に耐えかねて起きた島原の乱
- 天守や櫓が復元されてお城の姿をとり戻した島原城
お城に限らず、神社やお寺、そのほかの歴史的建造物でも建てられた時の時代背景や歴史を知っていると見学した時により楽しめ、そして歴史ドラマや小説なども理解度が増してストーリーに入り込むことができます。
この記事で島原城の歴史に詳しくなってお城めぐりや歴史小説・ドラマをもっと楽しんでいきましょう。
Contents
島原城ってどんなお城?
4万石の大名には大きすぎた島原城
長崎県島原市にある島原城。島原城は江戸時代になってから築かれたお城で、松倉重政という人物によって築城されました。
しかしのちに島原城築城が大事件へと発展していきます。
現在の島原城は本丸と二の丸が「島原城跡公園」となっていて、散策することができます。
建物はすべて明治時代に壊されてしまったので、現在の建物は昭和に再建されたもの。
けれど石垣と堀はよく残っていて、島原城の見学ポイントの一つです。
島原城を築いた松倉重政は4万石の領地をもつ大名でした。
戦国時代や江戸時代でよく出てくる「石」という単位は、成人1人が1年間に食べるお米の量をあらわしています。
なので4万石の領地というのは、4万人を養うだけのお米が取れる領地ということになります。
加賀100万石というように、お米がたくさん取れればそれだけ人口を増やすことができ、税収が増えて藩は豊かになります。なので各地の大名は領地(石高)に見合ったお城を築いていきました。
しかし4万石に対して島原城は大きすぎるお城でした。
なぜ松倉重政は大きすぎる島原城を築いたのか見ていきましょう。
島原城の歴史
ここからは島原城の歴史を戦国時代〜昭和・平成まで順に紹介していきます。
戦国時代の島原城
九州の覇権をかけて争った沖田畷の戦い
島原城は江戸時代になってから築城されたお城。島原城が築かれる以前は森岳城というお城がありました。
そして森岳城近辺で九州の覇権を争う「沖田畷(おきたなわて)の戦い」という合戦が起きています。
戦国時代の島原半島は有馬晴信の領地で日野江城を本拠地にしていました。そして領地を拡大してきていた龍造寺隆信が島原半島へ佐賀から南下してきます。
隆信の南下に対して、有馬晴信や大村純忠は抵抗できずに降伏。有馬晴信の娘が隆信の息子・政家に嫁ぐことで和睦しました。
龍造寺隆信はその後も領地拡大を続けて、九州北部のほとんどを支配下に置くまでになっています。
また九州南部では大分県の大友氏と鹿児島県の島津氏が日向(宮崎県)を争っていました(高城の戦い)。結果、島津氏が大友氏を破り、島津氏が躍進していくキッカケに。
この後、九州の覇権をかけて龍造寺氏と島津氏が争うことになります。
一度は龍造寺隆信へ降伏していた有馬晴信が島津氏へと寝返りました。晴信としては島津氏とともに龍造寺氏へ抵抗して、失った領地をとり戻したかったのです。
これに起こった隆信は有馬晴信を成敗するために、島原半島へ出兵。龍造寺軍は3万人で、一説には5,6万とも言われています。
有馬晴信は島津氏へ援軍を要請。それでも合わせて6000人しか兵を集めることができませんでした。
有馬・島津軍には不利な状況で有馬氏の居城・日野江城で籠城しても勝ち目はありませんでした。そこでお城の外で龍造寺軍を迎え撃つことに決定。
その迎え撃つ場所が、現在の島原城周辺でした。
島原城より北側は畷(なわて)といって湿地帯に細い道が通っているだけの土地でした。この地形を利用して、有馬・島津軍は龍造寺軍を撃退しようと考えました。
合戦当日。龍造寺隆信は総攻撃を命じました。最初、島津軍は負けたフリをして兵を退かせています。そしてこれを龍造寺軍が追撃。龍造寺軍が畷の細い道にきたところで、隠れていた島津・有馬軍が道の両側から一斉攻撃。湿地帯で身動きがとれなくなった龍造寺軍は混乱し、総崩れになりてったいしていきました。
結果、龍造寺軍は大敗した上に、大名である龍造寺隆信が討ち取られてしまいました。こののち、島津氏が九州のほとんどを支配下に置くようになり、龍造寺家はその配下となりました。
江戸時代の島原城
島原の乱の原因になった松倉重政の島原城築城
徳川家康が征夷大将軍になって江戸時代になってしばらく、島原半島の日野江藩を納めていた有馬晴信の息子・直純が日向延岡(宮崎県)へ領地替えで移っていきました。
日野江藩の領地はしばらく幕府領となっていたけど、のちに松倉重政に与えられています。
重政は最初有馬氏が使っていた日野江城に入ったけど、日野江城は場所が領地の南側に寄っていたりして不便でした。
そこで重政は新しくお城を築くことにしました。それが島原城です。
もともと築城名人として知られていた松倉重政は、7年かけて自分が理想とするお城・島原城を完成させました。島原城は姫路城大天守と同じ五重天守を持ち、60基以上の櫓をもつ立派なお城でした。しかし4万石の領地しか持たない重政には大きすぎるお城でした。
重政には九州の外様大名へのけん制とキリシタン対策という任務が江戸幕府から与えられていたと言います。そのために大きなお城が必要で、武家諸法度で禁じられていた新しいお城の築城や大きな天守も重政へ許可されています。
しかし島原城を完成させるためには多大な資金と労力が必要で、そのしわ寄せが領民へのしかかることになりました。
重税と築城工事の手伝いのために、重政は領民から恨みをかっていました。
キリシタン弾圧や圧政に耐えかねて起きた島原の乱
島原城が完成した後、島原周辺では天候不順から飢饉になっていて、年貢を納められない農民もたくさんいたといいます。しかし松倉重政は納められなかった農民に対してきびしい刑を課していきました。またキリシタンへの弾圧も強めていきました。
重政が亡くなると、息子の勝家が跡をつぎました。勝家もまた重政と同じように農民やキリシタンに対してきびしい対応を続けています。
島原の領民の不満は「島原の乱」として爆発しました。島原の乱はキリシタンの反乱というイメージがありますが、きびしい年貢など圧政に苦しめられていた農民(きりしたんではない)が大勢加わっていました。
当初、勝家は軍を派遣して一揆の鎮圧しようと考えていました。しかし一揆勢の勢いが強く鎮圧には失敗。勝家は島原城で籠城することにしています。
一揆勢は島原城を襲い、城下町は大きな被害を受けました。
この後、一揆勢は当時すでに廃城になっていた原城に立てこもります。
そこへ事態を重く見た江戸幕府が九州の大名たちに命じて、一揆鎮圧のための軍を派遣。
この結果、原城で大規模な合戦が起き、多くの死傷者を出して一揆は鎮圧されました。
乱が鎮まった後、乱を引き起こした原因として松倉勝家が責任をとらされて斬首。
のちに島原城には高力忠房が入り、その後松平氏、戸田氏、松平氏と譜代大名が入れ替わりで城主を明治まで務めていきました。
明治時代の島原城
廃城令によってすべての建物が取り壊された島原城
明治時代になると、「廃城令」によって全国のお城は軍の施設として利用される「存城処分と、建物を取り壊して民間に払い下げられる「廃城処分」とに区別されました。
島原城は廃城処分とされ、天守や櫓、門、御殿などすべての建物や立ち木1本に至るまで売られて、取り壊されました。堀と石垣が残るのみとなっています。
島原城の天守は姫路城大天守と同じ五重天守でした。
この天守は島原の乱や1792年に起きた「寛政の大地変」といわれる雲仙岳の噴火と地震にも耐えていて、倒壊・焼失を免れて明治時代まで残っていました。
しかし廃城令にはさからえず、取り壊されてしまいました。
廃城後の島原城は、本丸は畑として、三の丸には学校として利用されています。
昭和・平成の島原城
天守や櫓が復元されてお城の姿を取り戻した島原城
昭和、戦後になって島原城跡は「島原城公園」として整備されました。
市民からの熱意もあって1960年に西三重櫓が、64年には天守が再建されました。
つづいて72年に巽(たつみ)三重櫓を、80年に丑寅(うしとら)三重櫓を復興しています。
また土塀も再建されていて、島原城はお城としての姿をとり戻していきました。
島原城で現存する遺構は、もともと三の丸にあって本丸へ移築された「御馬見所」があり、これは国の登録有形文化財になっています。
「御馬見所」は幕末に藩主が藩士の訓練を視察するために作られた建物です。
豪雨被害の後、石垣が修復された島原城
2012年6月に島原で豪雨被害があり、島原城では本丸西側の石垣の一部(幅24m、高さ11.5m)が崩落。
島原城跡は国の文化財指定は受けていなかったので、国(文化庁)からの修復費用援助はありませんでした。
それでも島原市と長崎県は島原城跡が将来的に文化財指定されるために、石垣修復を決定。1億1000万円かけて石垣を修復しました。
石垣の崩落前の写真を頼りにくずれた石を元の場所へパズルのように積み直していき、2012年12月〜2014年3月にかけて修復作業が行われました。
スポンサーリンク島原城の歴史年表
1584 | 沖田畷の戦い |
---|---|
1614 | 有馬直純が日向延岡へ移る |
1616 | 松倉重政が島原に領地をもらって、日野江城に入る |
1618 | 重政が島原城の築城開始 |
1621 | 重政がキリシタン弾圧を開始 |
1625 | 7年かけて島原城が完成する |
---|---|
1630 | 重政が亡くなり、子の勝家が跡を継ぐ |
1637 | 島原の乱が起きる |
1638 | 島原の乱の責任で勝家が斬首される 代わって高力忠房が島原城主に |
1792 | 普賢岳の噴火が起きる(寛政の大地変、島原大変肥後迷惑) |
1874 | 廃城令によって、島原城は廃城処分になる |
---|---|
1876 | 島原城の建物が取り壊される |
1957 | 島原城公園として整備される |
1960 | 西三重櫓が再建される |
1964 | 天守が再建される |
1972 | 巽(たつみ)三重櫓が再建される |
---|---|
1980 | 丑寅(うしとら)三重櫓、土塀が再建される |
2012 | 豪雨被害で本丸西側の石垣が崩落する |
2012〜14 | 本丸の石垣修復が行われる |
島原城の歴史 まとめ
今回は「島原城の歴史」を紹介しました。
島原城は江戸時代になってから築かれたお城。しかしながら、その築城工事は島原の領民にとっては不幸の始まりで、島原城は領民の犠牲のうえに築かれたお城でした。
現在の島原城天守は資料館になっていて、キリシタンに関する資料も展示してあります。また島原城のある長崎県には、原城をはじめとして「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に登録されています。
島原城と一緒に巡ってみるのもオススメです。
最後にもう一度歴史のポイントをおさらいしておきましょう。
- 島原の乱の原因になった松倉重政の島原城築城
- キリシタン弾圧や圧政に耐えかねて起きた島原の乱
- 天守や櫓が復元されてお城の姿をとり戻した島原城
島原城へのアクセス
- 長崎県島原市城内1丁目1183−1
- 電車での行き方:島原鉄道「島原駅」より徒歩5分
- クルマでの行き方:長崎自動車道「諫早IC」より約60分
- 飛行機での行き方:長崎空港よりクルマで約90分
詳しくはこちら「島原城|公式ホームページ」