今回は「桶狭間の戦いとお城」を紹介します。
桶狭間の戦いは織田信長が一躍日本全国へ名前が知れ渡った戦いです。
信長の奇襲攻撃で知られる桶狭間の戦いだけど、戦いの中でお城が重要な役割をはたしていたことがわかってきました。
この記事では下記のポイントを解説しています。
- 桶狭間の戦いの成り行き・経過
- 桶狭間の戦いのその後
- 織田信長・今川義元の勝因・敗因
この記事を読んでもらうと、桶狭間の戦いにお城がどんな役割を果たしたのかがわかります。
Contents
桶狭間の戦いってどんな合戦なの?
桶狭間の戦いは今から約460年前、1560年に愛知県で起きた織田信長と今川義元による合戦。
このころの織田信長はまだまだ若い26歳。織田家を継いでから9年で、ようやく尾張(愛知県西部)をまとめあげることができたところ。
対する今川義元はこのとき41歳。戦国大名として実力・経験ともに十分備わっていて、信長と違って自分の領地(駿河・遠江・三河、静岡県と愛知県東部)をしっかり支配できていました。そして義元は信長のいる尾張を支配下にしようと企んでいました。
信長と義元の間で小競り合いがあり、これに決着をつけるために義元が尾張へと出陣していって桶狭間の戦いへと繋がっていきます。
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桶狭間の戦いに至るまで
信長の父・信秀のころから今川義元と争っていた
信長の父親・織田信秀はもともと家臣という立場だったけど、主人を上回る実力と影響力を獲得していきました。そしてその影響力は尾張全域に及んでいて、隣の三河へと攻めていきます。
そのころの三河では徳川家康のおじいちゃん・松平清康が三河を支配していました。しかし清康は家臣によって暗殺されてしまいました。清康の跡を継いだのが松平広忠(家康の父親)。広忠は家康(当時は竹千代)を今川義元の元へと人質として送り、今川の力を借りて三河での体制を整えようとしていました。
しかし広忠も早くに亡くなってしまいます。そこで義元は三河へ家臣を派遣して、実質的に三河を今川家の領地へと組み込んでいきました。
信秀VS松平広忠だったのが、信秀VS義元へと変わって尾張と三河の間で争いが続いていきます。
信秀の死によって変わったパワーバランス
信秀も病気で若いうちに亡くなってしまいます。41歳でした。そして信秀の跡を継いだのが信長でした。
しかし尾張は信秀が力で強引にまとめていた部分もあって、信秀が亡くなるとバラバラになっていきました。中には敵の今川義元へ寝返る者もいました。跡を継いだ信長はまずは尾張の統一を優先して、同じ織田家の身内とも争っていきます。
1555年に織田信長側だった鳴海城(名古屋市)の山口教継が義元側へと寝返る事件が起きました。教継が周辺の大高城(名古屋市)と沓掛城(豊明市)も攻略してしまいます。
山口教継が寝返ったことで、今川家の影響力が尾張の中心部まで入り込むようになっていきました。
今川義元の狙いとは?
尾張の統一へメドをつけることができた信長は今川義元へ反抗に移ります。
今川へと寝返っていた山口教継の鳴海城と、教継によって奪われていた大高城を信長は付城を築いて包囲したのです。
付城とは、攻撃の拠点として敵のお城の近くに造ったお城のこと。付城を造ることで敵のお城を監視したり、食糧や武器の補給を妨害する役目もありました。
信長は大高城に対して丸根砦、鷲津砦、正光寺砦、氷上山砦、向山砦を、鳴海城に対しては丹下砦、善照寺砦、中島砦を築いて、それぞれ包囲。
これまで桶狭間の戦いで今川義元は上洛すること(京都へ行くこと)が目的だったと言われてきました。しかし義元の領地(駿河・遠江)と京都との間にある美濃や近江の戦国大名に領地を通らせてもらうやりとりを、義元がしていた形跡がありません。途中の大名たちと合戦をしながら進んでいくというのは現実的ではないので、上洛が目的だったというのは否定されています。
では桶狭間の戦いでの義元の狙いはなんだったのでしょうか?
1つ目は信長によって包囲されてしまった大高城・鳴海城を開放すること。2つ目は信長軍を合戦で打ち破って、尾張での今川の影響力を強めたい、なんなら自分の領地にすることでした。
桶狭間の戦い 本番
今川義元の行動
信長によって大高城と鳴海城が包囲されたことを知った今川義元は、1560年5月12日、自ら駿府を出陣。
義元は5月18日には尾張と三河の国境近くの沓掛城に入りました。
翌19日、今川軍は一斉に大高城を包囲している丸根砦と鷲津砦を攻撃。両方とも陥落させています。そして付城がなくなって解放された大高城へ向かって、義元は沓掛城を出発していきました。
義元は大高城へ拠点を移して、残る鳴海城の解放を目指していきます。
義元は大高城へと向かう途中、昼休憩を桶狭間山で取っていました。
織田信長の行動
今川義元が駿府を出発して沓掛城へ入った頃、信長は清洲城へ家臣を集めていました。
家臣たちは今川軍がやってくることに危機感を抱いていて、軍議をして対策を練ることを信長に求めていました。しかし信長はスパイによる情報漏れを警戒して、軍議を開きませんでした。
信長は今川軍によって丸根砦、鷲津砦が攻撃を受けている知らせを受けると、数人の家臣だけを連れてすぐに清洲城を出発したと言います。その後、熱田神宮で戦勝祈願をするとともに、後続の兵をまっていました。
その後、信長は鳴海城を包囲している丹下砦・善照寺砦をへて、中島砦へ移動していき、中島砦で兵をまとめていました。
桶狭間の戦い 決着
信長が中島砦にいた頃、義元が沓掛城を出て大高城へ向かっている知らせが届きます。この知らせを受けて信長は中島砦を出て、義元のもとへ出陣していきました。
信長が桶狭間山へ向かうと、突如豪雨に見舞われます。桶狭間山の上で休憩していた義元はたまらず山を降りたと言われています。
この豪雨は短時間で止み、雨があがった頃、信長軍は義元軍へ攻撃を開始。
信長はこの時義元は馬ではなく輿に乗っているという情報を掴んでいました。信長は輿の発見に全力を注ぎ、そして輿が発見されるとそこへ集中的に攻撃を仕掛けていきます。
義元の本陣は信長軍に集中的に攻撃されたので、抵抗しきれずに義元が討ち取られてしまいました。大将を失った今川軍は混乱状態になって、駿河へと退却していきました。
桶狭間の戦い その後
桶狭間の戦いでは、まだ10代だった徳川家康も今川軍として参戦していました。義元が信長によって討ち取られた頃、家康は大高城を守っていました。義元が討ち取られたことを知った家康は、岡崎城へと退却していきました。
岡崎城へと撤退した後の家康は、義元の後継者・今川氏真に義元の弔い合戦を進言。しかし氏真は弔い合戦を拒否。氏真は義元の死によって混乱している領地の安定化を優先しました。
今川家からの圧力が弱まったのを機に、家康は独立。名前も「松平元康」から徳川家康へと改名しています(元康の元は義元からもらった字)。この後、家康は信長と同盟を組んで、三河の統一を目指していきます。
桶狭間の戦いに勝利した信長は、独立した家康と同盟を組むことで東からの攻められることはなくなりました。そして信長は尾張の北に位置する美濃の戦国大名・斎藤氏との争いに集中していきます。
スポンサーリンク桶狭間の戦い 勝因と敗因
織田信長の勝因
ここでは信長の勝因を考えてみましょう。信長の勝因には下記の2つが挙げられます。
- 尾張を統一するまでは今川との戦いは回避していた
- 大高・鳴海城包囲は今川軍をおびきよせる囮で、敵が来るのを待っていた
信長の父・信秀の死によって分裂した尾張を再統一するまで、信長は今川との戦いを回避していました。まだ信長周辺が不安定な状況では今川義元を相手にするのは不利と信長は判断したのでしょう。
そして尾張をまとめた後の信長は、今川に一方的に攻められた訳ではなく、信長の方からの挑発行為も行われていました。
大高城・鳴海城への付城も挑発行為の一つ。
戦国大名は家臣や自分に従ってくれている者のお城を救いに行かなくてはならなかった。なぜかというと、大高城や鳴海城のように敵国に近いところにいる武士は自分たちを守ってくれる大名なら、どちらの味方でも良いと考えていたからです。義元が救ってくれなかったら、信長へ寝返るだけでした。
義元からすると、「義元は危機に陥っている者・城を救ってくれない」という噂が出ると、義元の信用がガタ落ちしていって、寝返りが頻発するようになるので、家臣は全力で守らなくてはいけなかった。
なので信長は付城で相手のお城を包囲することで、今川軍が出てくることがわかっていました。そして信長にはホームグランドである尾張で今川軍との合戦を優位に進める戦略がありました。
今川義元の敗因
今川義元の敗因としては、下記が挙げられます。
- 当日、義元は輿に乗っていたこと
- 初戦に勝利し、兵が乱取り(略奪)に出ていたので義元本陣が手薄になっていたこと
- 豪雨を避けるために桶狭間山から降りていたこと
義元は馬ではなく輿に乗っていたので、太りすぎていて馬にも乗れないダメな武将などと言われてきました。しかし、義元が乗っていた輿は将軍・足利義輝からの許可がないと乗れないもの。なので義元は将軍のお墨付きを得ていることを表すために輿に乗って、織田軍を威嚇するつもりでした。
しかし輿に乗っていたことが、信長軍に義元のいる位置を教えてしまい、素早く退却することを妨げてしまいました。
さらに豪雨のために桶狭間山から降りていた義元軍は、谷間にいて行動を制限されてしまい、大軍のメリットを生かせないまま義元が討ち取られてしまいました。
スポンサーリンク桶狭間の戦い まとめ
今回は桶狭間の戦いをお城という観点から考えてみました。どうでしたか?
「敵のお城を付城をつくって包囲することで、信長にとって有利な場所(尾張)へ敵をおびき寄せる」というのが、信長の戦略でした。
信長が義元を討ち取ることまで考えていたのかはわかりませんが、少ない兵数でも主導権を握って有利に戦いを進めていく算段はついていたんじゃないかと思います。
- 織田信長の父・信秀のころから今川義元と争っていた
- 桶狭間の戦いは信長が大高城・鳴海城を包囲したことから始まった
- 戦国大名は従ってくれている家臣たちを見捨てることはできなかった
- 信長は敵のお城を包囲することで、有利な場所へ敵をおびき寄せる戦略だった
今回の内容を覚えておいて、歴史ドラマや小説を鑑賞したり、桶狭間古戦場公園周辺を散策するのも楽しいですよ。