今回は戦国時代のお城の攻め方のひとつ、「力攻め」について解説していきます。
力攻めは一気にお城を攻め上がっていくので、一番イメージしやすいと思います。
では力攻めによる城攻めの実態はどんなものだったのでしょうか?
今回は本当はよくわからない力攻めについてまとめてみました。
では、力攻めについて見ていきましょう!
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力攻めとは!?
戦国時代の「力攻め」とは、兵士の数に頼って一気にお城を攻め、落城させること。
兵士の数に頼って一気に攻めるといっても、相手はお城という防御施設に立てこもっていて、野戦(原っぱで戦うこと)とは勝手が違います。
一般に、お城を力攻めする場合、相手の3倍の兵士数が必要と言われています。
それほど、お城に立てこもっている敵を倒すことは難しく、圧倒的な兵力が必要だということです。
大河ドラマや映画などでさまざまな合戦シーンが描かれていて、「力攻め」がお城を攻める時のスタンダードな方法だと思われているかもしれませんが、実はそんなに多くはありませんでした。
(大河ドラマ「真田丸」では力攻めによる合戦が3回描かれている。)
さらに、数が少なかった力攻めのなかでも、本丸まで攻め込んでの決着はまれ。
ほとんどが総構えや三の丸などお城の一番外側の曲輪や掘・門などが突破された時点で、お城側(守城側)が降伏や逃亡するなどして決着していました。
これにはお城を攻める側(攻城側)も、守城側が逃げやすいようにわざと逃げ口を用意しておいて、退却するように促していました。
こうすることで、敵が決死の覚悟で戦うという状況をなくし、味方の損害を減らしていました。また、攻城側がお城を落とした、勝ったという情報を逃げた兵士が拡散することもねらっていたとも言われています。
主な力攻めの合戦
ここからは主な力攻めによる合戦を紹介していきます。
山中城攻め(1590年)
豊臣秀吉が北条氏を滅ぼし天下統一をした、「小田原攻め」に関連した戦い。
山中城は箱根峠の西側にあり、小田原城の支城として築かれました。
北条氏は関東地方のほぼ全域を支配していた戦国有数の大名で、小田原城を本拠地としていました。
そんな小田原城の西側を守っていたのがこの山中城。小田原攻めの時は、西から攻めてくる秀吉軍を山中城で食い止める必要がありました。
山中城には約4000人の兵士が守っていて、それに対する秀吉軍は約70000人だと言われています。
相手の3倍の兵士数が必要と言われるなかで、秀吉は実に17倍以上の兵士数をもってこの戦いに臨みました。
結果は秀吉軍の圧勝。半日で山中城は落城しました。
山中城側も、お城を任されていた北条氏勝が戦いの途中で離脱するなど混乱していたこともありました。
しかし、山中城側の抵抗も激しく、一柳直末という大名が戦死するなど被害は小さくありませんでした。
秀吉は、対北条戦の大事な初戦である山中城攻めを、少なくない被害を予想した上で、力攻めによって一気に決着させることで、味方の士気を高めながら、北条氏に対して秀吉軍の実力を見せつけ恐怖を抱かせようとしていました。
高天神城攻め(1580年)
遠江(静岡県西部)の中心に位置していて、武田と徳川で奪い合った高天神城。
武田信玄の後継者:勝頼が1574年に徳川家康からこの高天神城を奪い、1580年の時点でも武田氏が支配していました。
1575年の長篠・設楽ヶ原の戦いで武田氏が織田徳川連合軍に破れると、高天神城のある遠江では急速に力を失っていく。
難攻不落で知られる高天神城。
徳川家康は1578年から周囲に付城を築いていき、高天神城を圧迫していきました。
そして1580年には高天神城を完全に包囲。補給路を断つことに成功しました。
このままであれば、高天神城は食料もなくなり降伏は時間の問題でした。
しかし織田信長が家康へ「高天神城の降伏は認めない。力攻めによる決着を!」という指示があったと言います。
その後、高天神城側から家康へ降伏の交渉が持ちかけられましたが、家康はこれを拒否。
追い詰められた高天神城側は決死の覚悟でお城を出て家康軍に突撃しました。
しかし家康軍の前に全滅しました。
信長は家康へ力攻めによる決着を指示しました。
これは信長が武田勝頼より絶対的優位にあること、そして武田家に対して厳しい態度で臨むことを示していました。
小手森城攻め(1585年)
小手森城攻めとは、伊達政宗が小浜城(福島県二本松市)・大内定綱を攻撃するために、その支城だった小手森城(福島県二本松市)を攻めた戦い。
政宗は小手森城攻めで、自ら前線に立ち、鉄砲8千丁を撃たせるなど激しい攻撃を加え、その日のうちに落城させたと言われています。
その後、政宗は小手森城を守っていた敵将・敵兵士だけでなく、城内にいた女・子供まで皆殺し、なで斬りにしました。
政宗は叔父である山形城主・最上義光への書状で、敵将・敵兵を500人ほど討ち取り、城内にいた人だけでなく犬までもなで斬りにし、総数1000人に及んだと書いていました。
ではなぜ、政宗は落城したお城に対してこのようなことをしたのか?
まだこのとき政宗は18歳。伊達家を継いでからまだ1年しか経っていませんでした。
伊達家のなかには、若い当主である政宗を軽視する家臣もいました。
そこで小手森城で、力攻め・なで斬りにすることで、家臣や周辺の大名へ奥州制覇への決意をしましました。
攻城兵器
ここでは城攻めで使われていた兵器・道具を紹介していきます。
井楼(せいろう)・櫓(やぐら)
井楼とは櫓(やぐら)のこと。
現在の大阪城や名古屋城などで見ることができるような櫓ではなく、木や竹を組み合わせて縄でしばっただけのものでした。お祭りの櫓のほうが近いイメージかもしれません。
井楼の上に立つことで、城内も見渡せますし、そこから弓や鉄砲で攻撃することも可能。
この井楼・櫓に車輪を付けたものを「走り櫓」と呼んでいました。
竹束(たけたば)
竹束とは、そのまま竹を束ねただけのものです。
竹を束ねただけでも、弓矢だけでなく鉄砲も防ぐことができました。
さらに、木材よりも軽量で運びやすい、現地で調達・加工しやすい(切って束ねるだけ)ことなどさまざまなメリットがありました。
車輪を付けたものを「車竹束」と呼んでいました。
木幔(もくまん)
木幔とは木製の巨大な盾のこと。
背後に隠れながらお城に接近しました。
搔楯牛(かいたてうし)・亀甲車(きっこうしゃ)
戦国時代の小型装甲車。
掻楯牛・亀甲車にはそれぞれ車輪がついていて、木製の盾や竹束に隠れながら、鉄砲で攻撃を加えることが可能。
また亀甲車には丸太が吊り下げられていて、城門前まで接近したら丸太を振り子のように揺らして城門へぶつけ、破壊していました。
大砲
戦国時代の大砲は、火薬で鉄球を飛ばすだけのもので、当たっても破裂したりはしませんでした。
破裂はしないので野戦では使いづらい大砲ですが、移動しないお城に対しては強力な攻撃手段になりました。
たとえ鉄球を飛ばすだけでも、門を破壊することや天守や櫓の柱を折ることが可能でした。
デメリットは射程距離と命中率が足りないこと。徳川家康が大坂冬の陣で大砲を使ったけど、命中率を補うために昼夜打ち続けたといいます。
スポンサーリンク力攻めのまとめ
いかがだったでしょうか?
今回は城攻めの方法の1つ「力攻め」について解説しました。
ここで力攻めのメリット・デメリットをおさらいしておきましょう。
- 合戦が短期間で終わる
- 攻める側の軍事力をアピールできる
- 味方の士気を高める
- 自分の意思を周囲へ明確に示すことができる
- お城を攻める側も犠牲者が多くなる
- 相手の3倍もの兵士を用意する必要がある
信長や秀吉は力攻めでは味方の犠牲者が増えることを理解していた上で、大事な合戦では迷わず力攻めを選び、相手に対して軍事力や優位性、そして自分の意思を示していました。
力攻めとは軍事的な理由よりも、政治的な理由により選択される城攻めの方法なのかも知れませんね。