今回は「お城の歴史 江戸時代編 その2」です。
ふだん観光などでお城を見学することがありますよね。
しかしそのお城を単体で見ていても気づけないことがあります。
「お城同士の連携や位置関係」など。
戦国大名や豊臣秀吉・徳川家康は各地にお城を築きました。
しかし意味もなく築かれたお城は1つもありません。
徳川家康は関ヶ原合戦後に大きな戦略をもってお城を築いていきました。
今回はその徳川家康の大戦略を見ていきましょう。
徳川家康は関ヶ原の戦いに勝つことで天下へ大手をかけました。
しかし、まだまだ油断できるじょうきょうではありません。
前回の記事に書いてあります。
関ヶ原合戦後、家康がもっとも恐れたものは何だったのでしょう??
それは「秀吉に恩を感じている大名が、大坂にいる秀吉の子・秀頼を守るために団結し江戸へ攻めてくる」ことです。
そして徳川家康は天下獲りの仕上げに取り掛かります。
大阪城にいる豊臣秀吉の子・秀頼を孤立させるために、近畿・東海地方を中心にお城を築いていったのです。
Contents
徳川築城戦略 第1段階 江戸防衛
関ヶ原合戦後(1600~)、最初に築き始めたのは二条城(京都市)・伏見城(京都市)・膳所城(滋賀県大津市)でした。
また同時期に加納城(岐阜県岐阜市)、福井城(福井県福井市)の築城工事も始まり、徳川四天王の一人である本多忠勝が桑名城(三重県桑名市)を築き始めています。
二条城と伏見城は徳川家康が征夷大将軍に就任するための舞台として必要。さらに伏見城は豊臣政権末期の政庁で、この時期の日本の首都でした。
そのため伏見城は急いで再建する必要があったし(関ケ原合戦の一連の争乱で焼失したため)、大坂にいる豊臣秀頼に圧力をかける意味もあります。
そして、西日本からの敵に対して膳所城だけでは不安なので、新たに彦根城を築き防備を固めていきました。
関ケ原合戦直後の築城戦略をまとめると下記のようになります。
- 二条城・伏見城で京都を制圧し、徳川政権の正統性を確立。
- この時期の築城戦略は西日本および北陸への防壁。
- 東海・東山道を使って、加納城まで迅速に集まる。
- 西日本からの敵を膳所・彦根・桑名城で防ぐ。
- 北陸(加賀前田氏)からの敵を福井城で防ぐ。
徳川築城戦略 第2段階 瀬戸内海 封鎖
「腹が減っては戦はできぬ」ということわざがあるとおり、軍隊にとって補給(食糧、鉄砲・火薬など)を維持することが重要。
上杉謙信の関東侵攻、豊臣秀吉の朝鮮出兵やヨーロッパのナポレオンやナチスドイツによるロシア侵攻など補給が維持できず目的を達成できずこう着状態になったり大損害をこうむり撤退するケースが現代まであります。
家康は、敵である西日本の親豊臣大名が江戸へ攻めてきたとき、その軍隊を維持するために瀬戸内海を使って補給すると考えました。(当時は鉄道もないので、船で運搬するほうが効率的)
そして家康は信頼していた武将・藤堂高虎と協力してこの瀬戸内海を使った補給を邪魔するお城を築いていきました。
関ヶ原合戦後、伊予(愛媛県)に領地をもらった藤堂高虎は以前からもっていた宇和島城(愛媛県宇和島市)に加え、海岸に面した今治城(愛媛県今治市)、本州と四国の間の芸予諸島に甘崎城(愛媛県今治市)を築城。
この3城による築城戦略は下記のようになります。
- 宇和島城は潮の流れにのって、九州北部や山口県辺り(親豊臣大名の領地)を攻撃するのに適している。
- 今治、甘崎城は瀬戸内海を通る敵の補給船を攻撃し、補給の邪魔をする。
徳川築城戦略 最終段階 決戦へ
東海・近畿地方や瀬戸内海沿岸にお城を築いていくことで西日本の親豊臣大名が江戸へ攻めてくることを防いできた家康。
しだいに家康の築城戦略は防御的な戦略から攻撃的な戦略へと変わっていきます。
徳川家康の娘婿である池田輝政に姫路の領地を与え、さらに輝政の弟・池田長吉に鳥取を、輝政・次男の池田忠継に岡山を与えました。
池田輝政を中心に池田氏を一族ごと徳川派へ取り込むことで、家康は西日本の親豊臣大名と大坂を分断する作戦にでます。
そして親豊臣大名が攻めて来たとき、家康は姫路城周辺で決戦を想定していました。
敵が攻めて来たとき、徳川派は素早く姫路城に集結しなくてはいけません。
ここで時間を浪費していたら岡山城や姫路城が落とされ、大坂の豊臣秀頼と合流されてしまいます。
そのため京都と姫路城の間にお城を築きました。それが篠山城(兵庫県篠山市)と亀山城(京都府亀岡市)です。
篠山城と亀山城は姫路へ至るルートのうち「京都―亀山―篠山―姫路」を確保することで徳川派の軍隊が迅速に姫路に集結することを可能にし、姫路への補給路を守っていました。
では「姫路城決戦で徳川派が負けた場合」はどうしましょうか?
「鳴くまで待とうホトトギス」と言われるだけ家康は慎重でした。
「姫路城決戦」や姫路より東にある彦根城でも決戦に負けた場合に備えていました。
それが1番最後に築き始めた名古屋城(愛知県名古屋市)です。
名古屋は京都・大坂から距離があり、「姫路城決戦」で勝利した親豊臣大名が攻めてくるまで時間が稼ぐことができます。
その間に徳川派の軍隊を立て直し、大軍を名古屋へ集中させようとしました。
さらに名古屋は平地なので大軍を展開することも可能。
さすがは家康、最悪の事態も想定して何重にもお城を築くこと(姫路城―彦根城―名古屋城)で対処しようとしていました。
最後に大坂城への攻めに入ります。
伊賀上野城は位置的に大坂を攻めるための拠点の役目を担うことができ、伏見城と連携して大坂を攻めることが可能になりました。
スポンサーリンクお城の歴史 江戸時代 まとめ
- 家康が一番恐れていたことは、親豊臣大名が団結して江戸へ攻めてくること。
- 家康は数々のお城を築くことで、一回の決戦だけではなく数回の決戦で新豊臣大名軍を撃破しようと考えた。
- 今治城は親豊臣大名の補給を遮る役目があった。
- 複数のお城を連携させることで、防御も攻撃も効率的に行おうとしていた。
- この築城戦略は徳川家康の権力・軍事力・財力があったからこそ可能だった!
今回の徳川家康の築城戦略は、お城をそれぞれ一つずつの単体で見ていては気づくことはできません。
Googleマップでお城の位置関係を調べてみるだけでも戦国大名や天下人が考えていた戦略が見えてくるかもしれませんね。
お城めぐりをした時は、そのお城の周辺にはどんなお城があって、どういう関係があったのかを見ていくと面白いですよ。
参考資料