お城の歴史

政宗側近の片倉景綱のお城【白石城の歴史】を戦国〜現在までまるっと解説!

解説!白石城の歴史
お城好きな武将
お城好きな武将

宮城県の続100名城の一つの白石城にはどんな歴史があるの?

白石城は誰が城主で?どんな戦いがあったのかなど知りたいな!

今回は「白石城の歴史」を紹介していきます。

この記事を書いているのはこんな人

ゆうき
  • 本ブログで100記事以上を執筆
  • お城の面白さをみんなともっと共有したい思いからブログ・YouTube・Twitterでお城の情報・知識を発信しています。

YouTubeチャンネル「日本の城」

この記事では下記のポイントで白石城の歴史を紹介していきます。

白石城の歴史のおもなポイント
  • 白石城を拠点に攻めていくつもりだった伊達政宗の関ヶ原
  • 伊達政宗の右腕・片倉景綱が城主になって白石城を大改修
  • 120年ぶりに木造復元された白石城の大櫓

それでは白石城の歴史を紹介していきます。

Contents

白石城とはどんなお城?

白石城の場所白石城の場所

宮城県の白石市にあって続100名城に選ばれている白石城。

白石城は戦国時代に伊達政宗の右腕として活躍した片倉景綱が城主だったお城で、江戸時代の一国一城令のあとでも例外的に認められたお城でした。

現在の城跡は「益岡公園」となっていて、天守の代わりだった大櫓や城門が木造で復元されています。

また公園内には200本もの桜が植えられていて、桜の名所にもなっています。

2021年には白石城大櫓を眺めながらキャンプができる「城キャン」が開催されるなど、お城観光を促すさまざまな取り組みが行われています。
白石で初の「城キャン!」本丸広場にテント|河北新報オンラインニュース

スポンサーリンク

白石城の歴史

ここからは白石城の歴史を戦国時代から現在までを順に紹介していきます。

戦国時代までの白石城

平安時代に築かれ、室町時代には伊達氏の支配下にあった白石城

白石城の大櫓白石城の大櫓

白石城の始まりは平安時代までさかのぼります。

1083年に東北地方で行われた「後三年の役」で手柄を挙げた藤原経元が1091年に築城したのが始まりと伝わっています。

室町時代になると地元の武士・白石氏の居城になっていました。居城とはいっても武家屋敷ほどの大きさだったと考えられています。

戦国時代になると、白石氏は伊達政宗の祖父・伊達晴宗のときから家臣になっていました。

なので白石城周辺も伊達氏の支配下にありました。

秀吉の奥州仕置で白石城を取り上げられた伊達政宗

桜と白石城大櫓桜と白石城大櫓

戦国時代を通して、白石城は伊達氏の支配下にありました。

転機となったのが豊臣秀吉による天下統一。

秀吉は小田原城の北条氏を滅ぼした後、東北地方の大名の領地再配置「奥州仕置」を実施しています。

これによって伊達政宗は白石城や会津若松城(黒川城)を取り上げられることに。

これらのお城は新しく会津の領主となった蒲生氏郷に与えられています。

氏郷が会津若松城の城主になると、白石城は家臣・蒲生郷成に任せました。

郷成は白石城を改修することで、北側で領地を接している伊達政宗への守りを固め警戒しています。

蒲生氏郷が亡くなると、代わって上杉景勝が越後からやってきて、白石城へは家臣の甘糟清長を入れています。

白石城を拠点に攻めていくつもりだった伊達政宗の関ヶ原

特徴的な白石城本丸の出入口特徴的な白石城本丸の出入口

1598年に豊臣秀吉が亡くなると、石田三成や徳川家康などが対立を深めていきます。

そんな中、1600年に上杉景勝に謀反(反逆)の疑いがかかりました。

そして徳川家康は景勝の領地・会津を攻めることを決定。大名を集めて上杉景勝への攻撃を命じました。

景勝の会津と領地を接していた伊達政宗は、家康から信夫口(福島市周辺)の守備を命じられます。合戦の準備のために、政宗は他の大名に先駆けて自分の領地へ戻っていきました。

政宗は当初白石城を攻め落として、ここを拠点に上杉領へ攻めていく作戦を考えていたという。

1600年7月24日、伊達政宗は白石城を包囲し、午後2時から総攻撃を開始。

白石城を守備していた武将の中には、かつて政宗によて滅ぼされた大名の家臣もいました。

伊達軍の激しい攻撃によって、その日のうちに白石城は本丸を残すのみとなります。

そして白石城を守備していた登坂勝乃は降伏を決意。降伏に反対する武将を殺害した上で、翌25日に政宗に降伏しました。

政宗はわずか2日間で白石城の攻略に成功。そして白石城から上杉領へ攻め込むつもりでした。

しかし政宗が白石城を落とした同じ日に、家康は小山(栃木県)で上杉景勝への攻撃中止を決めていました。(小山評定)
近畿地方で石田三成が家康に対抗して挙兵していたためです。

家康ら東軍は石田三成と戦うために近畿地方へ向かうので、家康は政宗へ勝手な行動をしないように命令。

その後は上杉軍が山形の最上義光のお城(長谷堂城)を攻めたので、政宗は援軍を送ったり、福島城を攻撃したりしています。

しかしながら関ヶ原での本戦がわずか1日で終わったこともあって、政宗は白石城しか手に入れることができませんでした。

江戸時代の白石城

伊達政宗の右腕・片倉景綱が城主となり白石城を大改修

片倉景綱によって改修された白石城片倉景綱によって改修された白石城

関ヶ原の後、白石城が政宗のお城になると、最初政宗のおじ・石川昭光が白石城に入ります。

1602年には政宗側近の片倉景綱が白石城の城主になり、ここから明治まで片倉氏が白石を治めていきます。

景綱は白石城を大改修して石垣や天守の代わりとなる「大櫓」などを整備、城下町も発展させていきました。

本丸北西に建てられた「大櫓」は高さ16.7mで現存する宇和島城、高知城天守と同等の大きさ。
白石城は仙台城を補佐する支城という立場のため、天守と呼ばずに大櫓と呼んでいました。

一国一城令でも許された仙台藩の白石城

復元された大手ニノ門復元された大手ニノ門

1615年に一国一城令が出されると大名・藩は基本的にお城は1つだけとなり、その他のお城は壊さなくてはいけません。

しかし伊達家の仙台藩では仙台城と白石城の2つのお城を持つことを例外的に許されました。

江戸時代の白石城本丸には、仙台藩主が宿泊する御成御殿、城主・片倉氏が使う表御殿・奥御殿などが建てられています。

1819年には火災で大櫓など本丸が焼失。その後1823年に大櫓が再建されてました。
この他にも地震で石垣が崩れるなどの被害が何度かあり、そのたびに修復されてきました。

幕末明治の白石城

白石城で結成された奥羽越列藩同盟

白石城の土塀と石垣白石城の土塀と石垣

1868年、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争が始まりました。

東北・北陸地方の藩は長州・薩摩藩を中心とする新政府軍に対抗するため、藩の代表が白石城に集まり「奥羽越列藩同盟」を結成。

しかしながら新政府軍を相手に会津戦争など東北各地で敗北していきます。

翌69年になると新政府軍は白石城を占拠し、南部藩の管理下におきました。

1874年になると大蔵省によって白石城の建物は民間へ払い下げられ取り壊されることに。

建物の売却代金は旧藩主・片倉家の北海道への移住費用に充てられたといいます。

この時の取り壊しを免れて移築された建物が白石市内に残っていて、厩口(うまやぐち)門が延命寺に、東口門が当信寺に残っています。

明治末には城跡は「益岡公園」として整備され、1915年(大正4)には片倉景綱の偉業をたたえて本丸跡に「片倉小十郎景綱公頌徳碑(しょうとくひ)」が建てられました。

現在の白石城

120年ぶりに木造復元された白石城の大櫓

120年ぶりに再建された白石城大櫓120年ぶりに再建された白石城大櫓

昭和の終わり1988年に、かつて白石城にあった「大櫓」の復元が市の政策として提案され、「できる限り旧白石城と同じ規模と建築方法による復元を目指す」ことになります。

1990年から城跡の発掘調査が始められ、この調査の結果や「白石城本丸屋形図」などの絵図、文献などをもとに1995年に「大櫓、大手一ノ門、大手ニノ門、土塀」が復元されました。

大櫓が再び建てられたのは、明治に取り壊されて120年ぶりのことでした。

復元された大櫓は古くから伝わる建築様式・方法に基づいて建てられていて、この復元方法は学術的にも高い評価を得ています。

2011年の東日本大震災では白石市も震度6を記録。

これによって白石城も大櫓や城門に亀裂が入り、屋根瓦が落ちるなどの被害がありました。幸いにも石垣に被害はありませんでした。

復旧工事が行われて、2012年末には大櫓、大手ニノ門、土塀の修復作業が完了し、もとの大櫓の姿に戻っています。

スポンサーリンク

白石城の歴史年表

1091年ころ 藤原経元が白石城を築いたと伝わる
中世 白石氏の居城になる
1590 豊臣秀吉の天下統一
1591 伊達政宗は白石城などを取り上げられ、蒲生氏郷は家臣蒲生郷成を白石城に入れる
1598 上杉景勝の領地となり、家臣甘糟清長が白石城に入る
1600 関ヶ原の戦い
政宗が白石城を攻撃して奪取。戦後に伊達領になり、石川昭光が入る
1602 政宗側近の片倉景綱が白石城の城主になる
1603 景綱の息子・重長が白石城へ入り、城下町を整備する
1605 景綱が白石城へ入る
1615 一国一城令が出されたけど、白石城は例外的に認められる
1673 地震によって石垣が崩れる
1819 火災により大櫓など本丸が焼失
1823 大櫓が再建される
1868 戊辰戦争が始まり、白石城で奥羽越列藩同盟が結成される
1869 白石城は南部藩へ引き渡される
1873 廃城令が出される
1874 白石城の建物が民間へ払い下げられ、取り壊される
1900 城跡が益岡公園として整備される
1915 本丸跡に片倉景綱の頌徳碑が建てられる
1988 大櫓の復元が市の政策として提案される
1990 城跡の発掘調査が始まる
1995 発掘調査や絵図などの資料をもとに大櫓、大手一ノ門、ニノ門、土塀が復元される
2011 東日本大震災で大櫓などが被害を受ける
2012 震災からの修復工事が完了する
スポンサーリンク

白石城を見学しに行こう!

今回は「白石城の歴史」を紹介しました。

もう一度ポイントをおさらいしておきます。

  • 白石城を拠点に攻めていくつもりだった伊達政宗の関ヶ原
  • 伊達政宗の右腕・片倉景綱が城主になって白石城を大改修
  • 120年ぶりに木造復元された白石城の大櫓

お城それぞれの歴史を知っていると、お城めぐりもより楽しくなるので気になるお城の歴史を知れべてみるのはいかがですか。

お城の歴史を知って、もっとお城めぐりや歴史ドラマ、ゲームなど楽しんでいきましょう。

白石城へのアクセス

参考書籍+オススメ書籍