お城のいろいろ

中国地方のお城の特徴 近世城郭の見本市

中国のお城の特徴

今回は「中国地方のお城の特徴」について解説していきます。

中国地方にはとくに大きなお城がそろっている地域です。

とくに天守と石垣は全国でもトップクラスの質と量を誇っていました。

そんな中国地方のお城の特徴とはなんでしょうか??

中国地方のお城の特徴
  • 近世城郭の見本市
  • 近畿地方より遅れていたお城の発展

では、中国地方のお城の特徴をみていきましょう!!

Contents

中国地方のお城の特徴 近世城郭の見本市

中国地方は全国的にも近世城郭(安土城以降のお城、おもに石垣や天守を備えている)の大きなものがそろっていて、特に石垣と天守の数ではトップクラスを誇ります。

岡山城(岡山県)、津山城(岡山県)、福山城(広島県)、広島城(広島県)、松江城(島根県)、米子城(鳥取県)、萩城(山口県)、岩国城(山口県)などなど

なお、ここに挙げた8城はすべて天守と石垣を持っています。とくに福山城天守は約30m(石垣を除く)もの高さがあったとされ、これは、豊臣秀吉の大坂城とほぼ同じ高さです。そのほかにも、広島城天守が「約26m」、岡山城天守が「約24m」、津山城天守が「約23m」と、現存天守の松本城天守の「約25m」と同規模の天守が並んでいる地域でした。

ありし日の津山城津山城 (Wikipedia「津山城」より)

この地域では天守や石垣だけではなく、櫓の棟数も群を抜いていました。特に広島城では二重櫓35棟、平櫓30棟、多聞櫓(長屋状の平櫓)約415mもの櫓が城内に林立していました。

たくさんの櫓を持つお城は中国地方を中心に西日本に偏っていて、東日本では徳川家の江戸城を別格とすれば、伊達政宗の仙台城ですら三重櫓4棟、二重櫓2棟、平櫓1棟、多聞櫓約142mにすぎませんでした。関東地方のお城では二重櫓が2棟だけというお城が一般的でした。

では、どうして西日本、特に中国地方のお城に広島城津山城のような大城郭が集中することになったのでしょうか?
その答えは「関ヶ原の戦い」にありました。

焼失前の広島城天守焼失前の広島城天守

徳川家康は関ヶ原の戦いのあと、負けた大名・武将の領地を取り上げ、その領地を徳川家康に味方した大名へと分配しました。
そのとき、徳川家康は豊臣秀吉と親しかったり恩を感じていた親豊臣派大名のほとんどを大坂より西へと追いやりました。

それはなぜかというと、家康の本拠地である江戸城から遠ざけるためと、江戸・京都間(東海地方など)にいるジャマな親豊臣派をどけるためでした。

関ヶ原の戦いのあと、徳川家康が考えていた最悪の状況は、まだ大坂に健在していた豊臣秀頼が総大将として大名をまとめ上げ、江戸へと攻めてくることでした。そのため、最前線になるであろう京都・大坂方面へ素早く移動できるよう江戸・京都間の東海道や東山道を親徳川大名で押さえておきたかったのです。

領地再分配の結果、中国地方には有力大名がひしめく状態になり、またそれを監視するために親徳川派大名が送り込まれました。

このような政治的・軍事的緊張を反映して特に中国地方では大名がそれぞれ豊臣派・徳川派に分かれて競い合って築城していった結果大城郭が集まる地域となりました。

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中国地方のお城の特徴 近畿地方より遅れていたお城の発展

大城郭が集まっている地域の中国地方ですが、お城の発展は近畿地方よりも一世代遅れていました。

近畿地方で織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城が築城された頃、中国地方にはまだ天守や石垣を持つ近世城郭は一つもありませんんでした。中国地方の覇者となった毛利元就の居城・吉田郡山城は戦国時代を代表する山城でしたが、石垣はわずかしか使用されておらず、天守どころか瓦を使った建物もまれでした。

中国地方の近世城郭第1号となったのは宇喜多秀家の岡山城と毛利輝元の広島城でした。(どちらが第1号かは定かではない)
岡山広島城が完成したのは関ヶ原の戦いの直前、秀吉の大坂城から10年以上あとのことでした。
岡山広島城天守ははっきりと関ヶ原の戦い以前に建てられたと分かる天守でした。現存12天守はすべて関ヶ原の戦い以降の建設。戦争で燃えてしまって残念!)

その後の関ヶ原の戦いの戦後処理によって、中国地方は有力大名が集中する地域になって各大名が競い合って築城していったため西日本とくに中国地方の築城技術のレベルは全国トップクラスの水準となり他の地域を圧倒しました。

焼失前の岡山城天守焼失前の岡山城天守 残っていれば世界遺産かも
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参考資料