突然ですが、2007年にiPhoneが発売されて10年以上になります。
iPhone以前と以後で、携帯電話・スマートフォンの形ががらりと変わりました。
携帯電話・スマートフォンの歴史はiPhone抜きでは語れないほど、与えた影響は大きかったと思います。
お城の歴史のなかにもiPhoneのように、そのお城の出現以前と以後でお城というものを根本的に変えてしまったものがあります。
それが豊臣秀吉の「大坂城」です。(現在は「大阪城」と書きますが、昔は「大坂城」と書いていました。)
大坂城以前と大坂城以後とのあいだには何があるのか。
そのポイントは1つ。
- 圧倒的な土木工事による地形を無視した城づくり
それではどうして豊臣秀吉はそれまでのお城(織田信長の安土城を含む)を凌駕する大坂城を築く必要があったのか見ていきましょう!
Contents
大坂城 略歴
- 1582年、本能寺の変ー京都で織田信長が死去
- 1583~85年、大坂城第1期工事(本丸、天守)
- ~1588年、大坂城第2期工事(二の丸、西の丸)
- ~1596年、大坂城台3期工事(惣構え)
- 1614年、真田丸築造
- 1614~15年、大坂冬の陣、夏の陣
- 1620~29年、江戸幕府2代将軍徳川秀忠により改築
- 1665年、落雷により天守焼失
- 1868年、鳥羽伏見の戦いの後、大坂城は旧幕府軍から新政府軍へ明け渡される。この前後に混乱のうちに出火し、御殿や櫓が焼失
- 1931年、昭和天皇即位記念行事として大坂城天守再建
豊臣秀吉はなぜ巨大な大坂城を築く必要があったのか?
まずは大坂城がいかに巨大かを比較してみましょう。
上?の写真は安土城と大坂城を同縮尺で比較したものです。
織田信長の安土城は石垣を用いていたのはお城の中枢である本丸、天守台および周りの二の丸、三の丸だけでした。
では秀吉の大坂城はどうだったかというと、石垣を用いていた部分は本丸および二ノ丸、西ノ丸でした。
では安土城と大坂城の石垣部分を比べてみると圧倒的に大坂城が大きいことです。大坂城の二ノ丸、西ノ丸で安土山と変わらない大きさがあります。
そして石垣そのものの高さも秀吉の大坂城が高かったです。
秀吉は飽き足らず大坂城をさらに大きくしていきます。
秀吉が亡くなる2年前の1596年まで工事を続けます。
三ノ丸を築き、東堀川を掘削し、南側にも堀と土塁を備えた惣構えを築いていきました。
ではどうして秀吉は信長の安土城をはるかに超える大坂城を1583~1596年の13年もの時間をかけてまで築いたのでしょうか??
秀吉はかなり無理をして大坂城を築城していた!?
豊臣秀吉が大坂城を築き始めたのは1583年8月。
1582年に「織田信長」が本能寺の変で亡くなってからまだ1年しかたっていませんでした。
大坂築城開始の半年前、織田家重臣の「柴田勝家」・信長三男の「織田信孝」を賤ケ岳の戦いで破ったものの、まだまだこの時期は信長亡き後、誰が天下人になるかわからない状況でした。
1585年、秀吉は信長次男の「織田信雄」とそれを支援する「徳川家康」と対峙することになります(小牧・長久手の戦い)。
最近の研究ではこの戦いは、秀吉と信雄・家康だけの対立ではなく全国規模で戦国大名が秀吉側と家康側に分かれて対峙していたことがわかってきました。
秀吉はこうした緊迫した状況の中大坂城の築城工事を進めていました。(秀吉が大坂と戦場である小牧を何度も行き来していたと記録に残っています)
この頃の秀吉の領地はおよそ400万石。
1万石あたり250人の兵士を動員していたといわれるので、「400×250=100,000人」なので秀吉の動員できる兵士は約10万人。
しかし、秀吉は小牧・長久手の戦いで10万人を動員しているといわれており、この人数には大坂城築城に必要な人数は入っていないと思われます。
秀吉は緊迫した情勢の中でもかなり無理をして大坂城築城を進めていたことがわかります。
大坂城は信長を超えるために必要だった!?
ではどうして秀吉はかなり無理をしてまで巨大な大坂城を築城しなければならなかったのでしょうか?
その理由は2つにまとめられます。
- 秀吉は織田家家臣でありながら、主君信長の次男三男と対立した謀反人であること。
- もともと武士ではなく農民であり、父や祖父の代から仕えてきた家臣がいないこと。
最初に「1」について。
まず秀吉は織田家から天下を横取りした謀反人です。
三男信孝は柴田勝家と手を組み賤ケ岳の戦いで、次男信雄は徳川家康と手を組み小牧・長久手の戦いで秀吉に敗れます。
当時秀吉は本能寺の変後の混乱に乗じて、織田家を横取りした謀反人と思われていました。
だから柴田勝家や徳川家康は信長の次男三男と手を組み秀吉と対立したのです。
明らかに信雄・信孝が跡を継ぐ正統性があったからです。
次に「2」について。
豊臣秀吉は農民から天皇の補佐役である関白まで昇りつめた男です。
もともと武士ではなかったので、父や祖父の代から仕えていてくれる家臣というのはいませんでした。
黒田官兵衛や前田利家など秀吉自身に好意を持っていて協力的な大名もいましたが、天下統一の過程で、他の大名を実力で従えていかなければなりませんでした。
しかし秀吉の弟・豊臣秀長という有能な補佐役はいたものの、徳川家康の徳川四天王(榊原康正、酒井忠次、本多忠勝、井伊直政)のような譜代家臣はいませんでした。
「1,2」のために秀吉と豊臣政権の権力基盤はとても脆弱でした。
権力基盤が脆弱なためいつ誰に裏切られるかわからない。
それ故、秀吉および豊臣政権は極度に中央集権的な「軍事独裁政権」になっていったのである。
軍事独裁政権として他の大名を従え反発する気を失わせるためにも、豪華絢爛なだけでなく当時最新の軍事思想と技術で大坂城を築く必要があったのです。
そのため、秀吉は大坂城が完成すると積極的に他の大名に公開していきました。
秀吉自身が大坂城を案内し、天守の最上階から大坂の街を見せたと言われています。
それまでの戦国時代ではお城の構造や天守は最高機密で絶対に漏らしてはいけないものでした。
しかし、秀吉は自ら大坂城を披露することで豊臣政権の軍事力および経済力を他の大名に見せつけ知らしめたのです。
そして、天下人織田信長の後継者であることを世の中に知らしめるため安土城を織田信長を超えるお城が必要だったのです。
この時代、軍事力はお城に象徴されます。
秀吉は大坂城を築くという行為によって自身の求心力を高め、他の大名を超越した存在であることを明らかにしていきました。
なぜ大坂城は大坂でなければいけなかったのか!?
秀吉は織田家から権力を奪った謀反人であり、農民の出であることから古くから仕える家臣はいませんでした。
それ故、秀吉と豊臣政権の権力基盤は脆弱でした。
そこで、秀吉は朝廷に接近し朝廷および天皇の権力を利用するようになります。
そして1585年に関白に就任します。
なぜ朝廷はわざわざ元農民の秀吉を関白にする必要があったのか?
それには大坂という土地が関わってきます。
当時の瀬戸内海は日本の大動脈とも言えるような重要な交易ルートでした。
中国、朝鮮やスペイン・ポルトガルの船が瀬戸内海を通って終点の大坂までやってくるのです。
そして大坂で船を替え、淀川を利用し京都まで物資を運送していました。
こうして当時の京都の経済・流通は成り立っていました。
秀吉が大坂城で京都の喉元を抑えていた!
朝廷にとって厄介な問題が起きました。
秀吉が大坂に大坂城を築城してしまったのです。
どうして厄介なのかというと秀吉が大坂を治めることで自然と京都への物資輸送を管理することができてしまいます。
なので京都の経済・流通を大坂の秀吉が掌握してしまったも同然だったからです。
しかし朝廷は秀吉と対抗しようにも武力を持っておらず、従うしか道はなかったのです。
もともと権力基盤が脆弱だった秀吉と豊臣政権は京都の経済を掌握することで、朝廷さえ従えていきました。
そして関白という位と権力を得て、天下統一に利用していったのです。
この後、秀吉は京都に聚楽第、伏見城を築いていき、京都を直接支配していくことになります。
スポンサーリンクまとめ
大坂城以前のお城はまず攻められにくい土地・地形を優先してお城を築く土地を決めていました。
そして土地選びの巧さ、地形利用の巧さ(谷や斜面を利用し最低限の工事で最大限の防御力が発揮できるよう)がそのままそのお城の防御力につながっていきました。
地形を利用することは地形に制約されることでもあり、その点を大坂城は地形さえも大規模に改変し、建築物と融合させ複合的な強靭さを発揮できるようになりました。
この点が大坂城以前のお城と大坂城との決定的な差でした。
(織田信長の安土城はお城そのものは古典的な山城で、天守や石垣など最新技術は用いられているが使用範囲は限定的である)
秀吉は権力基盤が弱かったために従来のお城をはるかに凌駕する大坂城を大坂に築くことで、経済・政治・軍事を上手く掌握して天下統一へと進んでいきました。
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