今回は城攻めでの「奇襲(きしゅう)」について解説していきます。
奇襲は、敵の予期しない時期・場所・方法により組織的な攻撃を加えることにより、敵を混乱させて反撃の猶予を与えない攻撃方法をいう。Wikipedia「奇襲」より
奇襲は敵の油断をついて攻撃することで、劣勢な立場であっても大軍を撃破することが可能な戦法です。
戦国時代での奇襲というと、織田信長の「桶狭間の戦い」や北条氏康の「川越城の戦い(川越夜戦)」が有名なところ。
川越城の戦いについてはこちら🔽
「関東新旧交代! 川越城の戦い(川越夜戦)」
桶狭間と川越の2つの戦いは、野戦(お城じゃない原っぱなどでの戦い)であったりお城を守っている側による奇襲が行われた戦いで、今回はお城を攻める側から見た「奇襲」について解説していきます。
戦国時代の城攻めを知ることで、よりお城巡りが楽しくなります。機会があったら、攻める側の武将目線でお城を観察してみてください。
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城攻めで奇襲を成功させるためのポイント
もう一度、奇襲についておさらいすると、「相手の油断、不意をついて思いがけない時間・場所・方法で襲うこと、不意打ち」でした。
ここから城攻めでの奇襲にはいくつかのパターンがあることがわかります。
思いがけない「場所」か「時間」か「方法」で攻撃するか、それらの組み合わせで攻撃することです。
- 思いがけない場所とは、普通はお城の正面から攻めるところを背後から攻めたりすること。
- 時間の場合は、夜や明け方に敵が寝ていたり準備が整っていない時間帯に攻撃すること。
- 思いがけない方法とは、お城の内部に内通者(裏切り者)がいて門を開けてもらうなど手助けしてもらうこと。
奇襲を成功させるためには重要なポイントがあります。
「敵城内の情報を事前に仕入れておくこと」です。
奇襲は思いがけない攻撃をすることで、敵を混乱させ反撃の猶予を与えない戦法でしたね。
反撃の猶予を与えないためには、攻撃する側としては迅速に目標を達成しなくてはいけません。
(例えば本丸を制圧する、指揮官を倒すなど)
迅速に行動するために、敵のお城内部の情報をできる限り知っておく必要がありますね。
(例えば、本丸はどこにあるのか、本丸への最短経路は?、指揮官はどこにいるのか、敵が一番油断しやすい時間は?などなど)
何も情報もないまま攻めても、反撃を受ける可能性が高まります。
情報収集と味方への周知徹底という事前準備をしているかが、奇襲が成功するかどうかの別れ目になります。
ここからは奇襲の3つのパターン「場所」、「方法(内通者)」、「時間」それぞれの方法で行われた城攻めを見ていきましょう。
スポンサーリンク奇襲パターン その1 予期せぬ場所から攻撃 犬山城の戦い(1584年)
1584年の犬山城の戦いは、織田信長の次男・信雄(のぶかつ)と徳川家康が協力して豊臣秀吉と戦った「小牧・長久手の戦い」の一部として行われた戦い。
この犬山城の戦いでは、予期せぬ場所から攻撃することで奇襲を成功させた戦いでした。
カンタンに戦いの経過を見てみましょう。
織田信長が死んだ本能寺の変のあと、信長後継者の地位を固めようとする秀吉に、信雄・家康が警戒心を抱いていました。
1584年3月6日、信雄が親秀吉派だった家臣3人を殺害することで、両者の対立が決定的になり戦いは避けられない状況に。
戦いが避けられない状況になって、先に動いたのは秀吉でした。まず信雄の領地・伊勢を攻めていきました。
この時犬山城は信雄の支配下にあって、中川雄忠という武将が城主をつとめていました。そして中川雄忠は信雄の家臣ということで、伊勢へ援軍として出陣中でした。
この城主が出陣中という隙をついたのが、当時大垣城(岐阜県)の城主で秀吉派だった池田恒興(つねおき)です。
3月17日、池田恒興は夜中に犬山城と木曽川対岸になる鵜沼(うぬま)(岐阜県各務ヶ原市)に兵を集結させました。
そして木曽川を船で渡り、本丸と木曽川の間にある水の手口から犬山城へ侵入。犬山城の城兵は奇襲に対応できずに落城してしまいます。
同じ日に家康は信雄の本拠地の清洲城へと入っていました。
池田恒興の犬山城への奇襲でポイントは以下の3つです。
- 犬山城は木曽川を天然の堀としていて、そこから攻められるとは考えていなかった。
- 恒興は事前に犬山城が手薄になっているという情報を手に入れていた。
- 家康が戦いと同じ日に清洲城へと入っていたけど、恒興は家康が来る前のチャンスをモノにした。
恒興は先手を取って犬山城を奪ってしまうことで、秀吉軍が木曽川をラクに渡れる状況を作りました。
(川を渡るためには浅瀬を歩いて渡るか、舟で渡るしかありません。数万の兵がすべて渡りきるには数時間もかかり無防備な状態になるため)
もし仮に犬山城を奪っていなかったら、秀吉と信雄・家康は木曽川を挟んでのにらみ合いになっていたかもしれません。
こうなってしまうと短期間で決着をつけることは難しくなってしまいます。
信雄・家康がいる尾張(愛知県)以外にも、四国や北陸に秀吉に敵対する大名がいました。そのため秀吉としては合戦が長期化することは避けたかっただろうし、池田恒興が先手を取って犬山城を奪ったことはたいへん助けになりました。
スポンサーリンク奇襲パターン その2 内通者がいる 稲葉山城の戦い(1567年)
1567年の稲葉山城(現・岐阜城)の戦いは織田信長が美濃(岐阜県)を支配していた斎藤氏を追いやった戦いです。
この戦いは敵の家臣のなかに内通者(裏切り者)がいることが一因となって奇襲に成功した城攻めです。
カンタンにこの戦いの経過を見ていきましょう。
信長は尾張(愛知県西部)を統一した後、美濃へ攻撃をくり返していました。
美濃を支配する斎藤氏の代替わりなどをチャンスと見て攻撃するも、斎藤氏の家臣の結束が強くなかなか結果が出せずにいました。
しかし、斎藤氏の代替わり後の若い当主・龍興と家臣との間に不和が生じていました。そして、竹中半兵衛(のちに秀吉の軍師になる)よって斎藤氏の本拠地だった稲葉山城が乗っ取られるという事件まで起きていました。
信長はこの事件をキッカケに斎藤氏家臣に織田家へと寝返るように切りくずしを始めます。
そして1567年8月1日に、斎藤氏の中心的な家臣だった西美濃三人衆(安藤、氏家、稲葉)が信長へと寝返りを申し出てきました。
ここから信長の行動は早かった。西美濃三人衆は寝返りの証として人質を信長の元へと預ける約束しました。しかし信長は人質を受け取る前、その日のうちに出陣し、斎藤氏の本拠である稲葉山城を包囲するという行動力。
斎藤氏側は中心的な家臣が3人も同時に信長側へと寝返ったことで動揺し、対応策が取れないでいました。
斎藤氏は対応策を決められないまま、次の日、8月2日に稲葉山城は落城し、信長は美濃を支配下に置くことになりました。
信長の稲葉山城への奇襲でのポイントは3つあります。
- 信長はチャンスと見るとすぐに行動にうつす。
- いつでも行動にうつれるよう、事前の準備をバッチリにしておく。
- 行動が早いので、的に対応策を取る・練る時間を与えない。
信長は斎藤氏の家臣の結束が強く力攻めでは結果が出ないことから、家臣の切り崩しへと方針を変えていました。
家臣への切り崩しが成功したとしても、その後時間の余裕を与えてしまっては敵に体制を整えられてしまいます。
(不利だとわかれば、食糧を城内に備蓄するなど立てこもるための準備をするかもしれません)
しかし信長は余裕を与えずチャンスには全力で攻めていくことで、かえって損害を少なくしていました。
スポンサーリンク奇襲パターン その3 予想外の時間帯に攻撃 海ノ口城の戦い(1536年)
1536年の海ノ口(うんのくち)城の戦いとは、武田信玄の初陣として知られる戦いです。
武田信玄はこの戦いで予想外の時間帯に攻撃することでこのお城を攻め落としています。
ではカンタンに戦いの経過を見ていきましょう。
1536年11月、16歳だった信玄(当時は晴信)は父・信虎に従って信濃(長野県)の海ノ口城を攻めていました。
海ノ口城を守る武将・平賀源心は武田軍が攻めてきていることを知ると周辺の大名に支援を求め、籠城する体制を整えていました。
信玄の父・信虎は8000の兵で海ノ口城を攻めるも、なかなか落城させられないまま時間だけが過ぎていきました。
お城を包囲してから1ヶ月が過ぎた頃、年末になり雪も降り出したことから信虎は退却を命じました。
この時、信玄は殿(しんがり・敵の攻撃を防ぎながら味方の退却を支援する部隊)を申し出て、任されました。
しかし武田軍が退却していく中、信玄は海ノ口城へと引き返していきました。
その頃海ノ口城では、支援に来ていた大名たちは自分のお城へと帰り、兵士たちはもう年内には武田軍は来ないと思って、正月の準備を始めていたと言います。
そして信玄は夜中に海ノ口城へ攻撃を開始します。城壁をよじ登り、乱入。寝込みを襲われた兵士たちは右往左往し、武将の平賀源心も討ち取られてしまったため、抵抗できずに落城しました。
この信玄の海ノ口城の戦いでのポイントは3つあります。
- 敵が武田軍が退却して、勝利したと油断していたこと。
- 敵が油断するだろうと、信玄が敵の心情を予想していたこと。(もしくは油断している情報を得ていた)
- 敵の意表をつく効果が一番高い時間帯・夜に攻撃したこと。
信玄は敵の立場に立って考えることで、敵の心情を読み解き油断するであろうと予想しました。
そして奇襲を最も成功させやすい時間帯・夜に攻撃することで奇襲を成功させました。
夜に攻撃すれば奇襲を成功させやすいことは間違いないですが、暗い中で敵味方入り乱れて戦うことは同士討ちの危険性もあります。
同士討ちを避けるためにも、そして敵の武将を素早く討ち取るためにも、普段から訓練を怠らずに準備しておくことが重要でした。この点でも、信玄の部隊は奇襲を成功させるポイントをおさえていました。
奇襲のまとめ、メリットとデメリット
ここでは奇襲によるメリットとデメリットをまとめました。
少ない兵でも、相手に致命的なダメージを与えることができる。
(武将を討ち取る、本丸を占拠するなど)
一度で致命的なダメージを与えなければ意味がない。
たとえ兵士の数が多くても、守りに強いお城に立てこもっていても、指揮官となる武将を討ち取られてしまったり本丸を占拠されてしまっては戦いになりません。
奇襲とは敵の意表をつくことで混乱させ致命的なダメージを与える戦法でした。しかし奇襲を成功させるためには事前の準備が不可欠でした。
武将のいる場所や本丸の位置とそこへの最短経路の情報や、夜の戦いになっても同士討ちをしないために訓練を積んでおくことなど。
信長や信玄など奇襲を成功させて来た戦国武将は、相手の立場に立って最も嫌がることを想像し、事前の準備を怠らず、素早く行動してきた人たちだったのです。
奇襲を失敗した場合、敵は防御体制を整え油断もしてもらえなくなります。なので奇襲は一度きり、二度目のない戦法でした。