今回は「駿府城の歴史」を紹介します。
- 駿府城の歴史をおおまかに知りたい人
- お城に興味を持ち始めた人
- 駿府城へ行く前に予習しておきたい人
- 駿府城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人
まずは駿府城の歴史のポイントを4つ紹介します。このポイントのところの記事を読んでもらうだけでも、おおまかな歴史はつかめます。
- もともとは今川義元の館が建っていた
- 中村一氏が金箔瓦を使った天守を建てる
- 天下人・家康が隠居城として大改修、巨大な天守台に変わった天守を建てる
- 発掘調査によって家康と一氏の天守台が発見される
駿府城の歴史に詳しくなってお城めぐりも歴史ドラマ・ゲームも楽しんでいきましょう。
Contents
駿府城とはどんなお城?
まずは駿府城とはどんなお城なのかを紹介します。
徳川家康が幼少期と晩年を過ごしたお城・駿府城
駿府城は静岡県静岡市にあり、静岡市の観光名所になっているお城。
徳川家康は静岡市にゆかりが深く、幼少期の12年と天下人になったあとの9年間をこの地で暮らしていました。家康は将軍を息子の秀忠に譲ったあと隠居のために駿府城を築き、最後は駿府城で亡くなっています。
現在の駿府城には現存する建物はありませんが、東御門、巽櫓(たつみやぐら)、坤櫓(ひつじさるやぐら)が木造で再建されています。
最近では城内の発掘調査が進み、戦国から江戸時代にかけての天守台の石垣が発見されるなど成果があがっています。
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ここからは駿府所の歴史を戦国時代から昭和・平成まで順に紹介していきます。
戦国時代の駿府城
駿府城にはもともと今川義元の館が建っていた
家康が駿府城を建てる前、駿府城がある場所には今川氏の館が建てられていました。
今川氏は駿河(静岡県東部)を治めていた戦国大名。一番有名なのは今川義元で、桶狭間の戦いで織田信長に負けた武将です。
今川氏の館は現在駿府城のある場所に建てられていて、政治を行う政庁と住居として使われていました。この館はお城としての機能・防御力はあまりなく、今川氏はべつに賤機山(しずはたやま)城を築いています。もしもの場合はこのお城に逃げ込んでいました。
今川氏時代の駿府には戦乱で荒廃した京都を逃れてきた公家や文化人が多く移り住んでいました。そのため駿府は「東国の京」などと呼ばれるほど、栄えた街になっていました。
今川氏は駿河・遠江(静岡県西部)・三河(愛知県東部)を治め、有力な戦国大名でした。しかし織田信長に敗れ、当主の義元が討ち取られると衰退していきます。
甲斐(山梨県)の武田信玄と今川氏から三河を奪って独立した徳川家康が、今川氏を連携して攻撃。力が弱っていた今川氏は対応できずに滅亡しました。駿府と駿河は武田信玄のものになっています。
徳川家康が駿河を獲得して駿府城を築く
今川氏から駿河を奪った武田氏も10数年後には織田信長によって滅ぼされました。
武田氏がいなくなった後の駿河は徳川家康のものとなっています。
家康は駿河を得ると、それまで居城としていた浜松城から駿府へと移ってきました。そしてもともと今川氏の館が建っていた場所に駿府城を築城しています。
この時期に家康が建てた駿府城がどんなお城だったのかは、現在ではわかりません。のちに江戸幕府を開いた家康が、駿府城を天下人にふさわしいお城へと大改修しているため、以前のお城の形は失われているからです。
中村一氏が金箔瓦を使った天守を建てる
豊臣秀吉が関東の戦国大名・北条氏の小田原城を攻め滅ぼすことで天下統一を成し遂げました。
秀吉は北条氏がいなくなった後の関東を家康に与えました。そのためにそれまで家康が持っていた領地は秀吉によって、取り上げられてしまいました。
家康が関東へ移った後の駿府では、中村一氏(かずうじ)が城主になっています。一氏はもともと秀吉の家臣で、秀吉政権の三中老のひとりとして活躍していた人物でした。
最近の発掘調査によって、一氏が城主を務めていた時期に築かれた天守台が発見されました。そしてこの天守台の付近から金箔が付いた瓦が発見されています。
秀吉は駿府城を金箔瓦を使ったお城・天守にすることで、家康を牽制していたとも。江戸を本拠地にしていた家康は、京都・大坂にいる秀吉のもとへ行く際には駿府城を通ることになります。その際にいやでも金箔瓦が輝いている駿府城を家康は見ることになり、秀吉が家康との力の差を誇示していたと考えられています。
江戸時代の駿府城
天下人になった家康が隠居城として駿府城を大改修
秀吉の死後、天下への野望を隠さなくなった家康は、石田三成と対立。関ヶ原の戦いで石田三成の西軍を破って、政治の実権を握っています。
関ヶ原の戦いの後、家康は大名の配置転換を行ないました。敗れた西軍の大名から領地を取り上げ、家康の東軍に味方していた大名へ与えていきました。この時、家康は駿河と駿府城を徳川家のものにしていました。
家康は将軍になって江戸幕府を開きました。しかし約2年で将軍を息子の秀忠に譲っています。そして家康は駿府城へ移り隠居しました。
家康は駿府城を天下人にふさわしいお城へと天下普請で改修していきます。天下普請とは家康のための築城工事を、徳川家だけでなく複数の大名に課すことです。
このときに築かれた天守は高さ約33mあったとされていて、現存天守で一番大きな姫路城大天守(31.5m)よりわずかに大きい天守でした。(石垣を除いた建物部分だけの高さ)
天下人家康が駿府城で亡くなる
家康が天下人になり江戸幕府を開いたといっても、大坂城には秀吉の子・秀頼がいました。
中学の歴史の授業で、江戸幕府は敵対する恐れのある大名を外様大名として江戸から遠い西日本に追いやっていたと、習いました。この外様大名たちには、もともと秀吉家臣から大名へと出世した武将が多くいました。
なので家康が秀頼を攻めて豊臣家を滅亡させようとすると、西日本の外様大名たちは団結して徳川家に反抗する恐れがありました。
そこで家康は駿府城を隠居城としながらも、西から攻めてくる敵を想定して江戸を守る役目を駿府城に持たせていました。
しかし家康が想定していた事態になることはなく、家康は大坂冬の陣、夏の陣で豊臣家を滅ぼしています。そして翌年家康は駿府城で亡くなりました。伊達政宗などの大名が病に倒れた家康を見舞うために、駿府城を訪れています。
城下からの出火によって天守も焼失した駿府城
駿府城は何度も火事の被害にあっています。
家康の業績を記した「当代記」には駿府城が9回もの放火にあっていたと記されています。放火があった時期はまだ家康が生きていて、駿府城を改修していた頃。放火によって完成間近だった天守が燃えたり、逃げ遅れた人が亡くなるなどがありました。
放火犯とされたのは駿府城で働く女中・女官でした。犯人とされた人は火あぶりされたり、島流しの刑にあっています。
3代将軍・家光の時代には、城下で発生した火災が駿府城へ飛び火。天守を含むほとんどの建物が焼失しました。
火災後、駿府城は櫓や門などは再建されていきました。しかし城主である将軍は江戸にいるため、天守や御殿は不要とされて再建されることはありませんでした。
明治・昭和・平成の駿府城
陸軍の施設となった駿府城、石垣や堀が埋められる
江戸時代が終わって明治時代になると、全国でお城の建物は取り壊されていきました。
駿府城も例外ではなく、大手御門や櫓などが民間へ払い下げられて解体されていきました。
陸軍の管轄となった駿府城では陸軍の施設を建てるために広い土地が必要になり、天守台石垣は壊され、内堀も埋められています。
戦後は公園に整備され、門や櫓が復元される
戦後になると駿府城の本丸・二の丸は駿府公園として整備されていきます。三の丸には静岡県庁や静岡県警察本部などの庁舎や公共施設が建てられています。
昭和から平成にかけて復元工事が行われていて、1989年には巽櫓と土塀が再建。96年に東御門の櫓門と高麗門(こうらいもん)、多門櫓(たもんやぐら)が、2014年には坤櫓(ひつじさるやぐら)が再建されています。
これらの再建された建物は発掘成果と江戸時代の資料をもとに当時と同じ技法を用いてい再建され、巽櫓は3年かけて完成されました。
発掘調査によって家康と一氏の天守台が発見される
駿府城の天守台は明治に壊されています。
静岡市はかつて天守が建てられていた場所の整備方針を決定するために、事前に発掘調査で天守台の位置や大きさ、現在の石垣の状況などの学術的データを得ることにしました。発掘調査は2016年から2020年まで行われます。
この発掘調査によって、地下に埋められていた家康が築いた天守台の位置と大きさが判明し、家康が築いた駿府城の天守台は日本一の大きさだったことがわかりました。
また家康の天守台付近から別の天守台も発見されています。この天守台は石垣の積み方が家康のものとは違うことなどから、中村一氏が城主だったころの天守台だとされています。天守台付近から金箔瓦も発見されています。この瓦は家康が駿府城を改修する際に中村一氏の天守台を解体し埋めたものです。
スポンサーリンク駿府所の歴史年表
1337 | 初代・今川範国が駿河守護に任命される 駿河が今川氏の領地に |
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1549 | 徳川家康が今川氏の人質として駿府で暮らす |
1561 | 桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にする |
1568 | 武田信玄が今川氏の駿河へ侵攻、70年までに駿河を支配下にいれる |
1582 | 織田信長によって武田氏が滅亡 駿河は徳川家康の領地に |
1585 | 徳川家康が駿府城を築城 翌年には浜松城から本拠を移す |
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1590 | 秀吉によって北条氏が滅亡 家康は関東・江戸へ移り、駿河へは中村一氏が入る |
1600 | 関ヶ原の戦いが起き、徳川家康は石田三成の西軍を破る |
1601 | 家康の異母弟・内藤信成が駿府城主になる |
1607 | 家康が駿府城を天下普請で拡張 工事中に家事によって天守・御殿などが焼失 |
1608 | 本丸御殿・天守が完成 |
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1609 | 家康の十男・頼宣が駿府城主になる |
1616 | 家康が駿府城で亡くなる |
1619 | 頼宣が和歌山城へ移り、紀州徳川家をつくる |
1624 | 3代将軍・家光の弟・忠長が駿府城主に |
1631 | 忠長が乱心したとして、家光によって領地を没収され謹慎に |
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1632 | 忠長が切腹 駿河は幕府領となり、駿府城には城代・定番がおかれる |
1635 | 城下町の火災が駿府城へ延焼し、天守などほとんどの建物が焼失 |
1638 | 櫓・門などが再建されるが、天守・御殿は再建されなかった |
1868 | 15代将軍・慶喜が隠居し、養子の家達が駿府藩主として駿府城に入る |
1896 | 陸軍の駐屯地となって、建物はすべて取り壊される |
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1949 | 大蔵省より静岡市に払い下げられ、駿府公園として整備される |
1989 | 辰巳櫓を復元、資料館として公開される |
1996 | 東御門を復元、資料館として公開される |
2012 | 駿府公園を駿府城公園に改称する |
2014 | 坤櫓を復元 |
駿府城の歴史 まとめ
今回は駿府城の歴史を紹介しました。いかがでしたか?
駿府(静岡市)は家康が幼少期を過ごしていた場所で思い入れがあり、家康は最後のお城を駿府城にしたのかもしれません。駿府城は家康の一番好きなお城だったのではないでしょうか?
お城の歴史を知ることで、違ったお城の見方を発見することができることもお城の面白いところですね。
最後にもう一度ポイントをまとめておきます。
- もともとは今川義元の館が建っていた
- 中村一氏が金箔瓦を使った天守を建てる
- 天下人・家康が隠居城として大改修、巨大な天守台に変わった天守を建てる
- 発掘調査によって家康と一氏の天守台が発見される