お城の歴史

かつては安濃津と呼ばれた【津城の歴史】をまるっと解説

津城の歴史

今回は「津城の歴史」を紹介します。

こんな人にオススメの記事です
  • 津城の歴史をおおまかに知りたい人
  • お城に興味を持ち始めた人
  • 津城へ行く前に予習しておきたい人
  • 津城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人

まずは津城の歴史のポイントを3つ紹介します。
このポイントをおさえておくだけでも、歴史の概要はつかめますよ!

  • 日本三津といわれた津に織田信包が築城
  • 関ヶ原の前しょう戦・津城の戦い
  • 築城名人・藤堂高虎が津城を大改修

お城に限らず、神社やお寺、そのほかの歴史的建造物でも建てられた時の時代背景や歴史を知っていると見学した時により楽しめ、そして歴史ドラマや小説なども理解度が増してストーリーに入り込むことができます。

この記事で津城の歴史に詳しくなってお城めぐりや歴史小説・ドラマをもっと楽しんでいきましょう。

Contents

津城ってどんなお城?

徳川家康から信頼されていた築城名人・藤堂高虎が設計した津城

津城の場所津城の場所

三重県の県庁所在地・津市にある津城。戦国時代に織田信長の弟・織田信包によって築かれ、江戸時代に藤堂高虎によって改修され現在に至ります。

藤堂高虎は何度も仕える主人を変えていた人で、若い頃は放浪していたといいます。のちに秀吉の弟・豊臣秀長に仕えてからは数多くの築城工事に携わり、築城技術を磨いていきました。

秀吉・秀長が亡くなった後、高虎は徳川家康から信頼されていました。まだ徳川家の支配が全国におよんでいなかった時(特に西日本)、家康は高虎の築城術を頼りに近畿地方を中心にお城を築城していきました。

津城もこの家康の築城戦略の一環として高虎によって大改修されました。
それでは津城の歴史を見ていきましょう。

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津城の歴史

ここからは津城の歴史を戦国時代〜昭和・平成まで順に紹介していきます。

戦国時代の津城

日本三津といわれた津に信長の弟・織田信包が津城を築城

津城の石垣|左右で違う時代に築かれている津城の石垣|左右で違う時代に築かれている

津は戦国時代には「安濃津(あのつ)」と呼ばれていました。安濃津は日本有数の貿易港で、中国の歴史書「武備志」には日本三津として博多・坊津(鹿児島県)とならんで安濃津が記録されています。

津城の始まりは、長野氏の家臣で安濃城主の細野藤敦が安濃川と岩田川の間の三角州に小さなお城を築いたこと。(長野氏は伊勢北部に領地をもつ国衆でした)

織田信長が美濃の稲葉山城(のちの岐阜城)を攻めていた時、信長は伊勢へも侵攻してきました。しかし織田軍は細野藤敦が守る安濃城を落とすことができませんでした。長野氏としては信長にこれ以上抵抗し続ける力はありません。そこで信長と交渉して和睦することになりました。そして信長は和睦の条件として、弟の織田信包に長野氏を継がせることでした。

こうして長野氏を継いだ織田信包は、一時期「伊勢上野城」を築城して本拠地にしています。けれども伊勢上野城は狭く不便でした。そこで信包は新しく津城の築城を工事を開始しました。

信包は信長に従って各地を転戦していたので、なかなか津城の築城工事はすすんでいませんでした。それでも信包は10年がかりで津城を完成させました。この津城には安土城天守と同じ五重天守が建てられていたと言います。

また信長が小谷城(滋賀県)の浅井氏を討った後、信包は妹のお市とその娘、茶々・初・江を津城で保護して面倒をみていました。

関ヶ原の前しょう戦として争われた津城の戦い

津城の石垣|この上に櫓が建てられていた津城の石垣|この上に櫓が建てられていた

本能寺の変で織田信長が亡くなった後、弟の信包は秀吉の配下になっていました。しかし秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)のなかで、信包は秀吉の機嫌を損ねてしまったらしく、津から丹波国柏原(兵庫県)へと領地替えになっています。

信包に代わって津城へ入ったのが富田一白。一白は信長に旗本として仕えていて、本能寺の後は秀吉に仕えていました。また一白は茶道が得意だったり、秀吉から外交交渉を任されることが多く、文化人・茶人として秀吉から信頼されていた人物でした。

一白が隠居して、子の信高が津城主のときに関ヶ原の戦いが勃発。

関ヶ原の戦いでは、全国で石田三成の西軍と徳川家康の東軍に分かれて各地で争いが起きました。津城のある伊勢は地理的に西日本と東日本の境目で、東軍派の大名と西軍派の大名が入り乱れていました。そして西軍にとって伊勢は、関東から京都・大坂を目指してやってくる徳川家康の東軍を迎え撃つ上で重要な場所でした。

西軍は初戦となった京都・伏見城を落城させた後、伊勢へ進軍。すると、富田信高の津城を攻めることになりました。

伊勢の東軍大名たちも西軍に対抗して、津城へと兵を集めていきます。それでも3万人の大軍で攻めてくる西軍に対して、津城には1700人しかいなませんでした。

西軍による津城への総攻撃が始まると、津城側も善戦していたけど兵力差を埋めることができずに追い詰められていきます。城主である富田信高も槍を持って本丸を出て戦うほどだったと言います。

信高が戦っていてピンチにおちいりました。そこへ美しい若武者が現れて敵将を討ち取り、信高を救っています。信高を救ったこの若武者はなんと、信高の夫人でした。信高の危機の場面で夫人も甲冑をつけて信高を救っていたのです。

戦いは翌日も続いていて、もはや津城側は限界でした。そこで高野山の僧侶・木食上人の仲介で信高は西軍へ津城を明け渡しました。そして信高と夫人は城を出て、高野山へと向かっています。

江戸時代の津城

築城名人・藤堂高虎が津城を大改修

津城の水堀津城の水堀

津城は西軍の攻撃によって落城しました。けれどもその後の関ヶ原での本戦で石田三成と西軍が東軍に敗れたため、富田信高は津城へ戻ることができました。
その上、津城の戦いでは敗れたものの、西軍に抵抗していたことから領地の加増も受けています。

津城は戦いの中で焼失してしまったので、信高は津城を再建し天守も建てています。

関ヶ原の戦いから8年後の1608年、富田信高は領地替えになり宇和島城(愛媛県)へと移っていきました。代わってはいったのが、築城名人といわれる藤堂高虎です。

高虎は伊勢と伊賀を領地としてもらっていて、伊賀上野城と一緒に津城の改修も開始。津城は拡張されて、城下町も整備されていきます。

徳川家康は外様大名の中でも藤堂高虎を信頼していて、高虎に津城と伊賀上野城をまかせました。
なぜなら家康は津城を伊賀上野城と共に大坂にいる豊臣秀吉の子・秀頼への対策として重要視していて、信頼できる高虎だからこそこの2つのお城をまかせることができました。

高虎の改修によって津城は広大な二重の堀に囲まれたお城へ変わりました。そして18基もの櫓と多門櫓を建てて、防御をUPさせて守っていました。

江戸時代も中頃になって、本丸が火災によって天守や櫓などが焼失してしまいます。この時焼失した天守は富田信高が建てたモノでした。その後、櫓や御殿は再建されたけど、天守は再建されることはありませんでした。

この時、三重櫓が2基建てられていて、天守の代わりとしていました。また三重櫓は櫓のなかでも最も格式があり、津城のように複数の三重櫓を建てるお城は珍しかったです。

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明治時代の津城

廃城令のあと城内の建物は取り壊され、高虎をまつる高山神社が城内に移される

明治になると廃城令が出されて、全国のお城は存城処分と廃城処分とに区別されました。

津城は存城処分となって残されることになり、陸軍の管轄になります。しかし、お城の建物は陸軍にとって不要とされたため、建物は取り壊されていきました。

本丸の三重櫓2基と二重櫓3基が払い下げられた時、名古屋の商人が当時の1000円で買ったと言われています。

のちに津城跡は陸軍から旧藩主・藤堂家へと払い下げられていて、藤堂高虎をまつっている高山神社が城内へと移されています。

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昭和・平成の津城

お城公園として整備され、模擬櫓が建てられる

津城の模擬櫓津城の模擬櫓

太平洋戦争後、城跡は放置されていました。そして戦災復興計画によって幅100mはあったという本丸南側の内堀が埋められています。

この結果、津城には西・北側の内堀の一部と石垣が残されるのみとなりました。

1958年には津市が藤堂家から城跡地を購入し、津城跡が市有地に。そして同年、本丸に模擬三重櫓が建てられました。
この模擬櫓は位置も形も本来の櫓とは異なっています。

1967年からは津城跡が「お城公園」として整備され、のちに津藩の藩校「有造館」の講堂の正門「入徳門」が西の丸に移築されました。1989年には市制100周年を記念して、公園内に藤堂高虎の騎馬像がたてられています。

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津城の歴史年表

1568 織田信長が伊勢に侵攻、細野藤敦の安濃城を攻撃
1569 織田信包が長野氏を継いで、伊勢上野城を築城
1570 信包が津城の築城開始
1580 五重天守をもつ津城が完成する
1594 秀吉の命令で、織田信包が丹羽国柏原へ移される
1595 富田一白が津城に入る
1600 関ヶ原の戦い
関ヶ原の前しょう戦として東軍の津城を西軍が攻略する
1608 富田信高が宇和島城へ移る
代わって藤堂高虎が津城城主になり、幕末まで藤堂氏が治める
1615 大坂の陣での戦功によって高虎は5万石の加増をうける
1662 4月、地震によって城壁が破損
12月、火事によって本丸を焼失する
1670 火災のあとの復旧工事が完了する
天守が再建されることはなかった
1871 廃城令で存城処分になって、陸軍の管轄に
1885 城内の櫓などの建物が払い下げられ取り壊される
1890 津城跡が陸軍から旧藩主・藤堂家へ払い下げられる
1958 津市が藤堂家から津城跡地を購入し、市有地となる
模擬三重櫓が建てられる
2005 津城跡が三重県指定史跡になる
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津城の歴史 まとめ

今回は「津城の歴史」を紹介しました。

津城は織田信長の弟・信包が築城し、築城名人の藤堂高虎が大改修したお城でした。

現在の津城は市街地のなかにあり、明治時代や戦後の市街地化にともなって津城の特徴のひとつである広大な堀が埋められてきました。
現在は本丸の西・北側に内堀の一部が残るのみとなっています。
それでも残された内堀や石垣からは高虎の築城術の特徴を見ることができます。

ぜひ現地へ行った際には石垣と水堀に注目してください。

最後にもう一度歴史のポイントをおさらいしておきましょう。

  • 日本三津といわれた津に織田信包が築城
  • 関ヶ原の前しょう戦・津城の戦い
  • 築城名人・藤堂高虎が津城を大改修

津城へのアクセス

  • 三重県津市丸之内27
  • 電車での行き方:近鉄名古屋線「津新町駅」下車、徒歩15分
  • クルマでの行き方:伊勢自動車道「津IC」から約10分

詳しくはこちら「津城跡(お城公園)|津市観光協会公式サイト



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