今回は「丸岡城の歴史」について解説します。
- 丸岡城の歴史をおおまかに知りたい人
- お城に興味を持ち始めた人
- 丸岡城へ行く前に予習しておきたい人
- 丸岡城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人
まずは丸岡城の歴史のポイントを3つ紹介します。このポイントのところだけ読んでも歴史の流れはつかめます。
- 柴田勝家の甥っ子・勝豊が丸岡城を築城
- 福井藩から独立して丸岡藩が成立
- 調査によって天守の築造年代が判明
丸岡城の歴史に詳しくなって、お城巡り・観光も楽しんでいきましょう。
Contents
丸岡城ってどんなお城?
まずは丸岡城とはどんなお城なのか紹介します。
丸岡城とは福井県坂井市にあるお城。江戸時代の天守が現存しているお城は12ヶ所あり、北陸では丸岡城だけです。
丸岡城は現在「霞ヶ城公園」として整備。公園には約400本ものソメイヨシノが植えられていて、さくらの名所100選にも選ばれています。そして夜間ライトアップされた桜と天守を楽しむことができます。
丸岡城は別名「霞ヶ城」と呼ばれています。これは戦国時代に、丸岡城が敵に襲われそうになると、天守横にある井戸から大蛇が出てきてお城に霞をかけて守ったという話からきています。
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ここからは戦国時代〜昭和・平成までの丸岡城の歴史を紹介していきます。
戦国時代の丸岡城
柴田勝家の甥っ子・勝豊が丸岡城を築城
丸岡城が築城されたのは1576年。柴田勝家の甥っ子・勝豊が築城しました。柴田勝家は織田信長の家臣として、越前国(福井県)を拠点にして北陸地方で戦っていました。勝家の居城は北庄城で、丸岡城は北庄城を守るお城(支城)としての役割で築城されています。
築城から6年後、明智光秀が信長を討った本能寺の変が起こります。本能寺の変で信長と跡継ぎの信忠が死んでしまったので、後継者を決める会議が清洲城で行われました(清洲会議)。この会議で柴田勝家は越前と近江国の北部を領地として与えられました。
そのため、柴田勝豊は丸岡城から長浜城へ移り、丸岡城では安井家清が新たに城主になりました。
その後、信長亡き後の織田家内での主導権争いで、勝家は居城の北庄城を豊臣秀吉に攻められ自害。越前は丹羽長秀が治めることになり、長秀家臣の青山宗勝が丸岡城になりました。
宗勝の息子・忠元が城主になっていたときに関ヶ原の戦いが起きます。そして忠元は西軍として行動。そのため戦いに敗れた忠元は領地とお城を没収されてしまいます。
丸岡城の人柱、お静の涙とは?
柴田勝豊が丸岡城を築城していた時、築こうとしていた石垣が何度も崩れてしまい困っていました。
そこで勝豊は人柱を入れることにしました。息子を抱えて生活に苦労していた「お静」は、息子を武士として家臣に取り立てるという条件で人柱になることに。
お静が人柱になったおかげで、その後丸岡城は無事完成。しかし柴田勝豊は長浜城へ移ることになり、結局お静の息子は武士にしてもらえませんでした。
その後、田植えの時期になると大雨になり、丸岡城の堀から水があふれるほどだったと言います。そして住民たちはその大雨のことを「お静の涙」と呼ぶようになりました。
現在でも丸岡祭(国神神社春季祭礼)の時期は天候が悪く、雨が多いといいます。
江戸時代の丸岡城
福井藩から独立して丸岡藩が成立
関ヶ原の戦いのあと、丸岡城のある越前は徳川家康の次男・結城秀康に与えられました。そして結城秀康は北庄城(のちの福井城)を居城にし、丸岡城には家臣の今村盛次が入ります。
その後、結城秀康は31歳という若さで亡くなってしまったので、跡を継いだのはまだ13歳の長男・松平忠直でした。そして幼い主君の下で今村盛次と本多富正という家臣との間でお家騒動が発生。この騒動は最終的に家康の裁定に委ねられ、今村盛次は追放され、新たに本多成重が丸岡城主になりました。
成重の主君・松平忠直が成長した頃に、家康が大坂城を攻めて豊臣氏を滅した「大坂冬の陣・夏の陣」が勃発。忠直は合戦で活躍し、戦功をあげることができました。しかし忠直は戦功に対する恩賞に対して不満がありました。そして次第に乱行が目立つようになり、江戸幕府に対して反抗的になっていきました。その結果、幕府は忠直に隠居を命じました。
忠直が隠居したことをキッカケに福井藩から独立して丸岡藩が成立。本多成重が初代藩主になりました。
その後、本多氏は長くは続かず、4代目重益の時にお家騒動が原因で領地とお城を没収されています。代わって城主になったのが有馬清純。以降明治時代まで有馬氏が丸岡を治めていきます。
明治時代の丸岡城
廃城令によって丸岡城の建物も取り壊される
幕末・明治維新の動乱のあと、明治政府が成立し明治時代になりました。
明治時代になると廃藩置県や廃刀令など江戸時代までの制度が大きく改められていきました。お城も例外ではなく、政府から廃城令が出されて陸軍の施設として存続するお城と廃城処分にするお城とに分けられました。
丸岡城は廃城となり、お城の敷地、建物や樹木などが払い下げられていきました。天守も落札されていたけど、地元の有志たちの協力によって買い戻すことで取り壊しは免れました。しかし天守以外の建物はすべて取り壊されていきました。
丸岡城を囲んでいた堀は、明治末から始まった開墾によって大正〜昭和の間に埋められ水田などになりました。
丸岡城の天守は1901年に丸岡町に寄贈され、公会堂になりました。そしてこの頃、天守最上階の部分修理も行われています。
昭和・平成の丸岡城
福井地震によって天守が倒壊
昭和になると丸岡城天守は旧国宝に指定されています。
1941年から3年かけて解体修理が行われています。しかし、当時は太平洋戦争中で、銅が手に入りませんでした。そのため、もともと銅板を張り合わせていたシャチホコが作れず、この時は石製のシャチホコが天守に載せられました。
戦後になると丸岡城を福井地震が襲います。福井地震とは1948年6月28日に現在の坂井市丸岡町付近を震源とするM7.1の地震。
震源地が丸岡城の近くだったこともあって、天守は石垣とともに倒壊。最上階の屋根の一部が原型を留めているだけでした。
倒壊した天守の部材は保管されて、天守を復興する際に再利用されています。3年間の修理・復興期間を経て1955年に天守が完成しました。
戦時中の修理で石造りのシャチホコが載せられていたけど、震災後の復興の際にもともとの銅板でシャチホコが作り直されました。石造りのシャチホコは現在も天守入り口の脇に展示されています。
丸岡城天守は現存最古の天守なのか?
坂井市教育委員会が2015〜18年に天守を調査しています。この調査の結果、丸岡城天守の創建時期が判明しました。
丸岡城天守は望楼型とよばれる天守の形式をしていること、1階と2・3階をつなぐ通し柱がなく下層と上層が構造的に一体でないことなど、建築様式が古いことから、天守の創建時期も古いだろうとされていました。
そのために天守は柴田勝豊が丸岡城を築城した1576年ころに建てられ、現存最古の天守ではないかとされていました。
今回の調査では天守に使われている木材を「年輪年代法」「放射性炭素年代測定法」で調べました。この2つの方法によって天守に使われている木材がいつ伐採されたものなのかがわかります。
そして調査の結果、天守に使われている木材は1620〜26ころに伐採されたものだと判明しました。
1576年ころの創建とされていた天守が、約50年あとの時代に建てられたことになります。なので丸岡城天守は最古の天守ではありません。
しかし1620年ころに建てられた他の天守と比較すると、丸岡城天守は古い建築様式を採用しています。「なぜ丸岡城では古い建築様式の天守を建てたのだろうか?」という謎が新たにでてきました。
スポンサーリンク丸岡城の歴史年表
1576 | 柴田勝家の甥っ子・勝豊が丸岡城を築城 |
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1582 | 本能寺の変で織田信長が亡くなる 清洲会議の結果、勝豊は長浜城へ移り、安井家清が丸岡城手に |
1583 | 賤ヶ岳の戦い。丹羽長秀家臣の青山宗勝が丸岡城主に |
1585 | 丹羽長秀が亡くなり、宗勝は直接秀吉に仕えることに |
1587 | 宗勝死去。子の忠元が丸岡城主を引き継ぐ |
1600 | 関ヶ原の戦い。西軍として戦った青山忠元は領地とお城を没収される。 結城秀康が越前に入り、今村盛次が2万6000石で丸岡城主に |
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1612 | 今村盛次がお家騒動(久世騒動)で失脚する |
1613 | 福井藩付家老の本多成重が4万3000石で丸岡城主に |
1624 | 松平忠直が隠居させられる。 成重は福井藩から独立して丸岡藩初代藩主に |
1646 | 成重の子・重能が2代目丸岡藩主に |
1695 | 4代目重益がお家騒動で領地を没収され、代わりに有馬清純が5万石で丸岡城主に |
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1871 | 廃城令によって廃城に。天守以外はすべて解体される |
1884 | 丸岡城が民間に譲渡される |
1901 | 天守が丸岡町に寄贈され、城跡は公園に |
1934 | 天守が旧国宝に指定される |
1948 | 福井地震によって天守が倒壊 |
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1950 | 文化財保護法によって、天守が重要文化財に指定 |
1955 | 倒壊した天守を、修復し立て直す |
1990 | 「霞ヶ城公園」として日本さくら名所100選に選ばれる |
2019 | 調査によって、天守の築造年代が1620〜26年頃と判明 |
丸岡城の歴史 まとめ
今回は丸岡城の歴史を紹介しました。
丸岡城は北陸で唯一現存天守があるお城。最古とされていた天守は調査によって、最古ではなくなりました。しかしなぜ古い建築様式の天守を建てたのかという謎が新たに出てきたお城でもありました。
最後にもう一度ポイントをおさらいしておきましょう。
- 柴田勝家の甥っ子・勝豊が丸岡城を築城
- 福井藩から独立して丸岡藩が成立
- 調査によって天守の築造年代が判明
いろんなお城の歴史を知って、お城巡りや歴史ドラマ・小説なども楽しんでいきましょう!