今回はお城をめぐる戦いとして、「西郷隆盛と熊本城の戦い・西南戦争」を解説していきます。
日本には3万~4万ものお城があるといわれていて、そのなかでも天守をもっていたお城はわずか数十ヵ所!
そして天守をもつお城で実際に戦いがあったのはわずかしかありません。(大坂の陣や戊辰戦争での会津若松城など数例)
そのなかでも今回は日本で最後のお城をめぐる戦いである西南戦争・熊本城の戦いを取り上げたいと思います。
- なぜ西南戦争が起きたのか?
- 熊本城が戦いの舞台になったのはなぜ?
- なぜ西郷軍は熊本城を落とせなかった?
では西郷隆盛最後の戦い・熊本城の戦いをみていきましょう!
Contents
なぜ、西郷隆盛は西南戦争を起こしたのか?
まずはじめになぜ西郷隆盛が西南戦争を起こすにいたったのかを追っていきましょう。
明治維新後、西郷隆盛が目指した国家とは??
1867年(明治元年)1月から始まった戊辰戦争を戦いぬいて明治維新を達成後、西郷隆盛は参議(国政を運営していく役職)についていました。
1871年(明治4年)に大久保利通・岩倉具視などがヨーロッパなどを訪問する岩倉使節団として約2年半日本をあけることになりました。
そのとき西郷隆盛は日本に残り、実質的なトップとして国政を任されました。
ですが大久保などがヨーロッパへ出かける前に、西郷とのあいだに「使節団が帰ってくるまでなにもするな」と約束させられました。とはいえ西郷は新しい政府ができてまだ4年、政府の基礎ができていない時期の2年間をなにもしないでむだにすることはできないと考えていました。
そして、西郷は岩倉使節団のいない2年間に徴兵制、地租改正、太陽暦の採用、裁判所設置などの政策を実行していきました。
しかしこれらの政策は使節団との約束を破ったことになり、帰国した大久保などと衝突することになります。
一番衝突が大きかったのが「征韓論」!
当時の朝鮮は鎖国していて日本とは国交がありませんでした。西郷としては日本・中国・朝鮮で連携して近代化を進め、ヨーロッパ諸国の脅威に対抗していこうと考えていたとも言われています。そこで朝鮮には開国して日本と国交を結んでほしいので、西郷自らが大使となって朝鮮へ行くことを決定しました。
ところがヨーロッパから帰国した大久保利通や岩倉具視に朝鮮への使節派遣を反対されてしまいます。そして岩倉具視が明治天皇へ直訴して西郷が決定してた施設派遣を取り下げさせました。
これに怒った西郷は政府での役職を辞任して、鹿児島へ帰ってしまいます。そして、政府や軍のなかにいた西郷を慕っていた人たちも西郷に従って鹿児島へ帰っていきました。
大久保利通による西郷暗殺計画発覚!西郷隆盛はどうする??
西郷に従って鹿児島へもどっていた士族(元武士)は政府の政策(廃刀令など)に不満をもっていました。
そこで西郷は不満をもった士族が反乱をおこしてはいけないと思い、「私学校」をつくり士族をまとめます。学校といっても、軍事演習をおこなうなど兵士養成機関でした。
西郷は政府に対して不信をもっていたけど、反乱を起こすつもりはありませんでした。
しかし政府としても鹿児島に言うことを聞かない軍隊があることは不都合でした。そこで鹿児島に保管されていた火薬などを士族の反乱に利用されないよう、こっそりと持ち出そうと考えました。
しかし事前に私学校の生徒に火薬の持ち出しが発覚し、生徒が火薬庫を襲撃。火薬を奪ってしまいました。
さらに「西郷を暗殺しにきた」というスパイが捕まります。
これに対して私学校では不満が爆発、人望のある西郷でもおさえることができなくなりました。
そこで西郷はしかたなく「政府に西郷暗殺未遂の真相を問いただす」という目的で1万3千人の士族を従えて東京を目指します。
そして西郷と士族1万3千人をくい止めるために、政府が軍隊を派遣したために「西南戦争」が始まりました。
スポンサーリンク熊本城とはどういうお城?
ここでは西南戦争の舞台の一つとなった熊本城についてみていきましょう。
1588年(天正16年)、肥後国(現在の熊本県)の半分19万5千石を豊臣秀吉から拝領した加藤清正が熊本城を築きました。
熊本城は秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)や関ヶ原の戦いなどでの中断期間をはさみながら、1607年(慶長12年)に完成したと言われています。
お城の周囲は約5.3キロメートル。本丸は総石垣で、石垣は高く、勾配をもっていて途中からはほぼ垂直になります。本丸へのルートは複雑に屈曲させ、そのうえやぐら門や石垣の上から敵の頭上を攻撃することができました。
築城当時、やぐら49、やぐら門18、そのほかの門29、井戸は約120あったという。そしてやぐらのうち、5階やぐらが5つあり、5階やぐらは他のお城では天守と言えるほどの大きさがあり、大天守・小天守をふくめて7つもの天守があると言ってもいいお城でした。加藤清正が朝鮮出兵時に、中国・朝鮮軍にお城を取り囲まれたことがあり、そのときの教訓が熊本城に活かされていると言われています。(お城にこもるために井戸を多くつくり、城内に食べることができる実をつける木を植えるなどなど)
熊本城が築かれた土地は、京町台地の先端・茶臼山に築かれていて本丸は城下町から約38メートルの高さにあります。
そして周囲には坪井川・井芹川・白川が熊本城を囲うようにながれていて、天然の堀の役目をしています。
熊本城の弱点は北西側。北西方面は比較的なだらかになっている。加藤清正は弱点を克服するために北西方面へ二の丸・三の丸をつくっていきました。
スポンサーリンクどうして西郷隆盛は熊本城を攻撃したのか?
ここからは西南戦争・熊本城の戦いの経緯をみていきましょう。
1877年(明治10年)2月14日、西郷軍は鹿児島を出発し、東京を目指します。
そして、途中の熊本へは2月21日に到着します。
当時の軍隊は日本を4つのエリアに分けて、それぞれの中心都市に地方警備のための軍隊・鎮台(ちんだい)が置かれていました。
九州地方では熊本城に鎮台が置かれていて九州の警備を担当していました。
このとき熊本城には3千3百の兵がいて、その大半が施行されたばかりの徴兵制によって集められた平民で戦闘経験はありませんでした。
西郷軍としては、熊本城を素通りしては背後を襲われるおそれがあるので熊本城を落とさなくてはいけません。
そのため西郷隆盛は熊本城を落とすために、攻撃を始めます。
熊本城、攻撃開始!
2月21日早朝、熊本城下に侵入した西郷軍にたいして、熊本城側からの発砲で戦闘が始まります。
東西の二手から迫った西郷軍は、鉄砲や大砲の攻撃のあいだに刀や槍での突撃攻撃をくりかえします。
しかし熊本城へ侵入することはむずかしく、この日は撤退します。
もともと西郷隆盛は「大久保利通に西郷暗殺計画の真相を問う」というあいまいな動機で行動を開始していました。
なので西郷軍には明確な作戦はなく、優秀で勢いのある薩摩(鹿児島)の士族を頼りに戦うということしかできませんでした。
翌日も、同じように熊本城へ攻撃をくりかえしますが城内へ侵入することはできません。この日の戦闘だけで西郷軍には200人もの死傷者がでたと言われています。
2日間の戦いから、熊本城はかんたんには落ちないことがわかった西郷軍は一部の兵を熊本城に残して、さらに北上を開始します。熊本城の応援にくる政府軍を迎え撃つためです。
ここから西郷軍は短期での決着をあきらめ、持久戦へと方針をかえていきました。
しかし、熊本城を包囲する部隊のなかには強硬論を捨てきれない指揮官もいて、たびたび熊本城へと攻撃をしかけては撃退されるということをくりかえしています。
このとき西郷隆盛は熊本にはおらず、べつの者に熊本城包囲軍を任せていました。
西郷隆盛のリーダーシップがなくては包囲軍のなかで意思が統一されずたびたび強硬論がでてきて、攻撃をしては撃退されるということを繰り返し、兵や物資を消耗してしまいます。
熊本城を水攻めに!
そこで熊本城包囲軍は作戦を考えます。ここで戦国時代以来となる水攻めを行うというのです。
熊本城の周囲を流れる坪井川と井芹川をせき止め、お城の西から北東にかけて水浸しにします。
しかし、水攻めはお城を攻めるルートを限定してしまうという欠点もありました。お城を守る側からすると、どこから攻めてくるのかがわかればそこを重点的に守れば良いだけだからです。
城攻めを有利に進めるための水攻めが、かえって事態をこう着させてしまいます。
このあいだ、熊本から北上していた別部隊が政府軍との間で戦闘があり、20日間にもおよぶ戦闘のすえ敗れてしまいます。
そして、海軍を自由に使える政府軍は熊本より南の八代に上陸して熊本を目指します。
このままでは、熊本城包囲軍は北と南からの政府軍によるはさみ撃ちにあってしまうため、撤退をすることを決断。
これで約50日におよぶ熊本城の戦いが終わります。
スポンサーリンクまとめ なぜ西郷軍は熊本城を落とせなかった?
西郷軍が熊本城を落とせなかった理由はいくつかあります。
- 西郷軍の兵器が政府軍のものより旧式だった
(西郷軍の鉄砲は雨の中では使えなかった) - 部隊のなかで意思統一ができていなかった
(西郷というリーダーがいないと、無駄な攻撃をくり返してしまい消耗を早めた) - 政府軍は海軍を自由に使えたため西郷軍の背後に上陸することができた
- 反乱の理由が「暗殺計画の真相を問う」というあいまいなもので、政府に不満はあるものの西郷に味方する者が現れなかった
熊本城の戦いののち、西郷隆盛は熊本県、宮崎県、鹿児島県で戦闘をくり返し、9月24日鹿児島で自決します。