今回はお城の歴史「幕末・明治維新編」です。
平和な江戸時代が終わりに近づき、250年ぶりにお城が活躍する時代がやってきます。
戦国時代のお城と幕末のお城では建てられた目的が違います。
戦国時代や江戸時代初期に建てられたお城の目的は、あくまで大名それぞれの領地を守るために建てられました。
誰から守るかというと、ほかの大名や幕府から。
そして幕末に建てられたお城の目的は、日本という国・領土を守るために建てられました。
誰から守るかというと、外国から。特にイギリス、フランスやロシアといったヨーロッパ諸国。
目的が違いや鉄砲・大砲の進化によってお城の作り方にも戦国時代と幕末では違いが出てきます。
- 最後の日本式お城・松前城は大砲を備えたお城だった!
- 五稜郭は未完成のお城だった。
- 戊辰戦争に巻き込まれたお城たち
それではさっそく、お城の歴史「幕末・明治維新編」を見ていきましょう。
Contents
最後の日本式お城・松前城
戦国時代からヨーロッパの船は日本へやってきていましたが、その頃はやってくる数も多くなく、日本も鎖国をすることができました。
その後、技術が発達して蒸気船ができ安定してそして速く日本まで来ることができるように。
蒸気船によって世界のつながりがより密になっていき、ヨーロッパから遠くにある日本もこの流れに飲み込まれていきます。
1800年前後から日本周辺にもヨーロッパの船がたくさんやってくるようになり、北海道へ不法上陸するなどの事件が起きるようになり江戸幕府も危機感を募らせていきました。
そして、海防強化(日本の領土(港など)を守るために)の目的で、北海道に「松前城」が建てられます。
「松前城」には戦国時代にはなかった、1つの大きな特徴があります。
それはお城に砲台があることです。
そしてその砲台は海へ向けられていました。すなわち外国船を狙っていました。
(お城から船を砲撃するって戦国時代にはありえなかった戦いだ笑)
松前城は津軽海峡に面していて、海から近い場所に建てられ、津軽海峡を航行する船を監視していました。
松前城には7つの砲台があり、すべて海を向いていました。
そして、松前城が闘いの舞台となるときがきました。しかし相手は外国船ではなかった。
戊辰戦争(薩摩藩や長州藩などの倒幕派と旧江戸幕府のあいだの戦い)も佳境に入った頃、函館の五稜郭を占領した旧江戸幕府軍に協力を要請されます。
松前城をもつ松前藩は戊辰戦争のときは新政府(薩摩藩や長州藩)側の立場を表明。
その結果、土方歳三率いる700の兵と「回天」「蟠竜(ばんりゅう)」という旧江戸幕府軍がもっていた軍艦が松前城へと向かってきました。
土方歳三率いる700の兵と軍艦2隻から陸と海と両方から松前城は攻撃されました。
松前城は海の近くに築かれていたため、海上からの攻撃に弱かったのです。
松前城側も城内外に37門もの大砲を備え反撃したが、敵の侵入を防ぐことはできず落城してしまいます。
旧江戸幕府軍のものとなった松前城。翌年、新政府軍の攻撃によって再び落城してしまいます。
スポンサーリンク五稜郭は未完成のお城だった!!
北海道にあるお城というと「五稜郭」を思いうかべる人も多いのではないでしょうか!?
そんな観光スポットとして有名な「五稜郭」ですが星の形をしていることが五稜郭の最大の特徴です。
なぜ星の形をしているのかというと、「死角をなくすため」。
死角がないということは攻める側からすると、どこにいても狙われてしまう。
五稜郭のような星形のお城は鉄砲での防御が前提で、鉄砲が発達したヨーロッパで考え出されました。
しかしそんな五稜郭にも欠点がありました。
五稜郭で星形の外に出ている三角形の部分を「半月保(はんげつほ)」といいます。
半月保は五稜郭の防御力を強めるとともに、お城への出入口を強固なものにしていました。
当初、半月保は5つ作られる予定で、堀の外側にも土塁を築く計画をしていました。
しかし江戸幕府の財政難から堀の外側の土塁は築かれず、半月保は1つしか作られませんでした。
そのため、五稜郭の防御力は中途半端なものになってしまいました。
五稜郭はもともと大砲による攻撃を想定していたので、城内に櫓や天守のような大きな建物は標的にされてしまうので築きませんでした。
しかし戊辰戦争のときに、函館奉行所の屋根に乗っている太鼓櫓が軍艦の大砲の標的とされてしまい、旧幕府軍はあわてて取り外したものの射撃角度がしられてしまったためお城としての機能は半減するという結果に。
その後、半年に渡る戦いののちに五稜郭は新政府軍に降伏しています。
スポンサーリンク戊辰戦争に巻き込まれたお城
1867年王政復古の大号令によって新政府が誕生、最後の将軍・徳川慶喜に対して辞官納地(朝廷における役職の辞退と徳川家の領地を朝廷へ返還すること)を求めます。
これには当然旧江戸幕府軍が反発。新政府と旧幕府軍との間で戦闘が起きてしまいます。(鳥羽伏見の戦い)
旧幕府軍は鳥羽伏見の戦いで負け、新政府軍は江戸へ向けて進軍を開始。江戸城での戦闘は回避され新政府軍に明け渡されます。
その後は、朝敵(天皇に敵対するもの)とされた会津藩・庄内藩を中心とした東北諸藩が奥羽越列藩同盟を結成し、新政府軍へ抵抗します。
奥羽越列藩同盟を結成した東北諸藩と新政府軍とのあいだで行われた戦闘が戊辰戦争の中心となったので、東北地方・北海道のお城が戊辰戦争の舞台となりました。
これらのお城はすべて新政府軍によって落とされています。
ほとんどのお城は新政府軍の圧倒的な兵力や武器・兵器の差によって負けてしまった。
そんななかでも会津若松城は戦国・江戸初期に建てられたお城でも十分戦えることを証明した戦いと言っていいでしょう。
会津若松城の戦い(会津戦争)
会津若松城は20メートルを超える高石垣を持っており、城外からの攻撃を寄せ付けなかった。
また、本丸とその周囲にある二の丸・西出丸・北出丸がお互いに連携し合い、城門へ殺到する敵兵を側面から攻撃することで1人として侵入を許すことはありませんでした。
会津若松城を攻めあぐねた新政府軍は、近くの山から城内が見えるということで、山の上に大砲を設置。
山からお城まで1500メートル。戊辰戦争の頃の大砲でこの距離は十分に狙える距離でした。
山の上から砲撃することでようやく会津若松城に被害を与えることができました。
会津若松城が築かれた江戸時代初期には1500メートルもの距離で命中させる大砲は存在していなかったので、戦国武将たちも想定外でした。
この砲撃によって天守にも被害が出て、天守だけでも数十発以上が命中しました。
昼夜を問わず、激しい砲撃を受けた会津若松城はそれでも1ヶ月ものあいだ攻撃を耐えしのぎ、降伏しました。
結果、会津若松城は降伏するわけですが、1ヶ月間の戦闘の中で、城内へは敵兵の侵入を許すことなく守り抜き、築城から250年を経た後でもお城の堅固さを証明した名城と言えるでしょう。
スポンサーリンク