長野県の100名城の一つである上田城にはどんな歴史があるの?
上田城は誰が築城したのか?戦いがあったのかなど知りたいな!
今回は「上田城の歴史」を紹介します。
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この記事では下記のポイントで上田城の歴史を紹介していきます。
- 徳川・北条・上杉の間でバランスを取りながら真田昌幸が上田城を築城
- 関ヶ原の戦いで徳川軍を翻弄した上田城:第2次上田合戦
- 仙石忠政によって上田城は再建され、明治まで存続する
- 櫓門が再建され、後世へ伝えていくために保存整備が進められている
それでは「上田城の歴史」を紹介していきます。
Contents
上田城とはどんなお城?
長野県上田市にある上田城。
この後紹介する真田昌幸が尼ヶ淵と呼ばれる河岸段丘(川がつくった崖)の上に築いたお城で、大河ドラマ「真田丸」の舞台にもなっています。
ドラマでは真田軍が徳川軍を2度破っているのが描かれていました。
長野新幹線の車窓からは崖の上に建つお城の地形がよくわかります。
現在の上田城には本丸の石垣や堀、櫓が残されていて、櫓門などが復元されてました。
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ここからは上田城の歴史を戦国時代ではどんな経緯で築城され、どんな合戦があったのか。現在の上田城はどのように整備されているのかを紹介していきます。
戦国時代の上田城
もともと上田周辺の小さな国衆だった真田家
真田氏はもともと現在の上田市周辺の小さな国衆でした。
真田氏は一時領地を失っていたけれど、真田幸隆(昌幸の父)が武田信玄の家臣となって故郷を取り戻しています。
幸隆は真田本城を拠点にし、その周囲に自身が落城させた砥石城や松尾古城、洗馬城、根小屋城、横尾城、伊勢崎城、矢沢城、天白城などを築いて守りを固めていきました。
幸隆の子・昌幸の代になると仕えていた武田家は織田信長によって滅ぼされてしまいます。
その後昌幸は信長の配下になったけど、3ヶ月後には信長が本能寺の変で死んでしまいました。
武田家滅亡と信長の死によって信濃・甲斐は混乱状態になり、徳川・北条・上杉と大きな戦国大名が争う場所になっていきます。
この争いに昌幸も巻き込まれ、三者の間で綱渡りのようにバランスを取っていかなくてはいけませんでした。
徳川・北条・上杉の間でバランスを取りながら真田昌幸が上田城を築城
真田昌幸が上田城を築城したのが1583年。わずか1年半ほどで完成させたといいます。
上田城の築城を開始した時昌幸は徳川家康に味方して、北の越後から領地を広げようとしていた上杉景勝に対抗しようとしていました。
そして上田城の築城には家康からの支援も受けています。家康も昌幸を支援することで上田城を上杉に対する最前線のお城にするつもりでした。
しかし完成までの1年半の間に昌幸は家康と領地問題で対立。
昌幸は家康のもとを離れて、敵対していた上杉景勝に味方するようになります。
これには家康も激怒して、すぐさま家臣に真田昌幸と上田城への攻撃を命令しました。
これに対して昌幸は上田城で徳川軍を迎え撃ちます。(第1次上田合戦)
合戦が始まると、徳川軍は上田城に攻撃し、城壁の近くまで攻め込みました。ところが大軍でせまい所に攻め寄せたために身動きが取れなくなってしまいます。
そこを真田軍が城内から一斉に攻撃し、徳川軍を混乱させ損害を与えることに成功。
徳川軍が撤退する途中で神川を渡っていると、近くの砥石城にいた真田信幸(昌幸の子)に攻撃されて徳川軍はさらに大損害を出してしまいます。
その後は小競り合いなど小さな戦いはあるものの、どちらも大きな勝利を得ることはできませんでした。
そんな中家康から撤退命令が届いたために、徳川軍は浜松城へと戻っていきます。
家康の重臣・石川数正が豊臣秀吉に引き抜かれてしまったため、徳川家としては真田昌幸にかまっている状況ではなくなったからでした。
関ヶ原の戦いで徳川軍を翻弄した上田城:第2次上田合戦
第1次上田合戦のあと、豊臣秀吉の天下統一にともなって真田昌幸は秀吉の家臣になりました。そして昌幸は引き続き上田城を居城としていきます。
1598年に秀吉が亡くなると、石田三成や徳川家康などが対立し、関ヶ原の戦いへと発展。
関ヶ原へと至る流れの中で真田家は昌幸と次男の信繁が三成の西軍に、長男の信幸が家康の東軍に味方しました。
1600年7月、石田三成の挙兵を知った家康や東軍は上杉景勝への攻撃を中止。そして関東から東海・近畿地方へ向かっていきます。
徳川家の本隊を率いていた徳川秀忠は、家康の東海道とは違い中山道を通って西へ向かいました。
その途中にある上田城の昌幸は西軍に味方していたので、秀忠率いる徳川軍が上田城を包囲しました。
秀忠はまず昌幸に降伏・開城勧告をして、上田城を明け渡すよう要求しています。これに対して昌幸はお城の明け渡しに応じると返事をしていました。
しかしこれは昌幸の策略で、勧告に従うフリをしながら籠城戦の準備をする時間を稼いでいたのです。
昌幸が態度をひるがえして戦う姿勢を見せたため、秀忠は上田城攻撃を開始。徳川軍3万8000人に対して真田軍は5000人程度だったと言われています。
戦闘が始まると、真田軍は人数の多い徳川軍に押されていきました。そして真田軍は城内へと敗走を始め、徳川軍がその後を追っていきます。
ところが徳川軍が城門に近づくと城内から一斉に攻撃され、大損害を受けてしまいました。
力攻めのゴリ押しでは味方の被害も増えてしまうので、徳川軍は上田城を包囲することしかできません。
そして上田城を包囲し続けることは危険だと判断した秀忠は、小諸城へと引き上げていきました。
その後、上田城への抑えとして信濃の武将を置いていて、徳川軍は美濃へと向かっていきました。
しかし昌幸に手こずり時間を浪費したため、関ヶ原の戦いに秀忠が間に合わなかったのは有名な話です。
江戸時代の上田城
関ヶ原のあと、徹底的に破壊された上田城
第2次上田合戦でも昌幸は少ない兵ながら大軍の徳川軍を退けていました。
しかし関ヶ原本戦では石田三成の西軍が敗北してしまいます。
西軍に味方していた真田昌幸と信繁は家康に上田城を明け渡し、領地を没収されて高野山へと送られました。
上田は東軍に味方していた長男・信之(信幸)に与えられ、真田家は続いていきます。
2度も徳川軍を苦しめた上田城は関ヶ原のあと徹底的に破壊されました。本丸の堀の発掘調査では真田時代の瓦が見つかっていて、この時に壊された物とされています。
信之は壊されて本丸ではなく、三の丸に屋敷を建てて藩庁としました。
そして1622年に信之は上田から松代(長野市)へ領地替えになっています。
仙石忠政によって上田城は再建され、明治まで存続する
真田信之に代わって上田に入ったのが仙石忠政。
忠政は1626年から破壊されていた上田城の再建を開始します。
しかし28年に忠政が急死したことで、再建工事は中断。上田城は未完成のまま使われていくことになりました。
仙石氏が3代続いたのち、城主は松平忠周(ただちか)に代わり明治まで松平氏7代が上田を治めていきます。
上田城の御殿は忠政が再建した後も、信之の御殿を使い続けて三の丸にありました。
1730年と1789年に御殿が火災にあったけれど、その都度再建されています。
上田城は川によって作られた崖(尼ヶ淵)で守られたお城でした。
自然地形を防御に利用する一方、大雨で川が増水すると崖が削られて侵食や崩落に悩まされていました。
そこで1733年に松平忠愛(ただざね)は本丸の崖下に石垣を築いて崩落を防いでいます。
明治時代の上田城
廃城令で建物は取り壊され、本丸に真田神社が建てられる
明治時代になると廃城令が出されて、全国のお城で建物が取り壊されていきました。
上田城でも本丸西櫓と藩主屋敷をのぞいて建物が旧藩士に払い下げられています。
これには旧藩士が武士の身分をを失っても、生活できるようにとの計らいがあったといいます。
江戸時代まで本丸には7棟の櫓があったけど、現存するのは西櫓1棟のみ。そのほかの櫓は解体・売却されました。
現在、本丸東虎口に建っている北櫓と南櫓は、1878年に城外へと移築されています。
この2つの櫓は遊郭に払い下げられ、「金秋楼」「万豊楼」という貸座敷として使われました。
お城の樹木も払い下げの対象で伐採され、その後に梅や桜が植えられたため明治末には上田城跡は花の名所になっています。
また1879年に本丸跡に松平神社(現・真田神社)が建てられました。
旧藩士や市民から旧藩主松平家への報恩のために神社を建てたいと声が上がったことがキッカケでした。
昭和の上田城
城跡が国の史跡になり、櫓がもとの場所に戻される
昭和になって1927年には二の丸の堀底に電車が通るようになり、二の丸橋の下に駅も作られていました。
城内にあった監獄が1928年に城外へ移転すると、児童遊園地、テニスコート、野球場などが作られ上田城跡公園の整備が進んでいきます。
唯一現存していた西櫓を上田市は譲り受けて、旧藩主松平家の甲冑などを展示する博物館(徴古館)にしました。
全国のお城で天守や城跡が旧国宝や指定史跡になる中、1934年に上田城跡の本丸と二の丸の大部分が国の指定史跡になっています。
明治時代に移築されて貸座敷になっていた北櫓と南櫓は遊郭が廃業になったことで、東京の料亭に売却される予定になっていました。
この話を知った地元市民は櫓を元の場所に戻す運動を起こし「上田城址保存会」を結成。北櫓と南櫓を買い戻すことに成功しています。
太平洋戦争で一時中断をはさみながら、1944年〜49年にかけて北櫓と南櫓が再び上田城に移築復元されました。
現在の上田城
櫓門が再建され、後世へ伝えていくために保存整備が進められている
1994年に本丸東虎口に建てられていた櫓門が小写真や発掘調査を基に木造復元されています。
この時に櫓門と北櫓・南櫓に接続する土塀も復元されていて、明治に取り壊されて以来の姿を取り戻しました。
上田市は上田城を史跡として適切な姿で後世へ伝えていくための保存整備を進めていくとしています。
これにともなって、幕末まで残っていた本丸の残り4棟の櫓の復元も計画。まずは本丸北東隅にあった2棟の櫓と土塀を優先して整備を進めていく予定です。
また本丸東虎口の前面にあった枡形空間(武者溜り)と二の丸東虎口一帯の復元も予定。
城内になる体育施設は将来的に城外へ移転し、原則として復元建物を除いて新しく建造物は作らないとしています。
これからの上田城がどのような姿になっていくのか楽しみです。
スポンサーリンク上田城の歴史年表
1583 | 真田昌幸が上田城を築城開始 |
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1585 | 第1次上田合戦、昌幸が上田城で徳川軍を撃退 |
1600 | 第2次上田合戦、昌幸が上田城で2度目の徳川軍を撃退 |
1601 | 昌幸と信繁は高野山へ送られ、上田城は破壊される |
1622 | 真田信之は松代へ移って、仙石忠政が上田城主に |
1626 | 忠政が上田城の再建に着手 |
---|---|
1628 | 忠政が急死、再建工事は中断に |
1706 | 仙石氏に代わって松平忠周が城主に |
1813 | 藩校・明倫堂と武芸稽古所が設けられる |
1871 | 上田藩は長野県に入り、上田城は東京鎮台第二分営の管理に |
1873 | 長野県は上田城の土地・建物を民間に払い下げる |
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1874 | 本丸の7棟の櫓は西櫓を残して売却される |
1934 | 本丸と二の丸の大部分が国の史跡に指定される |
1942 | 北櫓と南櫓が市民運動で買い戻される |
1944〜49 | 北櫓と南櫓が元の場所に移築復元される |
1959 | 本丸の3棟の櫓が長野県の県宝に |
---|---|
1994 | 東虎口櫓門と土塀が復元される |
歴史を知って上田城を見学しよう!
今回は「上田城の歴史」を紹介しました。
もう一度ポイントをおさらいしておきます。
- 徳川・北条・上杉の間でバランスを取りながら真田昌幸が上田城を築城
- 関ヶ原の戦いで徳川軍を翻弄した上田城:第2次上田合戦
- 仙石忠政によって上田城は再建され、明治まで存続する
- 櫓門が再建され、後世へ伝えていくために保存整備が進められている
お城それぞれの歴史を知っていると、お城めぐりもより楽しくなるので気になるお城の歴史を知れべてみるのはいかがですか。
上田城へのアクセス
- 長野県上田市二の丸6263番地イ
- クルマでの行き方:上信越自動車道「上田菅平IC」より約15分
- 駐車場:上田城跡北観光駐車場(104台)、上田城跡駐車場(88台)
- 電車での行き方:JR,しなの鉄道、上田電鉄別所線「上田駅」より徒歩15分
- バスでの行き方:「上田駅」より上田市街地循環バス赤運行(あかバス)を利用で「公園市役所前」で下車