鹿児島県の100名城である鹿児島城(鶴丸城)にはどんな歴史があったの?
鹿児島城は誰が築城したのか?戦いがあったのかなど知りたいな!
今回は「鹿児島城の歴史」を紹介していきます。
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この記事では下記のポイントで鹿児島城の歴史を紹介していきます。
- 初代藩主・島津家久が鹿児島城を築城
- もともと山城と麓のお城の2段構えだった鹿児島城
- 薩英戦争や西南戦争で被害を受けた鹿児島城
- 令和に復元された鹿児島城のシンボル・御楼門
それでは「鹿児島城の歴史」を紹介していきます。
Contents
鹿児島城とはどんなお城?
鹿児島県の県庁所在地・鹿児島市にある鹿児島城は、島津家久(忠恒)が1602年から築城し、鹿児島県で唯一日本100名城に選ばれています。
江戸時代の鹿児島城は天守や重層櫓を持たず、シンプルな本丸と二の丸だけのお城でした。
お城の地形が鶴が翼を広げた姿に見えたことから「鶴丸城」とも呼ばれています。
天守を持たなかった鹿児島城でシンボル的な建物だった城門「御楼門」が2020年に復元・完成し、鹿児島市のシンボルにもなっています。
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ここからは鹿児島城の歴史を戦国時代〜現在まで順に紹介していきます。
戦国時代以前の鹿児島
鎌倉時代から鹿児島を治めてきた島津氏
島津氏が鹿児島(薩摩)にやってきたのは平安末期・鎌倉時代で、1185年に島津忠久が島津荘下司(げし)職に任命されたことがキッカケでした。
ここから明治まで薩摩を島津氏が治めていきます。
室町時代の1387年ころには島津氏は清水城(現在の清水中学校北側)を居城とし、戦国時代になると島津貴久が築いた内城(大瀧小学校周辺)を本拠地としていました。
鹿児島は「東に棈木川(あべきかわ)、西に出水筋、南に錦江湾、北に城山」があり、風水で良い土地とされる「四神相応の地」でした。
清水城から内城へと居城を移転しながら城下町は拡大していきます。
江戸時代の鹿児島城
初代藩主・島津家久が鹿児島城を築城
1600年の関ヶ原の戦いで島津氏は石田三成の西軍に属して敗れていました。
西軍に属していた島津氏の処分をめぐって徳川家康との微妙な関係の時期があったけど、1602年には島津氏と家康は和解し、島津氏の領地はそのまま維持されることになっています。
新たに島津家当主となった島津家久(忠恒・義弘の子)は1602年から内城に代わって鹿児島城の築城を開始。
鹿児島城は1604年に完成し、2年後の1606年には家久が内城から鹿児島城へ移っています。
以降、幕末・明治まで鹿児島城が島津氏の居城となります。
もともと山城と麓のお城の2段構えだった鹿児島城
当初の鹿児島城は二つの部分からなっていました。
1つ目は城山の麓の屋敷部分(現在、みんなが鹿児島城と呼んでいる部分)。
2つ目は屋敷の背後にある城山の山頂に作られた上之山城という山城部分。
これら2つを合わせて鹿児島城と呼んでいました。
上之山城は緊急時に逃げ込むための山城(詰の城)という役割がありました。
島津歳久(義弘の弟)の孫・常久が上之山城の城代となって、お城の管理を任されています。
常久が早くに亡くなると城山全体が聖域とされて、立ち入り禁止に。
その後江戸幕府によって一国一城令が出されたため、島津氏は上之山城を廃城にして取り壊しています。
以降は麓の屋敷部分だけを鹿児島城と呼ぶようになっていきます。
島津義弘・家久親子の築城にまつわる逸話
島津家久は1602年から鹿児島城を築城しました。
この時父親である島津義弘は鹿児島城の築城に反対していたと言います。
鹿児島城の場所は海から近く防御に問題があるために、お城には向かない土地だったから。
義弘の懸念は万が一にも徳川家康に薩摩を攻められることを想定していたのかもしれません。
のちに義弘の懸念は実現することになり、幕末の薩英戦争では実際にイギリスの軍艦によって鹿児島湾から奥御殿に砲弾が撃ち込まれています。
火災・災害のたびに再建されてきた鹿児島城
鹿児島城は江戸時代を通じて何度も火災や災害に遭ってきました。
1650年には大雨によってお城が破損、1696年には火災で御殿が並ぶ本丸と二の丸の一部を焼失しています。
財政事情などによって復旧は1707年までかかりますが、お城の造りは変わることなく再建されました。
その後1759年にも火災があり、奉行所や材木蔵が焼失。
鹿児島城は災害や火事のたびに再建復旧し、維持されてきました。
幕末・明治の鹿児島城
薩英戦争や西南戦争で被害を受けた鹿児島城
幕末の鹿児島城下からはのちの明治維新を進めていく西郷隆盛や大久保利通が誕生しています。
薩摩藩がイギリス人を殺傷した生麦事件をキッカケとした薩摩藩とイギリス軍との戦闘(薩英戦争)では、薩摩藩の砲台とイギリス軍艦の間で砲撃戦が行われました。
このときに鹿児島湾のイギリス軍艦によって、鹿児島城の奥御殿に砲弾が撃ち込まれて被害を受けています。
西郷隆盛や大久保利通が明治維新をとげて明治時代になると鹿児島城は軍の管轄となりました。
そして鎮西鎮台第2分営が城内に置かれて、歩兵部隊が駐屯するようになっています。
1873年(明治6年)に兵舎からの出火で鹿児島城は火事に遭い、本丸の建物は全焼してしまいました。
征韓論で敗れて鹿児島に戻っていた西郷隆盛は、消失した後の鹿児島城の一画(厩跡)にのちに西南戦争の原因にもなる私学校を作ります。
1877年の西南戦争で、西郷隆盛は鹿児島城の背後にある城山に追い詰められて、最期は切腹。
この時の戦闘で、残っていた二の丸の建物は政府軍の攻撃によって焼失、また銃弾の跡が今も石垣に残されています。
その後、1901年から約50年間は第七高等学校造士館として城跡は使用されてました。
現在の鹿児島城
歴史・美術センター黎明館や図書館・美術館などが置かれている鹿児島城
戦後になって1949年から鹿児島大学が城跡に置かれています。
1977年から鹿児島城跡の発掘調査が始まり、この年に二の丸が調査され、1978〜79年には本丸が調査されました。
本丸跡からは建物の跡や石垣、階段などが発見されています。
1983年になると歴史資料センター黎明館(れいめいかん)(現・鹿児島県歴史・美術センター黎明館)が本丸に建てられ、その後二の丸に県立図書館・博物館や市立美術館が建てられました。
現在の鹿児島城跡は、城山の山城部分(上之山城)が国の指定史跡と天然記念物に、本丸の石垣・堀などが鹿児島県の指定史跡になっています。
令和に復元された鹿児島城のシンボル・御楼門
御楼門は本丸正面の入り口にあり、明治時代の1873年に火災で失われています。
御楼門は天守を持たなかった鹿児島城ではシンボル的な建物でした。
また御楼門は明治時代の古写真や礎石に残る痕跡などから高さ・幅ともに20mあり、国内最大級の櫓門だったことが分かっていました。
2015年になると「鶴丸城御楼門建設協議会」が設立されて、再建に向けた具体的な取り組みが進められることになります。
再建にあたっては、文化庁の「史跡等における歴史的建造物の復元に関する基準」に基づいて、明治時代の古写真や礎石・石垣などの遺構、発掘調査の結果などを参考に勧められました。
再建工事は2018年9月に起工し、2020年3月に完成。再建された御楼門は4月11日から一般開放されています。
再建にあたって岐阜県から贈られたケヤキ
御楼門の再建にあたっては岐阜県から鹿児島県へケヤキの大木が贈られています。
鹿児島県と岐阜県は、江戸時代の薩摩藩による木曽三川の宝暦治水工事の縁があり、1971年に全国初の姉妹県になっていました。
岐阜県は御楼門再建にあたって「鹿児島県との友好の証プロジェクト」を立ち上げ、鹿児島県へ長さ約8m、周囲約4m、樹齢300年以上の岐阜県産のケヤキを贈っています。
スポンサーリンク鹿児島城の歴史年表
1185年 | 島津忠久が島津荘下司職に任命 |
---|---|
1387年ころ | 島津氏は清水城を本拠とする |
1550年 | 島津貴久が内城を築城し、居城とする |
1600年 | 島津氏は関ヶ原の戦いで西軍として戦い、敗れる |
1602年 | 島津家久が鹿児島城を築城開始 |
1604年 | 鹿児島城が完成 |
---|---|
1606年 | 島津家久が内城から鹿児島城へ移る |
1615年 | 一国一城令で上之山城を廃城にする |
1650年 | 大雨でお城が破損する |
1696年 | 火災によって、本丸と二の丸の一部が焼失 |
1704年 | 鹿児島城の中心部が再建される |
---|---|
1759年 | 火災によって奉行所、材木蔵が焼失 |
1785年 | 島津重豪が二の丸を拡張する |
1863年 | 薩英戦争が起こり、イギリス軍艦の砲撃によって奥御殿が被害を受ける |
1873年 | 本丸が火災で焼失 |
1877年 | 西南戦争が起こり、二の丸が焼失する |
---|---|
1901年 | 城跡に第七高等学校造士館が置かれる |
1931年 | 上之山城が国の指定史跡、天然記念物に指定 |
1949年 | 城跡に鹿児島大学が置かれる |
1953年 | 本丸の石垣や堀などが県の指定史跡になる |
1977年 | 二の丸の発掘調査 |
---|---|
1978〜79年 | 本丸の発掘調査 |
1983年 | 歴史資料センター黎明館(鹿児島県歴史・美術センター黎明館)が建てられる |
2020年 | 4月、再建された御楼門が一般開放される |
歴史を知った上で鹿児島城を見学してみよう!
今回は「鹿児島城の歴史」を紹介しました。
最後にもう一度ポイントをおさらいしておきます。
- 初代藩主・島津家久が鹿児島城を築城
- もともと山城と麓のお城の2段構えだった鹿児島城
- 薩英戦争や西南戦争で被害を受けた鹿児島城
- 令和に復元された鹿児島城のシンボル・御楼門
お城それぞれの歴史を知っていると、お城めぐりもより楽しくなるので気になるお城の歴史を知れべてみるのはいかがですか?
鹿児島城へのアクセス
- 鹿児島県鹿児島市
- 電車での行き方:鹿児島市電で「市役所前」下車で徒歩7分
- バスでの行き方:市バスで「市役所前」下車で徒歩7分
- バスでの行き方:周遊バスカゴシマシティビューで「薩摩義士碑前」下車で徒歩すぐ
- クルマでの行き方:九州道鹿児島北ICから国道3・10号経由で約6km・20分
- 詳しくはこちら「鶴丸城跡(鶴丸城御楼門)|鹿児島県観光サイト/かごしまの旅」