お城の歴史

徳川御三家のお城【水戸城の歴史】を一記事にまとめました

水戸城の歴史

今回は「水戸城の歴史」を紹介します。

こんな人にオススメの記事です
  • 水戸城の歴史をおおまかに知りたい人
  • お城に興味を持ち始めた人
  • 水戸城へ行く前に予習しておきたい人
  • 水戸城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人

最初に水戸城の歴史のポイントを4つ紹介します。このポイントのところだけ読んでも歴史の流れはつかめます。

  • 佐竹義宣が水戸城を大改修、水戸の基礎を築く
  • 家康11男の頼房と水戸黄門・光圀が水戸城を現在の形に改修
  • 幕末の水戸は藩内で争いが激化、水戸城を巡って戦う
  • 大手門を復元し価値と魅力を発信する水戸城

水戸城の歴史に詳しくなって、お城巡り、歴史ドラマやゲームももっと楽しんでいきましょう。

水戸城ってどんなお城?

大手門が復元され、かつての姿を取り戻しつつある徳川御三家の水戸城

水戸城の場所水戸城の場所

茨城県の県庁所在地・水戸市にある水戸城は、江戸時代には徳川御三家の1つ水戸藩のお城でした。「水戸黄門」で有名な徳川光圀は水戸藩の2代目にあたります。

日本三大名園の1つ「偕楽園」は水戸城の庭園で、幕末に9代目斉昭によって作られました。現在は梅の名所として有名で、そのほかにも様々な植物があり四季折々の風景が見どころ。斉昭が「偕(とも)に楽しむ場」から「偕楽園」と名付けたように楽しむことができます。

武士の学校である藩校・弘道館が水戸城三の丸跡に残っていて、現在は国の史跡と重要文化財に指定されています。

またお城の正面入り口にあたる大手門の復元完成式典が2020年2月に行われ、これからは櫓や土塀の復元を計画しています。

水戸城はかつての姿を取り戻しつつあり、これからが楽しみなお城の一つです。

水戸城の歴史

ここからは水戸城の歴史を戦国時代〜昭和・平成まで順に紹介していきます。

戦国時代の水戸城

鎌倉幕府の御家人・馬場氏が築城し、のちに江戸氏が城主に

水戸に初めてお城が建てられたのは、鎌倉時代のはじめ。この地域を治めていた豪族・馬場資幹(すけもと)が館を建てていて、馬場城と呼ばれていました。

この馬場資幹は源頼朝に御家人として仕えていて、重用されたといいます。のちに資幹は大掾(だいじょう)氏を名乗って、常陸府中(石岡市)や水戸を中心に勢力を強めていきました。

室町時代になると大掾氏は衰退。代わって江戸氏が水戸城(馬場城)の城主になります。河和田城を本拠にしていた江戸通房が、資幹の子孫・大掾満幹の留守を狙って水戸城を占拠しました。この後、江戸氏が室町・戦国時代を通して水戸を治めていくことになります。

江戸氏は大掾氏の館があったところを内城(本丸)として整備し、その周辺に一族や家臣の屋敷と市場を作っていきました。

戦国一の律儀者・佐竹義宣が水戸城を改修、水戸の基礎を築く

本丸と二の丸の間の堀本丸と二の丸の間の堀

常陸(茨城県)北部を基盤に勢力を伸ばしていた佐竹氏は小田原を本拠地としていた北条氏と敵対していました。豊臣秀吉が天下統一のために北条氏を攻めたとき、佐竹義重・義宣親子はいち早く秀吉の配下になります。そして映画「のぼうの城」の舞台になった忍城攻めに義重・義宣が参加していました。

北条氏の降伏で合戦が終わると、秀吉は佐竹義重・義宣親子に常陸・下野(栃木県)を与えます。このあと、義宣はそれまで本拠地にしていた常陸太田城から、水戸へ移ることを決定。しかしその時の水戸城には江戸氏がいました。

義宣は江戸氏に水戸城の明け渡しを要求。江戸氏は佐竹義宣に従う立場だったにもかかわらず、お城の明け渡しを拒否。結果、義宣は水戸城を攻撃し、落城させて江戸氏を追い出しました。

水戸城を手に入れた義宣は、お城の大改修を開始。本丸・二の丸・三の丸・下の丸(東二の丸)と整備していき、これらは現在の水戸城へと受け継がれていき、佐竹氏が水戸城主だった12年間に水戸の基礎が整備されていきました。

ちなみに佐竹義宣はのちに家康から「世の中に義宣ほどの律儀者はいないと」と言われた戦国大名でした。

江戸時代の水戸城

家康11男の頼房と水戸黄門・光圀が水戸城を現在の形に改修

水戸城の縄張水戸城の縄張

秀吉の死後、石田三成と徳川家康が争った関ヶ原の戦いで、佐竹義宣は徳川家康に味方しませんでした。そのため関ヶ原の戦いに勝利した家康によって、常陸から秋田への領地替えを命じられました。

佐竹氏のあと、水戸城へは家康5男の信吉が入ります。しかし信吉は水戸へ入った翌年に病で急死してしまいました。続いて10男の頼宣が水戸城主に。さらに頼宣も駿河・遠江・東三河50万石へと領地替えで移っていきました。

頼宣に代わって水戸城主になったのが、11男の徳川頼房でした。頼房を初代として水戸藩が成立。以後、明治に至るまで頼房の家系が水戸を治めていきます。

水戸城は頼房と水戸黄門として有名な2代目・光圀によって改修され、二の丸に御殿や御三階櫓を建設。大手門や隅櫓も建てています。水戸城は江戸時代を通して何度か火災に見舞われることはあったものの、大きな変化はなく明治に至っています。

幕末の水戸では藩内で争いが激化し、水戸城を巡って戦う

幕末になると9代目藩主・徳川斉昭が日本最大の武士の学校「弘道館」を作っています。現在の弘道館は敷地が国の史跡に、そして正門・正庁・至善堂が重要文化財に登録されています。

幕末の水戸藩では斉昭が藩政改革を進めていきました。しかし斉昭の改革は改革派と保守派の対立を藩内に招いてしまいます。そのために幕末の動乱の中、水戸藩では相手の血縁を根絶やしにするところまでエスカレートしていってしまいました。

尊王攘夷(日本から外国人を追い出すこと)を目指す「天狗党」と、幕府に味方することを優先する「諸生党」との間で何度も争いが起きていました。

天狗党と諸生党とのあいだで水戸城を奪い合う戦いが起こり、最後は諸生党が弘道館に立てこもって抵抗するも天狗党に敗れました。

水戸藩では藩内での対立のために多くの人材が失われて、明治に政府の重要ポストに就ける人物がいなかったと言われています。

明治時代の水戸城

明治の水戸城は放火や取り壊しで多くの建物を失う

江戸時代から明治時代になった直後、水戸城が放火されるという事件が起こっています。

江戸時代から続く藩を廃止して県を作るという廃藩置県が実施された翌年に「渡辺清」という人が茨城県知事として水戸へやってきます。渡辺清は、戊辰戦争後に各地で社会の混乱を抑えて安定されることに実績を挙げていた人物でした。

しかし渡辺清が茨城県知事としてやってきたことに反発してなのか、赴任5日目に水戸城が放火されてしまいます。この放火によって二の丸御殿などほとんどの建物が焼失。茨城県庁は三の丸にあった藩校・弘道館に置かれました。

その後、二の丸に新しい県庁が建てられると、放火で焼失を免れた建物も御三階櫓のみ残して順次取り壊されていきました。そして明治中頃から本丸と二の丸に学校が建てられ、本丸と二の丸の間の堀には鉄道が敷かれました。この鉄道は現在はJR水郡線になっています。

昭和・平成の水戸城

戦後、藩校・弘道館が国の史跡、重要文化財になる

水戸城の三の丸堀水戸城の三の丸堀

水戸城で天守の代用として建てられた御三階櫓は、明治時代の放火や取り壊しも免れて昭和まで現存していました。しかし太平洋戦争終戦直前の1945年8月2日の水戸空襲で焼失しています。

御三階櫓は焼失してしまったものの、弘道館の正門などいくつかの建物は焼失を免れていました。戦後になると、弘道館の敷地は国の史跡に登録され、弘道館正庁、正門、至善堂が重要文化財になりました。のちに水戸城の堀と土塁が茨城県の史跡に登録。

本丸の表門にあたる橋詰門は明治時代に城下の祇園寺に移築されていました。橋詰門は1981年に元の場所へ再移築され、83年には重要文化財に登録されています。

大手門を復元し、価値と魅力を発信していく水戸城

復元された水戸城大手門復元された水戸城大手門

2009年に坂東市のお寺から、水戸城大手門の扉と伝わる1枚の門扉が水戸市へと寄贈されました。しかしながらこの門扉は明治時代の大手門の古写真と比べても、大きさや金具の位置などに違いがあって本物ではありませんでした。それでもお寺に伝わる言い伝えなどから、この門扉は水戸城内のどこかの門の扉である可能性もあります。

2010年になると、水戸市は「水戸市歴史的風致維持向上計画」を策定。この計画をもとに水戸城を象徴する建物・大手門、二の丸隅櫓、土塀を復元し、水戸城跡の風情が感じられる景観づくりが進められていきました。

水戸城大手門については江戸時代の絵図や実測図、明治時代の古写真があり、大きさや形態を推察することができました。さらに大手門周辺の発掘調査によって門の位置や大きさなどを正確に確認できています。

大手門の復元工事は2017年3月から進められ、2020年2月に復元完成式典が行われました。復元された大手門は建築工法だけでなく、瓦や釘なども戦国、江戸時代のものを再現しています。

水戸市はこのあとも隅櫓と土塀の復元を進めていく計画です。

水戸城の歴史年表

1190ころ 馬場資幹が水戸に館を築く
1426 江戸通房が水戸城を占拠
1590 佐竹義宣が江戸氏を攻めて水戸城を落城させる
1591 義宣が常陸太田城から水戸城へ移る
1593 義宣が水戸城を大改修する
1600 関ヶ原の戦い
1601 義宣が大手門を修理
1602 家康の命によって義宣は秋田へ移る
1609 家康11男の頼房が25万石で水戸城主になる
1625 水戸城の改修と城下町の拡張が始まる
1638 水戸城の総曲輪の普請(土木工事)が進められる
1661 2代目光圀(水戸黄門)が水戸藩主を継ぐ
1724 御三階櫓の屋根が瓦から銅板へ変わる
1764 城内で火事が起こり、御殿、御三階櫓が焼失
1769 このころまでに御三階櫓が建てられる
1841 弘道館が開校する
1864 天狗党の乱が起きる
1868 弘道館の戦いが起きる
1872 水戸城で放火事件が起きる。二の丸御殿などほとんどの建物が焼失
明治中頃 本丸、二の丸に学校が建てられる
1890 本丸と二の丸の間の堀に鉄道が敷かれる
1945 8月2日の水戸空襲で御三階櫓が焼失する
1952 弘道館の敷地が国の史跡に登録
1964 弘道館の正庁、正門、至善堂が重要文化財に登録
1967 堀と土塁が茨城県の史跡に登録
1981 橋詰門が元の場所へ再移築される
1983 橋詰門が重要文化財に
2009 大手門の扉と伝わる門扉が水戸市へ寄贈される
2010 水戸市は「水戸市歴史的風致維持向上計画」を策定し、大手門、二の丸隅櫓、土塀の復元が進められることに
2017 3月から大手門の復元工事が始まる
2020 2月4日、水戸城大手門完成記念式典が行われ、通行可能になる

水戸城の歴史 まとめ

今回は「水戸城の歴史」を紹介しました。いかがでしたか?

江戸時代の水戸城は徳川御三家のお城でした。しかし同じ御三家のお城である名古屋城のように大きな天守を建てていないのが水戸城の特徴の一つです。

現在の水戸城には堀や土塁が残されていて、特に本丸と二の丸の間の堀は電車が通れるほどの大きさ。また日本三大庭園の一つである偕楽園も見どころの一つです。

最後にもう一度歴史のポイントをおさらいしておきましょう。この記事を参考に水戸城見学を楽しんでください。

  • 佐竹義宣が水戸城を大改修、水戸の基礎を築く
  • 家康11男の頼房と水戸黄門・光圀が水戸城を現在の形に改修
  • 幕末の水戸は藩内で争いが激化、水戸城を巡って戦う
  • 大手門を復元し価値と魅力を発信する水戸城

水戸城 アクセス

水戸城へのアクセス
  • 茨城県水戸市
  • 電車・バスでの行き方:JR常磐線水戸駅北口より徒歩5分
  • 車での行き方:常磐自動車道「水戸IC」より約30分、北関東自動車道「水戸南IC」より約15分





参考資料