今回は「富山城の歴史」を紹介します。
- 富山城の歴史をおおまかに知りたい人
- お城に興味を持ち始めた人
- 富山城へ行く前に予習しておきたい人
- 富山城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人
最初に富山城の歴史のポイントを3つ紹介します。このポイントのところだけ読んでもらっても、歴史の流れは掴めます。
- 上杉謙信も争った戦国時代の富山城
- 秀吉が10万の大軍で成政の富山城を包囲
- 加賀前田家の分家として富山藩が成立
富山城の歴史に詳しくなってお城巡りも歴史ドラマもゲームももっと楽しんでいきましょう!
Contents
富山城ってどんなお城?
神通川を天然の堀とした信長家臣・佐々成政のお城
まずは富山城がどんなお城なのか紹介します。
富山県の県庁所在地・富山市の中心にある富山城は神通川を天然の堀として利用して防御力を固めたお城でした。富山城は本丸・二の丸・西出丸・東出丸・三の丸の4つの曲輪で構成されたお城で、現在は本丸と西出丸が富山城址公園となっています。
富山城址公園には本丸と西出丸の南側の水堀と鉄御門跡の石垣、かつて東出丸にあった千歳御門などが残されています。
戦国時代、富山城のある越中(富山県)では織田信長や武田信玄のように自分の国(尾張や甲斐)を統一して、よその国へ侵攻していくような戦国大名は生まれていませんでした。そのため周辺の戦国大名の状況によって大きく歴史が動いてきました。
周囲に翻弄された越中において、富山城がどんな歴史をたどってきたのか、一緒に見ていきましょう。
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ここからは富山城の歴史を戦国時代〜昭和・平成まで順に紹介していきます。
戦国時代の富山城
上杉謙信も争った戦国時代の富山城
室町時代の越中(富山県)は畠山氏が「守護」を務めていました。室町幕府は守護を務める大名(守護大名)に地方の武士を従えるために、年貢の徴収権や裁判権など強力な支配権を与えていました。その守護大名の家臣が「守護代」として大名の代理人として実際に領地を支配していきました。
越中では椎名氏、神保(じんぼ)氏という守護代を務める家系が2つありました。戦国時代になると、椎名氏・神保氏はそれぞれ戦国大名として頭角を現して、守護大名の畠山氏をしのぐほどになっていきました。そして越中では椎名氏と神保氏が争っていきます。
神保長職(ながもと)が椎名氏との争いを有利に進めるために家臣に命じてお城を築かせました。このお城が富山城のはじまりでした。富山城築城からしばらくは神保氏のお城だったけれど、東の越後(新潟県)からやってきた上杉謙信の攻撃によって次第に劣勢になっていきます。
謙信の攻撃によって神保氏が弱っていたところ、一向一揆(浄土真宗の信徒が起こした抵抗運動)によって富山城が占拠されてしまいます。その後、神保氏ではなく、上杉謙信が一向一揆と講和を結んで停戦。しかし一向一揆が再び抵抗し始めたので謙信はこれを攻撃し、富山城を奪っています。
そして、謙信は家臣に富山城を任せて、越中を支配下に入れていきました。
信長家臣の佐々成政が富山城を大改修
上杉謙信が亡くなると、上杉家では後継者争いが勃発(御館の乱)。そのために、上杉家の越中での影響力は低下していきました。
そんな中越中へやってきたのが織田信長です。上杉謙信に押さえ込まれていた神保氏は、上杉氏への対抗から織田信長を頼っていました。
その後、織田信長は越中をほぼ制圧し、富山城へは家臣の「佐々成政」を入れています。
成政は富山城を大改修していて、堀をより深くし土塁や石垣を高くしていました。
秀吉が10万の大軍で富山城を成政の包囲
信長が本能寺の変で死ぬと、豊臣秀吉が力をつけていって天下人へなっていきます。佐々成政は力をつけていった秀吉と次第に対立するようようになっていきました。
信長次男の信雄も成政と同じように秀吉と対立。もともと織田家の家臣だった秀吉が信長の死後、主人である織田家を超える権力を手にしていったからです。そして信雄は家康とも手を組んで秀吉に対抗していきます(小牧・長久手の戦い)。
小牧・長久手の戦いでは、尾張(愛知県)での合戦が注目されますが、北陸でも秀吉陣営と、信雄・家康陣営に分かれて争っていきます。秀吉陣営は前田利家で、信雄・家康陣営は佐々成政。成政は利家と末森城(石川県)、鳥越城(石川県)などで一進一退の戦いを繰り広げました。
信雄と家康は長久手での合戦で秀吉軍に勝利していたけど、次第に秀吉の10万という大軍に圧倒されていきます。秀吉の圧力が強まる中、信雄がかってに秀吉と講和を結んで停戦してしまいます。これで秀吉と対立する大義名分を失って、徳川家康は戦いを継続できなくなりました。
信雄と家康の停戦に納得できない成政は、二人を説得するために真冬の越中から北アルプスの峠を越えて浜松へ向かっています(ザラ峠、標高2348m)。成政は家康と信雄ふたりに会うことはできたけど、戦い継続を説得することはできませんでした。
富山城へ戻った成政は一人で戦いを続けていきます。しかしながら成政は家臣がお城ごと前田利家に寝返ってしまうなど、次第に不利な状況になっていきました。さらに秀吉は戦いをやめない成政に対して、討伐を決定。10万の兵を従えて富山城へ向かっていきました。
富山城は神通川などに囲まれた攻めにくいお城でした。成政はこの富山城にすべての兵を集めて防御を固めていました。しかし連日の大雨で川が増水。富山城内は水びたしになって、合戦所ではなくなってしまいました。富山城を守るための川が裏目に出てしまったのです。
結果、成政は秀吉に降伏。織田信雄が秀吉に成政の助命嘆願をしたおかげで、命は助けられました。成政は領地を減らされるだけで済んでいます。そして翌年、成政は秀吉の命令で、領地替えのために九州へと移っていき、富山城は前田利家の領地となっています。
江戸時代の富山城
加賀前田家の分家として富山藩が成立
富山城は一時期取り壊されていたけど、江戸時代になって前田利長(利家の長男)が大改修して、隠居城としています。しかし富山城が火災で焼失してしまったため、利長は新たに高岡城(富山県)を作って移っていきました。
江戸時代も3代将軍・徳川家光の時代になった頃、加賀藩2代目前田利常(利家の四男)が幕府の許可を得て、次男・利次に富山城を与えて富山藩を作らせています。以降、明治まで利次の家系が富山を治めていきます。
利次が富山城を大改修。本丸や二の丸、東出丸・西出丸などの曲輪を整備していきました。
大名の住まいだった御殿は当初本丸に建てられていたけど、火事で焼失。その後は、東出丸に仮御殿を建てて移っていました。100年以上仮御殿のままだったけど、その仮御殿も焼失してしまい、再度本丸に御殿を建てていました。
幕末になると、10代目藩主・前田利保が東出丸に隠居のための御殿を建設。この御殿は千歳御殿と呼ばれていて、「善尽くし美尽くした」と言われるほどの豪華な御殿でした。しかしながら千歳御殿は完成からわずか6年で火事で焼失してしまいました。現在の富山城址公園に千歳御殿の門として使われていた千歳御門が現存しています。
明治時代の富山城
廃城令で富山城でも建物が取り壊される
明治時代になると、お城の役目も終わって廃城令が出されました。この廃城令によって、全国のお城で建物が取り壊されていきました。
富山城も例外ではなく、多くの建物が取り壊されました。そんな中、本丸御殿は富山県庁として、二の丸に建てられていた櫓御門は小学校としてそのまま利用されていきました。
現在、富山城址公園にある千歳御門は、明治に払い去れられていて近隣の豪農が買い取っていました。そのため戦災にあうこともなく現存していました。2008年に富山市へ寄付され、現在の場所に移築・保存されました。
県庁舎となっていた本丸御殿も火事のために焼失してしまい、その後は洋風建築で県庁舎を再建しています。
昭和・平成の富山城
富山城模擬天守が有形登録文化財に
昭和になるまでは、富山城跡は県庁舎と利用されて管理されていたので堀は埋められることなく残っていて、富山城の面影を残していたといいます。
しかし1962年までに堀は埋められていき、現在のように一部の堀だけが残されました。
1954年に富山で産業博覧会が催されることになりました。このときに鉄御門東側の石垣の上に、犬山城を参考にした模擬天守が建てられています。この模擬天守は博覧会終了後、郷土博物館になりました。
もともと天守がなかったお城に、架空の天守を建てたので「模擬」天守と呼ばれています。模擬とはいうものの、「歴史的景観に寄与しているもの」として2004年に模擬天守は国の有形登録文化財に指定されました。
富山城址公園では本来土塁だったところに石垣を築くなど、整備の仕方など問題が指摘されています。
スポンサーリンク富山城の歴史年表
1543 | 神保氏の家臣・水越勝重が築城 |
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1572 | 一向一揆勢が富山城を占拠 |
1576 | 上杉謙信が富山城を奪取。家臣に富山城を任せる |
1581 | 織田信長が越中をほぼ制圧 |
1582 | 信長は家臣・佐々成政を富山城に入れる 成政は富山城の改修を行う 本能寺の変で信長が亡くなる |
1585 | 秀吉が10万の大軍で富山城を包囲 佐々成政は秀吉に降伏し、富山城は取り壊された上で前田利家の領地となる |
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1605 | 前田利長が富山城を修築して、隠居城とする |
1609 | 火災によって富山城の建物が焼失 利長は高岡城を新たに築いて移る |
1639 | 加賀藩主前田利常は次男・利次に富山藩を作らせる |
1640 | 富山藩が成立 |
1661 | 前田利次は富山城を改修 |
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1714 | 本丸御殿が火事で焼失、東出丸に仮御殿を建てて移る |
1831 | 火事で東出丸の御殿を焼失、再度本丸に御殿を建てて移る |
1849 | 10代藩主利保が東出丸に隠居のための千歳御殿を建設 |
1855 | 千歳御殿が焼失 |
1871 | 廃藩置県 |
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1899 | 県庁舎として利用されていた本丸御殿が火事で焼失 |
1954 | 富山産業博覧会に際して模擬天守が建てられる |
2004 | 模擬天守が国の有形登録文化財に指定される |
2008 | 現存する千歳御門が本丸に再移築される |
富山城の歴史 まとめ
今回は富山城の歴史を紹介しました。いかがでしたか?
富山城は最初神保氏のお城として築かれ、その後は上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉と周囲の実力者に振り回されてきたお城でした。江戸時代には加賀前田家の分家として富山藩を支えてきました。
富山城に残されている遺構は少ないですが、千歳御門や鉄御門周辺の石垣が見どころの一つです。
最後にもう一度歴史のポイントをおさらいしておきましょう。
- 上杉謙信も争った戦国時代の富山城
- 秀吉が10万の大軍で成政の富山城を包囲
- 加賀前田家の分家として富山藩が成立
富山城へのアクセス
- 富山県富山市
- 電車・バスでの行き方:「JR富山駅」から徒歩10分、市内電車環状線(トラム)「国際会議場前」から徒歩2分
- 空港からの行き方:富山きときと空港から連絡バスで約20分、「城址公園前」下車
- 車での行き方:北陸自動車道「富山IC」より約15分、城址公園地下駐車場があります