お城の歴史

お城の歴史 【戦国時代①】巨大化していった山城とお城化したお寺

お城の歴史戦国時代①

今回は「戦国時代のお城」を紹介していきます。

こんな人にオススメの記事です
  • お城の歴史をおおまかに知りたい人
  • お城に興味を持ち始めた人

いよいよやってきました、戦国時代。
日本のお城は戦国時代に飛躍的に進化していきました。
それまでの室町時代、鎌倉時代と比較しても、規模、建物、技術、全てにおいて発展していきます。

戦国時代に進化したお城の中でも、今回は「山城」と「お寺」を取り上げます。
山城とお寺がどのように発展していったのでしょうか?
そんな疑問について解説していきます。

まずは3つのポイントを紹介します。

  • 巨大化していった戦国時代の山城
  • 山城に住まなかった戦国大名もいる
  • お城化していったお寺たち

それでは戦国時代のお城を紹介していきます。

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Contents

戦国時代ってどんな時代だったの?

応仁・文明の乱のあと、将軍・幕府の権威が弱まり実力がモノをいう時代に

戦国大名が各地に乱立していた戦国大名が各地に乱立していた

戦国時代とは、全国各地に戦国大名が乱立し、それぞれが領土拡大を目指して争っていた時代。

将軍の跡継ぎ争いから始まった応仁・文明の乱。この乱の後、幕府の権威は失墜していきました。将軍、守護大名という名前だけでは領地を統治することができず、実力がものをいう時代になっていきます。

室町時代には守護大名の多くは京都にいて、自身の領地を守護代という家臣に任せていました。実力のある守護代出身の武士は大名を押しのけて自ら領地を統治するようになり、戦国大名へと成長。
上杉謙信、越前(福井県)の朝倉氏などが守護代から戦国大名になりました。

守護大名がみんな京都で暮らしていたわけではなく、自分の領地にいたため応仁の乱に巻き込まれなかった大名もいました。
武田信玄の武田家や今川義元の今川家は甲斐、駿河にいました。そのため守護代に乗っ取られることなく、守護大名から戦国大名へと成長していくことができました。

そのほかにも、もともと地元に土着していた武士(国人領主・国衆)が実力で領地を広げていき戦国大名になるケースもあります。毛利元就や真田昌幸などが国衆・国人領主から戦国大名へと飛躍していきました。

ここで守護大名と戦国大名の違いをまとめておきます。
守護大名:室町幕府から任命されて、地方の国を統治
戦国大名:幕府からの任命はなく、勝手に領地を広げていき統治していた

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戦国時代のお城

巨大化していった戦国時代の山城

小谷城(滋賀県)小谷城(滋賀県)

戦国時代以前、室町時代の武士は平地に館を建てて生活していました。
武田信玄の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)や、今川義元の駿府館などがそうです。

しかし平地の館では防御力に不安があり、もし他の大名から攻められたときに守りきれません。そこで平地の館とは別に緊急時に逃げ込むお城「詰城(つめのしろ)」を作っていました。

緊急時にだけ山城に逃げこんで事態が収まるのを待てばよかった室町時代とは違い、戦国時代は争いが日常化していて、いつ争いが終わるのかがわかりませんでした。
なので武士たちは日常の生活も山城の中で行うようになり、緊急時の避難先だった山城が居住・政治・軍事の3つの機能を持つことになります。

戦国以前の山城はカンタンな防御設備しか持っていませんでした。が、戦国山城は櫓、石垣、屋敷をはじめ、大きな堀切や竪堀など恒久的な設備・施設を持つようになりました。
さらに大名の家臣たちも山城に屋敷を作ることで、戦国時代の山城はそれ以前の山城と比較してとても巨大なものになっていきます。

上杉謙信の春日山城(新潟県)、浅井氏の小谷城(滋賀県)、尼子氏の月山富田城(島根県)、毛利元就の吉田郡山城(広島県)などが巨大な戦国山城です。

毛利元就の吉田郡山城はもともと山の一角に作られた小さな山城でした。
それから毛利氏が中国地方で領地を広げていく過程で、比高190mの山全体に曲輪を作ってお城にしていきました。

吉田郡山城の変遷吉田郡山城の変遷

山城に住まなかった戦国大名もいる

信長が産まれたとされる勝幡城の推定復元模型信長が産まれたとされる勝幡城の推定復元模型

戦国時代は山城ブームでした。
山地の多い日本で、山の険しさをお城の防御力に利用しようとするのは自然なこと。それでも山城を拠点にしていなかった戦国大名もいました。

武田信玄や今川義元はそれぞれ平地の館を拠点にしていました。
しかし彼らは山城を本拠地にしていなかっただけで、山城を利用していなかったワケではありません。
信玄は要害山城を、義元は賤機山城(しずはたやまじょう)を詰城として利用していました。

また越前(福井県)の朝倉氏は一乗谷城の麓の城下町に屋敷を建てていました。
この城下町は山と山との谷間に作られていて、周囲から攻めにくくなっているのでわざわざ不便な山城に住む必要がなかったのかもしれません。

織田信長の織田氏は清洲城など平城を拠点にしていました。
織田氏は山城を作らなかったのではなく、彼らが活動していた尾張の大部分が平地(濃尾平野)だったために山城に適した山がそもそもありませんでした。

お城化したお寺たち

根来寺根来寺

戦国時代になると南北朝時代のようにお寺がお城として利用されていました。

お寺には瓦を使った建物もあり、石垣も使われていました。
信長の頃からお寺の建築技術をお城へと流用していきます。
なのでもともとお寺は高い防御力を持っていたのです。

豊臣秀吉に抵抗していた根来寺は、お寺の周囲を堀、土塁で囲み、弓・鉄砲戦用の地下壕や櫓も備えていました。さらに本坊は高い石垣で守られています。
この根来寺をポルトガルの宣教師ルイス・フロイス は「絢爛豪華な城のよう」と評していました。

大阪城の場所には戦国時代、大坂本願寺というお寺がありました。
このお寺も何重にも堀で守られていて、10年にわたる織田信長との抗争にも耐えていました。

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戦国時代のお城 まとめ

今回は戦国時代のお城の中で「山城とお寺」を紹介しました。

ポイントは3つありました。

  • 巨大化していった戦国時代の山城
  • 山城に住まなかった戦国大名もいる
  • お城化していったお寺たち

戦国時代になると争いが日常化してきたために、平地の館から防御力のある山城へと移っていきました。そのため山城は大きな堀や石垣、建物が作られるようになり、巨大化していきました。

のちの天守や櫓などに使われる瓦や石垣はもともとお寺の建築技術でした。
なのでお寺がお城のように防御力を発揮するのは当然です。
お寺の僧たちも自分たちの利権を守るためにお寺をお城のように強化していきます。

戦国時代後半には信長・秀吉の天守のあるお城へとお城の発展がつながっていきます。
お城の歴史をつながりを意識して知っていくと、より楽しむことができます。

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参考資料