断崖絶壁に築かれた石垣のお城としても有名な岡城にはどんな歴史があるの?
岡城は誰が築城したのか?戦いがあったのかなど知りたいな!
今回は「岡城の歴史」を紹介します。
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この記事では下記のポイントで岡城の歴史を紹介していきます。
- 島津氏の九州制覇を阻止した岡城と志賀親次
- 岡城を改修して石垣の名城にした中川秀成
- 本来の姿を見て実感できるように整備が進められている岡城
それでは岡城の歴史を紹介していきます。
Contents
岡城とはどんなお城?
岡城は大分県竹田市にある100名城。
阿蘇山の溶岩でできた標高325mの台地上に築かれた山城で、麓を流れる2本の河川(稲葉川、白滝川)に囲まれ守られています。
明治時代になってお城の建物はすべて取り壊されてしまったため、現存する建物はありません。けれど断崖絶壁に築かれた高石垣などが残されていて、石垣の名城として有名です。
また竹田市出身の明治時代の作曲家、滝廉太郎が岡城をイメージして「荒城の月」を作曲したのは有名なエピソード。
また城内にはたくさんの桜の木があり『日本さくら名所100選』にも選定され、毎年4月上旬には大名行列が行き交う「岡城桜まつり」が開催されています。
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ここから岡城の歴史を戦国時代〜現在まで順に紹介していきます。
戦国時代の岡城
岡城は源義経をかくまうために築城された!?
岡城がいつ、誰によって築城されたのかはハッキリしていません。いくつかの言い伝えはあるものの、どれも信憑性に欠けるからです。
その中でも有名な言い伝えが源平合戦の頃に源頼朝に追われる源義経をかくまうために築城されたという説。
1185年に緒方惟栄(これよし)によって岡城が築城されたという説で、兄・頼朝によって討伐対象にされてしまった弟・義経を惟栄が岡城にかくまおうとしました。
しかしながら、惟栄自身が京都から九州へ向かう途中で嵐にあって失敗。惟栄は捕らえられ、上野国(群馬県)沼田へ流罪になっています。
そして岡城へ逃げることができなくなった義経は奥州藤原氏を頼って、東北へ逃げていきました。
もう一つの岡城築城の言い伝えは、室町時代初期(南北朝時代)に後醍醐天皇の命で城が拡張されたという説。
1334年、大友氏の分家・志賀貞朝が後醍醐天皇の命を受けて岡城を拡張したといいます。また「岡城」という名前もこの頃に付けられたという。
しかし志賀氏がこの地域に進出してきたのは、30年後の1369年以降とされていてつじつまが合いません。実際に貞朝が拡張したお城は木牟礼(きむれ)城だったとの説もあり、まだわからないことが多いのが実情です。
島津氏の九州制覇を阻止した岡城と志賀親次
岡城を舞台に行われた合戦が1586〜87年にかけて大友氏(豊後)と島津氏(薩摩)が争った豊薩戦争。
戦国時代後半の九州では大友・龍造寺・島津の3氏が覇権を争っていました。ところが島津氏が1578年の耳川の戦いで大友氏に勝利し、続く84年の沖田畷の戦いでは当主・龍造寺隆信を討ち取る戦果をあげて、島津氏の一人勝ち状態になっていきます。
そんな中、四国を平定していた豊臣秀吉は島津氏の力がこれ以上強大になることを恐れていたし、存亡の危機に陥っていた大友宗麟は秀吉に援軍を求めていました。
秀吉は関白の地位や天皇の名前を出して、島津氏・大友氏に停戦命令を出し、領土分割案を提示。しかし分割案は大友氏に有利なもので、自力で領地を勝ち取ってきた島津氏には納得できるものではありませんでした。
秀吉の領土分割案と大友氏にNOをつきつけるために島津氏が起こしたのが先程の「豊薩戦争」です。
1586年10月に大友氏との決着をつけるために島津氏は豊後国(大分県)へ侵攻。島津軍は二手に分かれて、肥後(熊本県)からは島津義弘が、日向国(宮崎県)から島津家久が豊後へ攻めていきました。
島津氏が侵攻してくると岡城城主の志賀親次の父親・親度(ちかのり)や地元領主の南郡衆は島津軍へと寝返り。周囲が寝返っていく中で、城主・志賀親次は大友氏に残って戦うことを決意します。
島津義弘が3万を超える軍を率いて侵攻してくると、親次は1000人の兵士で岡城に籠城。猛攻撃にびくともしない岡城を見た島津義弘は、岡城の監視のための兵を置いて府内へ向かっていきました。
その後も岡城と親次は3度にわたって島津軍の攻撃を跳ね返し、落城しませんでした。
岡城が島津軍の攻撃に耐えている間に豊臣秀吉が20万の兵を連れて九州へ進出。島津軍は秀吉軍に降伏し、九州は平定されました。
わずかな兵で島津軍の侵攻を阻止した志賀親次を島津義弘は「天正の楠木正成」と絶賛し、秀吉は岡城での合戦を聞いて「世の中には堅固な城があるものだ」と感嘆したと伝えられています。
岡城を改修して石垣の名城にした中川秀成
秀吉の九州平定によって助かった大友氏だったけど、その後の朝鮮出兵(文禄の役)で敵前逃亡をして秀吉を怒らせてしまったため領地を没収されてしまいます。
家臣だった志賀親次も岡城と領地を失ってしまったものの、秀吉は親次の才能を惜しんで領地を与えようとしました。しかし親次はこれを断って、のちに福島正則のもとに身を寄せていました。
親次に代わって城主になったのが中川秀成(ひでしげ)。秀成の父・清秀は山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いで活躍した武将でした。
秀成はすぐに岡城の大改修を実施、1597年に完成させています。この時に本丸や二の丸などを増築し、三の丸御殿や天守代用の御三階櫓を建てていました。
秀成は志賀氏時代の岡城から西へ拡張、石垣を築いて現在に見られる岡城を造りました。(現在の御廟所跡が志賀氏時代の岡城の中心部でした)
また秀成はお城の正門・大手門の位置を西向きに変えて、登城ルートを変更しています。この変更は加藤清正の助言を採り入れたためといいます。
江戸時代の岡城
火災や災害のたびに再建復旧されてきた岡城
江戸時代の岡城は城主が交代することなく、明治まで中川氏が治めていきます。
2代目久盛は清水門を整備し、3代目久清は重臣屋敷があった場所に新たに西の丸を築いて御殿を建設。
1684年には御廟所が作られ、先祖代々の位牌を安置する御所と藩祖中川清秀をまつった荘厳社がありました。
岡城は江戸時代を通じて火災や自然災害にあうことも多く、その度に再建復旧されています。(明和の大火、寛政の大火、嘉永の大地震など)
1771年の火災によって本丸・二の丸などの建物が焼失。秀成が建てた御三階櫓も焼失していたけど、74年に2代目となる御三階櫓が再建され明治まで残っています。
明治時代の岡城
廃城令で建物が壊され、滝廉太郎は岡城から荒城の月を作曲
明治時代になると廃城令が出されて、全国のお城で建物が取り壊されていきました。
岡城も例外ではなく、1874年にすべての建物が取り壊されています。
明治時代の音楽家、滝廉太郎は幼少時代を竹田市ですごしていました。廃城令で建物が壊されて荒れていた岡城に登って遊んでいたといいます。
この幼少時の経験から、のちに作曲する「荒城の月」の着想を得て作曲しました。
現在の岡城
本来の姿を見て実感できるように整備が進められている岡城
現在の岡城は史跡としての価値を認められて、1936年に国の指定史跡に登録されて保存されています。
2016年には竹田市で「全国山城サミット」が開催され、19年にNHKで放送された「日本最強の城スペシャル第3弾」の番組内で岡城が最強の城に選出されました。
TV放送の影響もあって、2019年の来城者は18年と比較して1万5千人も増えるなど、注目を集めているお城の一つです。
2016年の熊本地震では岡城でも石垣に被害がありました。竹田市は被害を受けた石垣の修復、さらに樹木の伐採なども行うなど、岡城の本質的価値である石垣の「見える化」を進めたことで、山の地形を活かして築かれた岡城の石垣が見ることができるようになってきました。
岡城本来の姿を見れ、実感できるように整備が進められています。
岡城の歴史年表
1185 | 緒方惟栄が源義経をかくまうために築城か |
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1334 | 志賀貞朝が後醍醐天皇の命で城を拡張か この頃から「岡城」と呼ばれるように |
1586 | 豊薩戦争、志賀親次が籠城し島津軍を撃退。 |
1593 | 大友義統が領地を没収されたことに伴って、親次も岡城を失う |
1594 | 中川秀成が城主に、城の改修に着手する |
1597 | 高石垣を持った現在に見られる岡城が完成 御三階櫓、三の丸御殿なども建てられる |
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1613 | 大手門の位置を下原門から現在の位置に変更 |
1663 | 西の丸が新たに造られ、西の丸御殿が建てられる |
1684 | 御廟所が造られる |
1771 | 火災によって本丸・二の丸などの建物が焼失 |
1774 | 2代目御三階櫓が再建される |
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1779 | 西の丸御殿が再建される |
1874 | 廃城令によってすべての建物が取り壊される |
1901 | 荒城の月が発表される |
1936 | 岡城が国の指定史跡になる |
2016 | 熊本地震で石垣に被害が出る 全国山城サミットが開催される |
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2019 | NHK「日本最強の城スペシャル第3弾」で最強の城に選出される |
岡城へのアクセス
- 大分県竹田市大字竹田2889
- 電車・バスでの行き方:JR豊後竹田駅より大野竹田バス市民病院行き 「岡城入口」バス停で下車
- 電車・徒歩での行き方:JR豊後竹田駅より徒歩20分
- クルマでの行き方:大分自動車道「大分光吉IC」より約60分
- 詳しくはこちら「アクセス情報ー国指定史跡 岡城跡」
岡城を見学しに行こう!
今回は「岡城の歴史」を紹介しました。
もう一度岡城の歴史のポイントをおさらいしておきます。
- 島津氏の九州制覇を阻止した岡城と志賀親次
- 岡城を改修して石垣の名城にした中川秀成
- 本来の姿を見て実感できるように整備が進められている岡城
お城それぞれの歴史を知っているとお城めぐりもより楽しくなるので、気になるお城の歴史を知れべてみるのはいかがですか。
お城の歴史を知って、もっとお城めぐりや歴史ドラマ、ゲームなど楽しんでいきましょう。