お城の歴史

家康のいとこ水野勝成が築城した【福山城の歴史】を1記事に総まとめ

解説!福山城の歴史
お城好きな武将
お城好きな武将

広島県の100名城の一つである福山城にはどんな歴史があるの?

福山城は誰が築城したのか?戦いがあったのかなど知りたいな!

今回は「福山城の歴史」を紹介していきます。

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ゆうき
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この記事では下記のポイントで福山城の歴史を紹介していきます。

福山城の歴史のおもなポイント
  • 幕府からの信頼が厚い水野勝成が福山城を築城
  • 戊辰戦争にさきがけて新政府軍に包囲された福山城
  • 太平洋戦争で現存していた天守が焼失
  • 築城400周年に向けて整備が進む福山城

それでは「福山城の歴史」を紹介していきます。

Contents

福山城とはどんなお城?

福山城の場所福山城の場所

まずはじめに福山城とはどんなお城なのでしょうか?

広島県東部の福山市にある福山城は、標高28mの常興寺山という丘に築かれた平山城。

別名「鉄覆山朱雀院久松城」「葦陽(いよう)城」とも呼ばれていました。

お城跡は国の史跡に指定されていて、伏見櫓・筋鉄御門が国の重要文化財になっています。

昭和まで現存していた天守は、北面の外壁に鉄板が貼られていた珍しい天守でした。

また現存する伏見櫓は京都の伏見城から移築された櫓だと判明していて、駅ホームから一番近い櫓とも言われています。

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福山城の歴史

ここからは福山城の歴史を戦国時代以前〜現在まで順に紹介していきます。

戦国時代までの福山城

福山城の前は神辺城・鞆城が福山の中心だった

福山城と神辺城・鞆城の位置関係福山城と神辺城・鞆城の位置関係

福山城は江戸時代に築かれた比較的新しいお城です。

では戦国時代までの福山にはどんなお城があったのでしょうか?

南北朝時代には備後守護・朝山氏が神辺城を守護所としていて、福山周辺が備後(広島県東部)の中心でした。

戦国時代になると、この時の守護・山名氏によって神辺城が再築城されています。

毛利元就が戦国大名として成長していくと、福山周辺も毛利家の支配下に。

1573年に将軍・足利義昭が織田信長によって京都を追放されると、義昭は毛利家を頼って落ち延びてきました。

そこで毛利家は福山に近い鞆の浦に鞆城を築いて、このお城に義昭を迎えています。

1600年の関ヶ原の戦いで毛利家が敗れると、毛利家の領地だった安芸・備後には福島正則が入りました。

正則は広島城を居城とし、神辺城には重臣を入れて、鞆城を天守を備えたお城に改修しています。

江戸時代の福山城

幕府からの信頼が厚い水野勝成が福山城を築城

福山城天守福山城天守

1617年大雨で広島城が破損して、福島正則は幕府の修理許可をしっかり得ないままお城を修理してしまいました。

このことで正則は広島から信濃・川中島へ領地替え(改易)になっています。

正則に代わって福山の領主になったのが水野勝成。

勝成は徳川家康のいとこで、家康の母(於大の方)が勝成のおば(父の姉)という関係です。

豊臣秀頼が滅んだ大坂の陣のあと、勝成は大和郡山6万石を領地としていたけど、正則の改易にともなって備後10万石へ移ってきました。

豊臣氏が滅亡した後とはいえ、西日本には島津氏や毛利氏など大きな外様大名がたくさんいました。

そこで2代目将軍・徳川秀忠は家康のいとこでもあり、戦国時代の生き残りとして武勇・政治にも優れていた水野勝成に西日本の監視役を監視役を任せています。

また福山という土地は山陽道・瀬戸内海と海と陸の両方の交通の要衝で重要な場所でした。

お城の候補地を3つ考えていた水野勝成

水野勝成が挙げた福山城の候補地水野勝成が挙げた福山城の候補地

勝成はそれまでにあったお城(神辺城や鞆城)を利用するのではなく、新しくお城を築くことにしました。

神辺城は海から遠く、鞆城は山陽道から遠いためでした。

勝成は領地をくまなく見てまわり、お城候補地を3つ挙げています。

  • 桜山(新市吉備神社わき)
  • 箕島(福山湾に浮かぶ孤島)
  • 城山(野上常興寺山、今の福山城の場所)

そして勝成はこの中でも海陸両方に対応しやすい、「城山」を選んで築城を始めました。

周辺のお城の資材を再利用して短期間で築かれた福山城

福山城福山城

勝成は1619年から築城を開始。

この頃は武家諸法度によってお城の築城はもちろん、修理をするのも幕府の許可が必要でした。

その中でも福山城の築城が認められたのは、大坂の陣の直後で幕府の体制がしっかりしていない時期だったし、西日本の外様大名に対応するための幕府の意向だったからです。

勝成は福山城をわずか3年で完成させました。(1622年完成)

一国一城令で廃城になっていた周辺のお城から資材を集めて再利用したため、短い時間で築城することができました。

神辺城の資材が使われて「神辺一番櫓、神辺二番櫓、神辺三番櫓」という名前の櫓が建てられています。

福山城に現存している伏見櫓も京都の伏見城から移築された櫓でした。

幕府(徳川秀忠)は伏見櫓を与えるなど勝成をいろいろな面で支援しています。

ほかには築城期間中の参勤交代の免除や、西日本から幕府へ入る年貢を勝成に受け取らせるなど築城の支援にしていました。

これほど秀忠は勝成と福山城を気にかけていたことがわかります。

水野家の後継ぎ問題で合戦になりかけた福山城

福山城の石垣福山城の石垣

水野氏は勝成の後、5代目勝岑(かつみね)に後継ぎがいなかったために1698年にお家取りつぶしになっています。

勝岑は1697年生まれで、生まれた直後に父で4代目の勝種(かつたね)が亡くなってしまいます。そして勝岑が幼児だけど家督を継いでいました。

勝岑は将軍へ代替わりのあいさつをするために江戸へ向かいます。しかし幼児だった勝岑はキツかったのか病になり、将軍に謁見した翌日に亡くなってしまいました。

わずか2歳の幼児に江戸でのあいさつを求めた上に、お家取りつぶしの判断をした幕府に対して藩士の不満が爆発。

藩士は福山城で「籠城討死」の覚悟をし、領民は幕府へ訴訟すべしと騒ぎました。

そんな中、家老の水野玄蕃などが藩士・領民をなだめ説得したため、合戦には至らず福山城は明け渡されました。

老中になれる家柄の阿部氏が明治まで福山を治める

水野氏の後は山形から移ってきた松平忠雅が城主になります。

しかし10年後には忠雅は伊勢桑名へと領地替えに。

忠雅の後は阿部正邦が城主になり、明治まで阿部氏が福山を治めていきます。

阿部氏は老中にもなれる家柄で、ペリー来航時は7代目阿部正弘が老中でした。

正弘は老中として日米和親条約を締結し、福山では藩校・誠之館を作っていました。

幕末の福山城

戊辰戦争にさきがけて新政府軍に包囲された福山城

筋鉄御門筋鉄御門

幕末の1865年、9代目阿部正方(まさかた)は第2次長州征伐に幕府側として参加するために準備していました。

このときに城内の櫛形(くしかた)櫓で火薬が爆発。隣接していた鑓(やり)櫓、鉄砲櫓、番所の建物と、保管していた武器が一緒に焼失しています。

翌66年に幕府軍が撤退する形で長州征伐は終わり、67年には病を悪化させた正方が福山城で亡くなりました。

正方の死は幕末の混乱期だったため周囲には伏せられていました。

1868年1月9日に鳥羽・伏見の戦い(1月27日〜)より前に、新政府軍(長州藩)は福山藩を朝敵(天皇の敵)とみなして福山城へ侵攻。

福山藩では藩主正方の急死などで混乱していたこともあり、一時は籠城戦に決めていたといいます。

福山城は包囲される中、城内に銃弾が落ち、天守に砲弾が命中するなど小さな戦いが起きていました。

しかし本格的な戦闘になる前に福山城は開城。福山藩は新政府軍に従って旧幕府軍と戦っていきます。

明治時代の福山城

廃城後は公園として整備された福山城

福山城天守と本丸福山城天守と本丸

明治時代になると廃城令が出されて、全国のお城で建物が取り壊されていきました。

一部のお城は軍の施設として存続していく中、福山城は廃城となり建物は払い下げられました。

天守や伏見櫓など大型の建物は取り壊すのに費用がかかること、神聖視されていた天守を壊すことでの祟りへの恐れもあって、買い手が見つからずにそのまま残されることになります。

この時は天守・伏見櫓・筋鉄御門・御湯殿・鐘櫓が残されました。

廃城令で建物が壊され雑草が生えた福山城を見た旧藩士や市民は、本丸と残っていた天守などの建物の無償での払い下げを政府に願い出ます。

そして1874年に伊藤博文が「人民偕楽の地となすべし」の条件で払い下げを許可し、翌75年に大久保利通によって「指令どおり公園となし、建造物は永久保存すべし」と通達されました。

そして福山城跡は「福山公園」として整備されました。

建物の修理費用に苦労していた福山城

お城跡は福山公園になったものの、天守の修理費用をまかなうことができませんでした。

そこで福山城跡は広島県へ返納されることになります。

しかし県は天守や公園の維持・整備費用を出し渋ったので、天守はより荒廃していきました。

地元の人たちは月見櫓があった場所に旅館「葦陽館」を建てるなど、観光活性化などを図るもののうまくいきませんでした。

天守の荒廃がますますヒドくなっていき、広島県へ修理の申し出をしても実現はしません。

そこで当時の福山町は県から城跡の移譲を提案し、許可されています。

ついに1896年に天守をはじめ伏見櫓・筋鉄御門・御湯殿の修理が実現し、行われました。

昭和の福山城

太平洋戦争で現存していた天守が焼失

伏見櫓伏見櫓

昭和になると本丸を除いて、城跡は宅地や農地になっていました。

内堀は福山駅の拡張などで、外堀は鉄道建設のために埋められています。

ほかの堀も工場や学校の敷地となって埋められ、三の丸は市街地となって遺構の破壊が進んでいました。

この頃には福山城の文化財としての価値が認められ、1931年に姫路・岡山・広島城の天守と一緒に福山城天守も旧国宝に指定されています。

2年後の1933年には伏見櫓・筋鉄御門・御湯殿も旧国宝になりました。

そんな中太平洋戦争末期の1945年8月8日の福山空襲で、天守に焼夷弾2発が命中。天守5階の床から出火し、焼失してしまいます。

ほかに御湯殿や旅館の葦陽館も焼失しました。

幸いにも伏見櫓・筋金御門・鐘櫓は焼失をまぬがれることができました。

市制50周年記念で天守や月見櫓が再建される

伏見櫓と筋鉄御門伏見櫓と筋鉄御門

戦後新しく文化財保護法ができると、1950年に旧国宝だった伏見櫓と筋鉄御門は重要文化財になりました。

そして51年から2年4ヶ月かけて、伏見櫓と筋鉄御門の解体修理が行われています。

この修理の時に、伏見櫓の木材(梁)から「松ノ丸東やくら」の墨書が見つかって、伏見櫓が伏見城からの移築であることが実証されました。

また福山城跡は1964年に国の史跡に指定されています。

1966年には市制50周年記念事業として、天守・月見櫓・御湯殿が再建されました。天守内には福山市立福山城博物館が開設されています。

その後も塀や渡櫓も再建していて、73年には市民からの寄付で鏡櫓を再建、79年に鐘櫓を修理しました。

西外堀跡にふくやま美術館が、三の丸跡に広島県立歴史博物館が建てられ、福山城周辺には文化施設が集まっています。

現在の福山城

築城400周年に向けて整備が進む福山城

福山城は築城400年を2022年に迎えるため、現在は記念事業が進められています。

天守北面の鉄板張りなどの外観復元、博物館のリニューアル、ライトアップ整備、城跡の保存・整備などが進行中です。

2021年4月のニュースで、天守に張られていた鉄板2点が見つかったというものがありました。

見つかった鉄板は市民が保管していて、21年3月に福山市へ寄贈されています。

天守に張られていた鉄板は太平洋戦争の空襲の混乱で行方が分からなくなっていました。

見つかった鉄板は個人宅の倉庫にあり、市は鉄板の成分などを科学的に解析してから現物かどうかを判断するとしています。

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福山城の歴史年表

1619 水野勝成が福山城を築城
1622 福山城が完成
1649 本丸石垣が破損
1676 総構えに石垣を構築
1698 水野勝岑が亡くなることで、水野家が断絶
1700 松平忠雅が城主に
1710 阿部正邦が城主に
1730 本丸御殿の奥居間を撤去
1750 二の丸城米蔵の大半を撤去
1865 第2次長州征伐の準備中に櫛形櫓、鑓櫓、鉄砲櫓、番所が焼失する
1868 新政府軍に包囲されて福山城が開城
1873 廃城令で福山城が廃城に
1893 福山招魂社が城内に移される
1896 天守など建物の修理が実施される
1924 外堀が埋められる
1931 福山城天守が旧国宝になる
1933 伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿が旧国宝に
1936 本丸が国の史跡に指定される
1945 空襲で天守・御湯殿などが焼失
1950 伏見櫓・筋鉄御門が重要文化財に指定される
1964 本丸・二の丸が国の史跡に指定される
1966 天守、月見櫓、御湯殿を再建
1988 西外堀跡にふくやま美術館ができる
1989 三の丸跡に広島県立歴史博物館ができる
2022 築城400周年
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歴史を知って福山城を見学しよう!

今回は「福山城の歴史」を紹介しました。

最後にもう一度ポイントをまとめておきます。

  • 幕府からの信頼が厚い水野勝成が福山城を築城
  • 戊辰戦争にさきがけて新政府軍に包囲された福山城
  • 太平洋戦争で現存していた天守が焼失
  • 築城400周年に向けて整備が進む福山城

お城それぞれの歴史を知っていると、お城めぐりもより楽しくなるので気になるお城の歴史を知れべてみるのはいかがですか。

福山城へのアクセス

  • 広島県福山市丸之内一丁目8番
  • クルマでの行き方:山陽自動車道「福山東IC」「福山西IC」より約20分、「福山SAスマートインターチェンジ」より約15分
  • 駐車場:ふくやま美術館、ふくやま文学館の駐車場を利用(普通車98台)
  • 電車での行き方:「JR福山駅」北口より徒歩5分
  • 詳しくはこちら「福山城博物館−福山市ホームページ

参考書籍+オススメ書籍

  • 新版福山城(付 城背地域):福山市文化財協会発行