今回は古墳時代の「豪族居館」(ごうぞくきょかん)について解説していきます。
古墳時代というと、その名のとおり古墳ばかりが注目されますが、では古墳を作るような権力者の住居はどんなものだったのでしょうか?
古墳と違いイメージしづらい豪族居館ですが、群馬県にある代表的な豪族居館「三ツ寺遺跡」を参考にするとわかりやすいです。
この「三ツ寺遺跡」を参考にしながら見ていきましょう。
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「豪族居館」(ごうぞくきょかん)とは?
「豪族居館」とは、古墳時代に地域を支配していた「豪族」と呼ばれる有力一族が居住していた館。
現在、岩手県から熊本県まで100ヶ所以上が確認されています。
豪族居館はいずれも堀・土塁・柵を持っていて、正方形や長方形のカタチをしていました。
敷地内は柵や溝で区画され、住居・倉庫・祭祀場などに分けられていました。
小さいもので2000平方メートル、大きいものだと7000平方メートルの面積を持っていました。これは環濠集落と比べると小規模なもの。(サッカーのグラウンドが約7000平方メートル)
豪族居館の立地は平地や台地にあり、河川を交通・防御のために巧みに利用していました。
古墳時代になると環濠集落はなくなり、濠や柵で囲われていないふつうの集落になっていきます。
そのなかで、はじめ豪族居館は環濠集落内につくられました。
環濠集落内でリーダーの住居や神殿などを堀で囲ったことが始まりです。
その後、リーダーの住居は環濠集落の外側につくられるようになり、最終的に環濠集落が消滅して濠をもたない集落になり、リーダーの住居だけが堀で囲われた「豪族居館」へと発展していきました。
スポンサーリンク代表的な豪族居館「三ツ寺遺跡」
100ヶ所以上ある豪族居館でも代表的な遺跡が三ツ寺遺跡(群馬県)です。
三ツ寺遺跡は古墳時代中頃(5世紀)に作られました。
三ツ寺遺跡は、1辺86メートルの四角形(方形)をしています。敷地内は柵で2分割されていて、複数の竪穴住居と倉庫がある場所と豪族の居館と祭祀場と区画されていました。
敷地の周囲には堀があり、幅は30〜40メートルもあり戦国時代のお城と比べても大きな堀でした。そして、斜面には石が敷き詰められていました。
大きな堀や柵で厳重に囲われた居館というのは、
スポンサーリンクまとめ
今回は「豪族居館」について解説しました。
豪族がどんな生活をしていたのかイメージしやすくなったのではないでしょうか。
現在の三ツ寺遺跡は上越新幹線の高架下に埋め戻されていて遺構をみることはできませんが、岩手県から熊本県まで100ヶ所以上の豪族居館が確認されているので近くの遺跡を探してみてはいかがでしょうか?
そのときにはこの記事を参考にしてみてください。