今回は「鎌倉時代のお城」について解説していきます。
- お城の歴史をおおまかに知りたい人
- お城に興味を持ち始めた人
お城というと大阪城や姫路城のような戦国時代から江戸時代にかけて作られたものを思い浮かべます。
では源頼朝がつくった鎌倉幕府はどんなところを拠点にしていたのでしょうか?
結論から言うと、戦国〜江戸時代のようなお城は築いていませんでした。
では幕府はどうやって鎌倉を守っていたの?、源氏にとって鎌倉とは?についてこの記事で解説していきます。
まずは鎌倉時代のお城のポイントを3つ紹介します。
- 源氏ゆかりの地・鎌倉
- 丘陵と海に囲まれた城塞都市ー鎌倉
- 元軍の上陸阻止のために作られた元寇防塁
では鎌倉時代のお城について解説していきます。
Contents
鎌倉時代ってどんな時代だったの?
源頼朝が幕府を設立し、約680年つづく武士の世の中が始まる
まず、鎌倉時代とはどんなじだいだったのか?
鎌倉時代とは、源氏と平氏が争った源平合戦のあと、源頼朝が鎌倉幕府を設立。ここから明治維新まで680年間つづく武士の世の中が始まっていきます。
幕府を設立した源頼朝が亡くなると、将軍を継いだ二人の息子も相次いで亡くなってしまいます。鎌倉幕府の源氏将軍は3代で途絶えてしまいました。
その後は、頼朝の奥さん・北条政子の実家の北条氏が実験を握って、執権という立場で幕府を仕切っていきました。
その頃、世界ではチンギス・ハンが建てたモンゴル帝国が勢力を伸ばしていて、世界最大の領地を手に入れていました。
そしてモンゴル帝国のうちの「元」という国がアジアにも影響力を広げようと日本に服属を求めてきます。
それどころか、2度にわたって元軍が九州へ襲来。日本は世界最大の帝国を相手になんとか生き延びることができました。
ところが元軍を撃退したのにもかかわらず、幕府は御家人(武士)に十分な褒美を与えることができませんでした。
このことから御家人のあいだで幕府に対する不満があふれることに。
そして後醍醐天皇が討幕を全国に呼びかけることで、鎌倉幕府は滅亡へと向かっていきます。
鎌倉ー丘陵と海に囲まれた天然の要塞
源氏にとって鎌倉とは?
平安時代、源頼義(頼朝より5代前)が鎌倉・由比ヶ浜へ石清水八幡宮を分祀して鶴岡八幡宮を建立したのが、源氏と鎌倉のはじまり。
これ以降、鎌倉が源氏の拠点となっていき、頼朝の父・義朝も鎌倉に邸宅を建てていました。
平治の乱で義朝・頼朝親子は平清盛と対立して敗北。義朝は殺害され、頼朝は伊豆へ追放されます。
平清盛とその一族によって政治が支配されていて、これに公家や武士たちは不満をもっていました。
のちに以仁王(もちひとおう)によって平家討伐の命令をうけて、頼朝は伊豆を脱出。房総半島の安房へと逃亡。
そこで千葉常胤の支援を受けて、源氏ゆかりの地である鎌倉に入りました。
そして頼朝は自分の邸宅として「大倉御所」を建設。これが鎌倉幕府の始まりと言われています。
鎌倉城とは?
「鎌倉城」とは公家・九条兼実の日記「玉葉」のなかで、大倉御所を中心とした鎌倉を鎌倉城と呼んでいました。
鎌倉城が何をさしているのかについては様々な説があり、次の項で解説する鎌倉への出入り口になっていた7つの切通しを城と呼んでいたとする説や、源氏の本拠地である鎌倉を城と比喩したとする説もあります。
鎌倉城といっても戦国時代のようなお城ではなく、鎌倉幕府の本拠地となった大倉御所は堀や土塁も備えておらず、お城と呼べるものではありませんでした。
鎌倉の防御の秘密ー切通しとは?
では戦国時代のお城のように堀や土塁で守らなかったら、鎌倉をどのように守っていたのでしょうか?
鎌倉は三方向を丘陵に、南側を海に囲まれた年でした。
北・東・西を囲む丘陵は鎌倉にとって天然の城壁になっていて、さらに斜面を削ることで人口のガケ(切岸)にしてより越えにくくしていました。
鎌倉へとつながる道は7つに制限されていて、さらにそれらの道を細くすることで防御に有利になるようにしていました。
極楽寺坂・大仏坂・化粧坂(けわいざか)・亀ヶ谷坂・巨福呂坂(こぶくろざか)・朝夷奈(あさひな)、名越坂の7つの切通しです。
さらに狭い通路になっていた切通し周辺に、切岸や堀切、竪堀などを作っていて防御力をアップさせていました。
新田義貞の鎌倉攻め
鎌倉時代末期、後醍醐天皇の倒幕に応じた新田義貞が上野国(群馬県)で挙兵、幕府の本拠地・鎌倉を目指していきます。
鎌倉までの途中、小手指原の戦いや分倍河原の戦いなどで義貞は幕府軍と戦い、破っていきました。
5月8日に挙兵した後、5月18日に義貞は鎌倉へ到着しています。
そして義貞は軍を3つに分けて三方向から鎌倉を攻撃。極楽寺坂、化粧坂、巨福呂坂切通しの3つです。
しかし幕府軍の必死の抵抗と、切通しの防御力の高さから新田軍はなかなか鎌倉へ侵入することができませんでした。
そこで義貞は極楽寺坂より南の海岸沿い、稲村ヶ崎から鎌倉への侵入を試みました。
5月21日未明、義貞は干潮で歩けるようになっていた稲村ヶ崎から鎌倉へ侵入することに成功。
このときの執権・北条高時は東勝寺で一族とともに自害。ここに鎌倉幕府は滅亡しました。
スポンサーリンク元軍の上陸阻止のために作られた元寇防塁
元寇とは?
元寇(げんこう)とは、1274年と1281年の2回にわたって「元」が九州へ攻めてきたこと。
元とは、チンギス・ハンの孫でモンゴル帝国5代皇帝に即位したフビライ・ハンが国名を「大元」に変えたことで成立した国です。
そしてフビライ・ハンはアジアでの影響力を高める目的で、日本に死者を送って服属を要求。しかしこの時の執権・北条時宗はこれを黙殺。ここから元軍の九州襲来へとつながっていきます。
1274年、最初の元寇(文永の役)では、元軍は博多湾に上陸。集団戦法や火薬を使う元軍に日本の武士は苦しめられていました。それでもなんとか撃退することに成功。
最初の元寇に失敗したフビライだったけど、ぜんぜん諦めてなくて再度日本に服属を要求してきます。しかし時宗の考えは変わらず、元からの使者を切って対決姿勢を明確にしました。
元が再び攻めてくることに備えて築かれたのが「元寇防塁」です。
世界最強の元軍をはねのけた元寇防塁
再度の元軍襲来に備えて築かれた「元寇防塁」
防塁は高さ2〜3m、幅2mで、博多湾沿岸に約20kmにわたって築かれました。
この防塁で元軍の上陸を阻止する目的がありました。
1281年、再び元軍がやってくると(弘安の役)、防塁が効果を発揮。
元軍の上陸を阻止しました。
上陸に失敗した元軍は博多湾の海上で寝泊りすることになりました。
そこへ暴風雨が元軍を襲い、船は次々と沈んでいきました。
元寇防塁と暴風雨によって、日本は再び元軍を撃退することに成功しています。
スポンサーリンク鎌倉時代のお城 まとめ
今回は「鎌倉時代のお城」について解説しました。
鎌倉時代のお城の特徴は次の3つがありました。
- お城といえるほど防御設備や大きさを備えたモノは鎌倉にはなかった
- 鎌倉は丘陵と海、そして7つの切通しで守られていた
- 元軍の襲来に備えて、博多湾に元寇防塁を築いていった
鎌倉時代から武士の世の中が始まったことでのちの室町・戦国時代へとつながっていき、お城も発展していきます。
お城というと戦国〜江戸時代のお城がイメージしやすいです。
どうお城の発展が戦国〜江戸へとつながっていくのか、戦国以前の歴史からさかのぼって知っていくことでお城をより楽しむことができます。
次回は室町時代のお城を紹介します。